離婚した女性を教会が受け入れるために
2002年5月
離婚に至った過程については、問う必要もありません。問題は、その女性は弱い立場にあり、助けを必要としている、ということです。
たしかに、男性もまた、そうです。離婚した男性も、助けが必要です。しかし、女性の場合、しばしば別の問題を抱えています。子どもです。
なみちゃんは、一人っ子。活発な女の子です。ちょっと甘えん坊で、ちょっぴりわがままな、でも素直でよくお話のできる女の子です。先生の背中におんぶされようと、のぼってきたりします。一年生の途中から、学習塾に通っています。勉強は必ずしもすいすい分かるというものではありませんが、意欲的で、何でもいろいろやってみようという積極さがありました。また、同じ塾の英語クラスにも加わり、週に二回、楽しそうにきています。
なみちゃんが小学校二年生の秋、お母さんが離婚しました。
なみちゃんは、そのころから、おとなしくなりました。同時に、塾の宿題をしてこない日があるようになり、 三年生になるころには、書けない漢字もいくつか出てきました。
お母さんは、漢字のテストを見て、塾に電話をしてきました。
「このごろ家でも、自分からしようとしないんです」
昼は仕事のお母さん、勉強の面倒を自分がみてやれないというのもあります。なみちゃんのおばあちゃんが昼はいてくれますが、一年生のころならともかく、学年が上がると、勉強を教えることもできなくなります。お母さんは、なみちゃんに、自分から進んで勉強をするような子になってほしいのだと言います。
塾に厳しい指導をお願いする。それは、よくあることです。親子では感情的になりがちなので、信頼している塾の先生に厳しく言ってもらいたい、というのは、普通のことです。けれども、三年生になったばかりのなみちゃんに対して、自分からがんがん勉強せよというのは、少し高すぎる要求であるように思えました。
そのうち、目に見える漢字テストという形だけでなく、なみちゃんが、積極的に自分を表に出さないがゆえのことだと思いますが、算数のほうでも、理解が進んでいない様子が現れてきました。大きなテストをしたときに、順位が下がっていったのです。
「テストを受ける子が増えてきていますから、順位が下がるのはある意味で当然のことですよ」
塾の説明を受けても、お母さんは納得ができません。やや興奮した口調でまくしたてました。
「でも、私はなみに、自分で何でもちゃんとできる子に育ってほしいんです。一番がいいとかそういうのじゃありませんが、何でも自分一人できちんとできるようになってもらいたいんです。でもあの子、家では私から命じられないと、何でもしないんです。借りてきた猫のようにいつもおとなしくて、自分で何かをするということがなくって、見ていて腹が立つんです。三年生にもなるんだから、自分からすることを見つけてやっていかなければ、あのテストのように、ずるずるとできなくなっていくんだと思うんです。それでいっそ塾をやめさせて、自分からしようとしなければどんなことになるか、堕ちるところまで堕ちていけば、あの子も気がつくかな、とも思うんですけど……」
塾の担当者も、生徒にやめられるわけにはいきませんから、いろいろ説得もします。ただし、さすがいろいろな親子をみている担当者、この母親に意見するような真似はせず、しばらく母親に喋らせるだけ喋られておきました。三十分ほど喋っていくうち、母親も少し落ち着いてきたようで、しばらく続けさせることに落ち着きました。
お分かりだと思います。このお母さん、自分の意志を娘に投影させようと、必死になっているのです。もちろん、離婚して半年余り、生活に必死なのは理解できます。そして、一人娘を自分の手で立派に育て上げようという、強い意志がそこに現れている点もはっきりしています。
お母さんを責めることはできません。女性が一人で子どもを育てることは、並大抵のことではありますまい。また、自分が父親役も果たさなければならないというプレッシャーや、もしかすると、娘を立派な女性に育てて、相手を見返してやろうという潜在意識もあるかもしれません。
ですが、可哀相なのはなみちゃんです。なみちゃんは、頑張っているのに、お母さんには評価されず、つねに否定的なことを投げかけられています。たとえ今の塾をやめたとしても、次の塾で、同じようにお母さんに要求され続けることになるでしょう。
なみちゃんは、今の塾が大好きです。自分を包んで受け止めてくれる、少しくらいのわがままも笑ってきいてくれるし、悪いことはちゃんと叱ってくれる。そこには感情的な圧力も感じることがありませんし、つらい気持ちも紛れます。なみちゃんは、塾に居場所を求めているかのようです。
「家で淋しくない?」とあるとき、先生が尋ねました。
「大丈夫。お父さんいないと、強くもなれるよ」
この言葉に感心して、担当者が、母親からの苦情の電話口で、なみちゃんがこんなふうにも言っていた、と伝えました。するとお母さんは、即座に答えました。
「それは、いつも私が口にしている言葉です。あの子はただ、オウム返しに、同じ言葉を言っているだけです」
たぶん、問題はなみちゃんではなく、お母さんにあるのでしょうし、お母さん自身が気づいて、カウンセリングを受けるような方向に動けば、間もなく改善されていくのかもしれません。
しかし、今は外から何を言っても伝わらないだろうと思います。解決するのは、時だけかも。離婚という事態を、お母さん自身も少し距離を置いて見つめることができるようになり、なみちゃんももう少し成長して自我が目覚めるようになると、この家庭は大きく変わっていく――そのくことを期待しましょう。
これは、塾でのひとこまです。
では、同じような女性が、教会にいるとしたら、どうでしょうか。
そもそも、離婚した女性が教会に通い続けるかどうかという点も問題であり、離婚した女性が教会に救いを求めにくるかどうかという点も問題です。
教会は、そういうところであってもよいのに、なぜか、教会での、幸せそうな人々の交わりは、家庭に負い目のある人をはじき出してしまう力をもっているように見えてならないのは、たかぱんだけでしょうか。
身よりのないやもめを大事にしてあげなさい。
(テモテへの手紙5:3,新共同訳聖書―日本聖書協会)
聖書の時代の状況と必ずしも同一視はできませんが、聖書はたびたび、こうした立場の女性の弱さを指摘し、助けるように指導しています。
はたして教会は、そのような人々にほんとうに開かれているのでしょうか。せめて、そのような人々を拒むような敷居があることにさえ、気づかないでいる、という事態だけは、避けて戴きたいと願います。
私たちは、どうしたらよいでしょうか。
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド