中絶の痛みに対して、教会はなぜ沈黙しているのだろう

2002年4月-2006年2月

 ダビデがサウルに命を狙われてさまよっていたとき、「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり」(サムエル記上22:2)ました。後のイエスの姿を彷彿とさせます。キリストに従った者は、社会的に成功したエリートたちではなく、社会の片隅でただ生きることに懸命で、それでいて生きにくい日々に苦しんでいた人々でした。また、自分が無力であることを知っている子どものようにならなければ、神の国には入れない、とイエスは言いました。
 日本にキリスト教が改めて入ったとき、西洋文明という、富国の目標である西洋諸国の一部として捉えられたせいもあってか、日本では、逆に教育のある、社会的地位に恵まれた人々が多くそれを受け入れた歴史があるかと思います。今も、どこかそれを引きずっているかもしれません。
 しかし、キリシタンの頃は、そうではありませんでした。たしかに、聖書の解釈や理解は十分でなかったかもしれません。けれども、キリシタンの信仰には、イエスに従う本来の生き方がより強く伴っていたようにさえ見えます。

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 本題に入りましょう。現代で、弱者を救うどころか、弱者を虐げている危険を、たかぱんは感じとっています。そして、教界――キリスト教世界という意味での「教界」という言葉です――も、例外ではありません。それが誤解ならばよいのですけれど。
 ある女の人は、人工妊娠中絶の経験があり、悩んでいます。
 今のところ、この苦しみに対して、ほとんどの教会は手を差し伸べてはいないと思うのです。
 教界は、明らかな貧困とか、病気とか、マインドコントロールに関することとかについては、積極的に活動し、救いや伝道をすることは当然だと考えています。しかし、もしかすると、圧倒的に数の多いであろうこの中絶の問題については、なぜか口を閉ざしています。
 教界の指導者に男性が多いせいがあるかもしれません。いまだに、女性が指導者になれない教団もあります。教界が男性の原理で動いているとすれば……言葉はきついですが、女性の痛みを軽くみている、あるいは感じていないのではないでしょうか。

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 アメリカには、中絶を行う医師を悪魔呼ばわりする教団もあります。そうした病院に対しては、暴力も是だと考えている教団があります。日本ではそこまでは進展していないようですが、一般に、教会関係者は一様に、中絶に対しては不快の顔を示して、こう告げます。それは罪だ、と。
 女性がそれをなす、あるいはなさざるをえないことについて、突き放した、冷たい態度でしかありません。ヨハネ8章を思い出します。姦通の女の話です。あれほどイエスが攻撃したファリサイ派の人々も、「罪のない者からこの女に石を投げよ」と言われて、己を恥じて投げはしなかったのです。なのに、中絶をした女性に対して、罪を赦されたと信じている人々が、石を投げているとすれば……。
 中絶の責任は、しばしば男性にあるのではありませんか。男性が何もしなければ、この問題は起こらないのです。それなのに、女性は男性のせいにすることを我慢し、すべて自分の責任であるとして抱え込んでしまいます。ここでは露骨に例証はしませんが、考えてみてください。たぶんに責任は男性にあり、そして傷つくのは専ら女性です。からだで負った傷は、心にも傷跡を残します。からだの傷は消えたとしても(実際、いろいろな形で残るのですが)、心の傷は消えません。この苦しみは、男にはなかなか理解できません。実際に自分の意志でわが子を殺した経験があるならば別ですが。
 母胎を守るためという大義名分があったとしても、この傷は癒せないと思います。まして、経済的な理由や、未成年ゆえの始末、暴力による場合など、どうしたら簡単に立ち直ることができるというのでしょう。

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 かつて、共同体のレベルで、村の人口が増えすぎると互いに飢え死にするなどの考えから「間引き」したときとは訳が違います。今は、個人レベルで、独りで思い悩んで、罪の意識に苛まれているのです。しかも、この数は、表に現れないだけに、実に膨大であることが想像できます。数の上では、青少年の凶悪犯罪どころの問題ではありません。
 だからまた、女性がしばしば、怪しい霊感占いや新興宗教に、次々と誘われてのめりこんでいく、そういうことがあるのではないでしょうか。いわゆる水子供養が廃れないどころか、ますます盛んになっていくのは、その証拠です。本来水子など考えられないという教義のはずの寺が、経営のために、あるいは需要のために、水子供養を実施していく。それはたんに寺がどうだというのではなく、それだけ必要とされているからなのです。
 キリスト教界は、中絶の人を温かく迎える姿勢を示してはいません。その分、もっとキリストの救いに与ってよいはずの女性たちが、決して教会に近寄らず、水子供養や新興宗教に逃げ去っています。

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 中絶をした人が、声を表に出しにくいというのもあります。しかし、かつての登校拒否や引きこもり、家庭内ないし夫婦間の暴力といった問題も、社会問題化し、あるいは受け入れる態勢が調うにつれ、その実態が明らかになり、オープンに議論されるようになりました。そうした問題で苦しんでいた人が声を出しやすくなり、社会もそれを受け入れることができるようになってきました。その意味で、問題を陰湿な暗黙の中に押し殺しているのは、解決にはならないわけです。
 たとえばネットで、動きはあります。「かなしいこと」のサイトを見ると、この問題について声を出し合い、それを運動にしていこうとする真面目な努力を窺うことができます。

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 キリスト教界で、中絶した人を救うための運動・プログラムをご存じの方は、お知らせください。たかぱんは、それに賛同するでしょう。そして、そうした人が立ち直ることができるような福音を、大声で伝えたい気持ちです。
 もちろん、中絶を奨励する必要はありませんが、やはり福音とは、こうした人を救うためにあってよいのではないでしょうか。
 
 
 
【追記】その後、クリスチャン医師として、この問題に真摯に向かい、力強い助けをなしている方がいらっしゃるという情報を、「ジェイ」さんという方から戴きました。本当に、うれしいことです。
 地の塩として活躍していらっしゃるこうした方々が、苦しんでいる人々の力になることを信じています。ここに、その医師のサイトへリンクをしておきますので、どうぞそちらもご参照くださいませ。
 
 http://www.lomalinda-jp.com/index.htm

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