子どもを親の所有物と考えてはならない

2002年7月

 みすみす子どもをだめにすることが分かっていても、それ以上は言えない立場にあるというのは、つらいものです。
 これは教会でなく、塾での経験ですが、教育熱心な親が、小一の息子を天才だと勘違いして、塾の教材では物足りない、もっとひいひい言うような難しいことを大量にさせるのかと思っていたが落胆した、というケースがありました。この子は、外で遊ぶこともゲームもほとんどせずに、いつも家で机に向かって何か勉強をさせられていました。K式教室に通い、少しばかり漢字まで知っているということで、自分は何でもできると信じ込んでいたようです。実に気の毒であり、そして塾側にしてみれば、迷惑です。
 明らかに、このままではこの子は間もなくだめになります。この子が、何か得体の知れない能力をもっていて、天才肌であれば話は別なのですが、プロの目から見て、断じてそんなことはありません。むしろ小一のその時点でさえ、何でも理解できるというわけではなく、言葉の意味を理解するのに鈍いと思わせる部分もありました。
 でも、それを言うと、この子は私たちの塾を辞めさせられるでしょう。それは営業的にもこちらは痛いことです。ただ、よその塾へ行っても同じことですし、もしそのわがままな要求を受け入れてがんがん難問を与え続けてしまったら、間もなくその子は自信をなくし、すべてに無気力になる可能性がひじょうに高いと思います。その子にとっても、不幸なことです。
 塾の指導の限界です。

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 子どもの虐待の問題がよく話題に上ります。そのときも、親だから、という切り札を用意されているゆえに、従来なかなか親を指導することができなかったようです。子どもの権利条約など、子どもが親に属するのでない、子ども個人としての権利や立場が意識されるようになってから、この虐待も、問題となりえた、と言うことができるかもしれません。

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 教会へ子どもを連れて行く。大切なことですが、同時に、子どもには自由に価値判断させ、いつか自分でキリスト教を選べばそれでいい、という考えも成り立ちます。その意味では、小さいころから教会生活をしこんでいくことは、子どもの自由を奪う、一種の虐待のように見られる可能性があるということです。まさか、教会に連れて行くことをそうは思わないでしょう、といぶかしく思われる向きもあるかもしれません。しかし私は、小さい子どもに御輿をかつがせ、神社の祭りに参加させている親を見ると、悲しみと怒りに包まれます。子どもを洗脳しないでくれ、と。それは理不尽な感情には違いありませんが、同じことを、キリスト教会に子どもを連れて行くことに抱いている人がいることは、十分想像できる範囲の事柄だと思います。

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 牧師の子どもという問題もあります。ある牧師の息子は、思春期に疑問をもち、また、牧師の息子というレッテルとプレッシャーから、ぐれていきました。その人は後にまた主に帰ってきたのでよかったのですが、ある牧師の子どもは、教会に出席しないどころか、学校にも行かないでいるといいます。牧師が親として、要求の高い、いわば締め付けを続けてきたことが一つの大きな原因ではないかと言われています。こうなると、大人相手に立派な姿を見せる牧師も、自分の子どもに対して牧会する成果はなかった、ということになるかもしれません。牧会能力と子どもへの教育とは、別の評価でなされるべき場合があるということです。これは難しい問題です。教会員も、つい、牧師のお坊ちゃんだから、と悪意のない「攻撃」をし続けてきたかもしれません。リラックスさせて見つめていくという、簡単で難しいことが、なかなかなされないでいます。

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 子育ては難しいもの。子どもを天から預かり育てることで、自分が親にさせてもらうような思いです。自分がいろいろな経験をして、成長させてもらうような気が、毎日絶えることがありません。まったく言うことをきかない子どもについて、どなり、冷たくさえしながらも、もう祈るしかないという気持ちで過ごす日々。
 ただし、子どもは放任してはいけません。放任は、親の責任の放棄でもあります。子どもの自由にさせている、というのはかっこいい言葉ですが、要するに親が手を抜いているのです。子どもと向かい合うだけの勇気も優しさももたない親ではありたくない、とつねに願っています。箴言の中に記されている子どもの教育は、現代のイスラエルにもそのまま活かされているといいます。神のことばを守り抜こうとする民族の知恵は、蔑ろにはできません。


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