聖書とは何か(3)――旧約聖書――

2026年10月27日

「聖」という文字は、後のキリスト教文化の中で呼ばれていった。聖書の中では決して「聖」という呼び方はなされない。「書かれたもの」という意味の語で指すことが多く、正に「書物」のことである。
 
そればかりか、「聖」という漢字のもつ「きよい」という内容ではなく、描かれた人間の歴史は、実に見にくく、汚い。「罪」という言葉についてはまたいずれ触れるが、この聖書、実に罪のカタログのようなものである。人間の中に如何に悪が備わり、人間が如何に欲と裏切りに塗れていることをあからさまにするものである。
 
だから見ていてハラハラする。自分という人間も如何に罪に染まり浸っているかを思い知らされのである。そして聖いのは、人間ではなくて、ただ神にのみ帰すことができるものだということに気づかされてゆく。
 
その「聖」であるが、「分かたれた」というニュアンスが伴うものだと言われている。今風にいえば「特別」というふうであろうか。聖書はまた、「契約の書」というような呼び方もなされた。これを呼ぶときに「聖」の字を飾ったのは、もっとずっと後の時代、恐らく中世以降のことである。
 
この考え方は、旧約聖書にすでに始まっている。何かしらこの世の出来事から切り離されたもの、神との間にこそ成り立つ特別な出来事、そうしたものとして、「聖」という言葉が時折現れるのだ。それは、何か聖人になるようなことを意味するものではないと思われる。ただただ、人間中心のこの世の価値観から離れる、というふうに捉えるとよいのではないだろうか。そう、それは「分離すること」と見るとよいであろう。
 
旧約聖書について簡単に触れる回としたい。ユダヤ教の経典と考えてよいものであるが、ユダヤ教で用いているものと、39巻の並べ方と分類と、少々異なるところはある。基本的には同じであるが、どこを重視するか、という点では、団体によって多少意見を異とする場合がある。ユダヤ教やその周辺に於いてもそうであるし、キリスト教側では、カトリックとプロテスタントでも少しばかり違う。
 
ただ、大筋で全く別ものになっている、というふうには見えないので、ほぼ安心して、販売されているものを手に取ってよいであろう。むしろ問題は、その「旧約」という呼称である。キリスト教だけが用いる「新約聖書」に比べると、「新旧」という言葉は、それだけで価値を定めてしまうかもしれない。そういう理由で、近年「ヘブライ語聖書」というような呼び方を実践している人々もいる。
 
カトリックを「旧教」、プロテスタントを「新教」と呼ぶことがあるのも、正にそういう懸念があるのだが、こちらは近年あまり使われなくなってきている。しかし「旧約聖書」という呼び方は、いまでもスタンダードである。私個人は、「旧」に否定的な意味を載せる必要はないと考えて、キリスト教の理解ではそれでもよいのではないか、と考えているが、ユダヤ教側から見ると、屈辱的で不快な気持ちを抱くかもしれないことは、否定しないでおくことにしている。
 
その旧約聖書は、モーセ五書(律法・トーラー)と歴史書、知恵文学、預言者(預言書)と分類される、39の書から成り立っている。神話のような物語から、イスラエルの視点からではあるが、民族の歴史が記録されたもの、詩や格言のような文学的な香りの強いもの、そして神が民族をどのように見ているかを神に成り代わって指摘する預言者の言葉、というような内容である。
 
分量としては、大雑把に捉えて、新約聖書の3倍くらいの量がある。全部を通読するのに一年くらいかかりそうであるし、一年間で読み通すプログラムというものもあちこちにある。私は日本聖書協会提供の通読表に従って、毎年一度は目を通すようにしている。
 
カトリックでは、いま「旧約聖書続編」という呼称で別にまとめられた文書も、同じ「聖書」のカテゴリーに入れているが、プロテスタントでは、その続編は「聖書」とは呼んでいない。だが、聖書に準ずるものとして理解し、参考にすることはあるし、私は通読するときにその続編も区別せず入れて読み通すことにしている。これは実に面白いし、歴史の中で、あるいは芸術作品の中でも盛んに取り上げられているし、さらに言えば、イエスの言動の中にこの続編を背景をしていると思しきものも見出されるので、プロテスタントの人々も、続編は読んでおく方がよいのではないか、と考えている。
 
旧約の神は厳しいと言われることがある。新約の神は愛の神で、何をしても赦されるが、旧約の神は何々しろとか、しなければ殺すとか、恐ろしさばかりが先立つような評判が、一部にあるのは事実だ。だが、それはうわべに過ぎない。少なくともキリスト教徒はそう理解している。難しい問題でもあるが、旧約の中にも、赦しは非常に多く描かれている。厳しい当たりをする親が、実は子どもを愛してやまない、という図式は決して私たち人間の中でもない話ではない。
 
旧約聖書を全部読み通すことは簡単ではないけれども、興味深い物語もたくさんある。できれば、それを自分とは関係のない物語とはしてしまわないで、その物語の中に自分も登場しているのだ、という臨場感の中で読んでみるのはどうだろう。すると、物語が急に動き始めるのではないかと思う。そして、私たち自身が何者であるのかを、教えてくれるのである。新約聖書の理解のためにも、旧約聖書はぜひお読みになるといい。



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