聖書とは何か(4)――新約聖書――
2026年11月2日

旧約聖書は、ユダヤ教の聖典でもある。というより、ユダヤ教にとり唯一の正典と見ることが適切であろう。他方、新約聖書は、キリスト教独特の聖典である。旧約聖書と合本にして販売されているものが通例であるが、携帯用に、新約聖書だけの本、あるいは新約聖書と、旧約聖書の詩編を盛り込んだものも販売されている。
中には、伝道用に、紙製の表紙でコストを抑えたものが、無料で教会から配布されることがある。もちろん、教会はその費用を負担している。さらに、国際ギデオン協会といって、寄付や献金を募り、ホテルなどの施設に、比較的良い装丁の聖書を置いている団体もある。
新約聖書は、旧約聖書よりは後の時代に編まれた。イエスが地上で活動をしたことを記録するのがその第一の趣旨であった。イエスが生まれた年を紀元1年だと計算したのが、いまも使われている西暦の数え方である。イエスが十字架に架けられたのが30歳余りのときではないか、と考えられており、その生涯を綴ったのが福音書である。
福音という言葉は、初めて聞くと意味が分かりにくいが、原語の響きは「良い知らせ」という意味である。これはイエスの伝記のように見られることがあるが、もちろん伝記と呼ぶには当たらない。ここにはメッセージがこめられているからである。マタイ伝・マルコ伝・ルカ伝・ヨハネ伝の四種類の福音書が並んでいる。古来、マタイ伝が重く扱われ、トップに置かれてきたが、近代の研究によると、マルコ伝が最も早く書かれたのではないか、と言われている。これらの執筆についての研究は、多くの人の関心を呼んでいる。その書かれた背景を調べることで、何がどのように重視されたか、という点も想像がしやすくなるからである。
四つの福音書のうち、マタイ伝・マルコ伝・ルカ伝の三つは、似た部分が多い。それでこれら三つをまとめて「共観福音書」と呼ぶことがある。それに対してヨハネ伝は、他の三つとは大幅に記事が異なるし、書かれ方も違う。少し系統の違う信仰グループの手によりまとめられたのではないか、とも言われている。時代的にもやや遅めの執筆・編集ではないか、と想像されているが、逆に、だからこそ非常によく調査されて書かれているとの評価もある。ここでのイエスは、かなり劇的に、また超人的に描かれる傾向がある。
なお、この福音書という文学形式は、それまでの文化史になかった、画期的なジャンルであったと見なされている。
福音書の次には、使徒言行録が置かれている。これは、イエスが復活した後、一旦その姿を隠してからしばらくの時期の記録である。イエスの弟子たちが、どのようにして教会をつくり、教えを伝えたか、という初期の様子を伝えるものである。また、その途中でパウロが登場する。パウロは、最初ユダヤ教のエリートだったのが、復活のイエスと出会ってから救われ、命懸けの伝道旅行を何度も繰り返した人物である。アジアからヨーロッパ方面にイエスの救いを伝え、各地に教会を建てたとされる。もしパウロがいなかったら、いまのようなキリスト教はありえない、と考えられている。また、パウロは各教会へ宛てて多くの手紙を書いており、その一部が新約聖書の多くの部分に遺されている。頁数にすると新約聖書の五分の一から四分の一余りをパウロが書いたと言われている。
パウロの手紙は、福音書が成立するより以前に書かれたことが、ほぼ確実である。その意味では、イエスの死と復活から一番近い時期に書かれたものであり、その意味での信頼性もあると言えよう。逆に、福音書は、こうした手紙をひとつの資料として編集されたものとも言える。
新約聖書の多くの頁が、いわゆる手紙である。これには多くの情報が含まれており、また信徒や教会に対する励ましや教えが書かれていて、決して花鳥風月を愛でたような手紙ではない。いわば教義が説明されている、と見たほうが適切であろう。特に手紙の筆頭に置かれている「ローマの信徒への手紙」は、少しばかりかしこまった態度で、キリスト教の教義がふんだんに記されており、理屈が多いが、逆に非常に学ぶべきことが多い。キリスト者が何を信仰しているのか、についてまとまった叙述が見られることは確かである。
最後にひとつだけ、特殊な書がある。「ヨハネの黙示録」と呼ばれるもので、終始幻想的な描写が続く。これは、島流しにされたヨハネと称する弟子が、これから起こること、はっきり言えば世の終わり、終末の出来事を聞かされて書き留めた、という体裁になっている。何が書かれているか分からないから、当時のローマ帝国の迫害の中で、面と向かって批判ができなかった中で、精一杯の抵抗をしたのであるかもしれない。
実は、旧約聖書にも、このように世の終わりの様子を描いた部分がある。このヨハネの黙示録も、旧約聖書のそうした描写を大いに参考にして記していることが分かっている。但し、旧約聖書とは異なり、ヨハネの描く終末には、イエスが登場する。世の終わりに、イエスが登場する、というのは、福音書でイエス自身が語ったことになっている情景を膨らませたものであると言えるだろう。
黙示録という言葉は元来馴染みがないが、隠されていたものが露わになる、という意味をもつ言葉の題である。そのため表現が謎めいているとも言える。また、それ故に、古来多くの人の想像を刺激した。へたをすると、世の終わりはこうである、とその謎を一方的に解釈して、あわてふためくということも度々あった。世の終わりが確かにこのときに来る、などと叫び始めると、狂信的という言葉が似合う情況になるのだが、集団自殺をしたり社会を混乱させたりする、悲しい事実もかつてあった。また、聖書を歪んで解釈するグループは、その終末を予言するようなことをしたこともある。
かといって、それを絵空事とするわけにはゆかない。キリスト教の信仰には、この世界が終わりを告げることがある、とはっきり掲げられているからである。現在の科学で推測されているこの宇宙の始まりは、旧約聖書の創世記の指摘と類似点が多く、宇宙の終焉もまた、聖書の知恵とは無縁ではないかもしれない。こればかりは、私たちにはなんとも言えないところである。
ともあれ、新約聖書は、旧約聖書より短くて読みやすいものの、物語性に乏しいので、イエスの記録やたとえ話など、部分部分に切って味わう方がよいかもしれない。それよりも、困ったとき、悩んだとき、福音書や手紙の言葉が、助けてくれるということがよくある。人生を光で照らす言葉に出会うことが、あるかもしれない。私は、正にそうであった。
最後になったが、新約聖書の何が大切か、というと、イエスという方が何者であるか、を告げているからである。旧約聖書は、イスラエルと全人類とを救う救い主がいつか現れる、ということを予告していた。パウロもそうだが、イエスという方が、旧約聖書がいつか来ると告げていた救い主である、ということを丁寧に文章にした。それらを集めたものが、新約聖書なのである。