タイパと自己認識

2026年11月6日

いまさら説明を要する言葉ではないだろうが、「タイパ」という言葉自体は、まだ10年程度の歴史しかないのではないかと思われる。時間を節約する感覚で、短い時間で最大の効果をもたらして満足するのがよいことだ、と、多くの人が考えるようになったのである。特に若者に顕著で、それはこの数年、益々強まっている考えであり、半ば常識化しているようにも見える。
 
もちろん、こうなればそれに反する「おとな」の説教も始まるわけで、時間をかけずしてよいものができるだろうか、などという声も出るわけだが、またおとなの古い頭が何か言っている、という程度の冷たい眼差しで、そんな声を聞くことそのものがタイパで削られるようになっていることであろう。
 
そもそも情報量がやたら過剰であるこのネットの時代、ゆっくり丁寧に対処している暇などないのであって、どうにかして情報の洪水を区分けしようとするところから、タイパは必需のアイテムというふうになっているのかもしれない。
 
インフルエンサーなどという言葉がやに権威をもつようになっている。影響を与える者、という意味なのだろう。かつてだったら、「みんなが言っているから」というのが、人が判断を他人に任せる理由のトップだったかもしれない。もっと昔なら、「殿様が言うから」「天子様が仰るから」言うことをきく、という具合だったのだろうか。
 
わざわざ「インフルエンサーが言っているから」とは言わないかもしれない。しかし、本当に怖いのは、誰それに影響を受けている、という自覚なしに、自分で判断をしているつもりになっていることである。
 
さらに怖いのは、自分は主体的に考えている、と思う者を、陰で操ろうとする輩がいることである。「洗脳」とか「マインドコントロール」とかいうものは、意図的に、自分で判断している、という状態を他人につくらせることである。
 
自分は「タイパ」が正しいと思う。思うのは自由である。だが、もしかすると思わされていないか、と問い直す勇気があるだろうか。問い直すゆとりがあるだろうか。そして、そういう自分自身について、認識しようとする意志はあるだろうか。
 
「タイパ」の問題については、「待つ」ことの意義を提言する声が少なくない。私もそうやったことがある。ただ、案外「待つ」ことについての哲学的な、つまり徹底した概念と事象を問うた考察というものが、私には見つからなかった。知っていたのは、鷲田清一氏の『「待つ」ということ』くらいであった。但し、それは現象学的な考察であり、臨床的な試みでもあったために、まだ他の考察の余地があるだろうと考えられる。
 
なお、ここでいう「タイパ」とは、能率よくすること全般を指しているのではない。たとえば料理をするとき、湯を沸かす間に肉の味のつけこみをしておき、肉を焼く間に野菜を刻んでおく、といった段取りの効率は必要である。この段取りを考えるには、些か数学的な能力が必要になるわけである。それは、昨今流行の「タイパ」という言葉が指している事柄とは違うことは、確認しておきたい。
 
また、「タイパ」の意義を推し進めると、たとえば数学なんか自分の将来の夢とは関係がないのにどうして時間をかけて勉強する必要があるのか、といった勘違いを正当化することになる可能性があることも指摘しておきたい。もしも、Aの仕事をするのに役立つ科目が数学だけであると思われたとして、国語だけを学んでおけばよい、というのであれば、それは人が機械になることを意味するように思われてならない。機械は、その機械に与えられた役割が果たせるだけの機能があればよいのであって、他の機能を付けるのは無駄であり、正に「コスパ」が悪い。社会の歯車としてそれだけの役割を果たせばよいのであれば、あなたは数学だけしか勉強する必要はあるまい。それでよいのだろうか。あなたは人間ではないのだろうか。
 
寓喩と言ってよいかどうか分からないが、「タイパ」を恰も大前提のように是認する人は、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読む、あるいは再読するとよいのではないかと思う。何か気づかされるのではないだろうか。その上で「タイパ」を真理と崇めるのであれば、それを私はとやかく言うつもりはないが、自己認識を促すことは、させて戴こうかと思う。



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