【メッセージ】心の通じない敵――エリシャ(11)――

2026年10月25日

(列王記下6:8-7:20, ローマ12:17-21)

「打ち殺してはならない。あなたは剣や弓で捕らえた者を打ち殺すのか。彼らにパンと水をやりなさい。そうすれば、彼らは食べて飲み、主君のもとへ帰るだろう」とエリシャは答えた。(列王記下6:22)
 
◆あらすじ
 
預言者エリシャの活躍を辿っています。今日は聖書箇所としてはたいへん長い箇所を拾います。一連の流れがあるにも拘わらず、エリシャの登場が案外少ないのです。それで一度に扱うことにし、まずは物語の筋道を簡潔に見渡してゆくことにします。
 
アラムはイスラエルの北東方向に位置する、シリアと呼ばれる地域のことです。隣接するイスラエルを侵略する眼差しの中で、さあいままた攻撃を加えようとしていたのですが、あいにくイスラエルには預言者エリシャがいました。アラムの作戦が、悉く見抜かれているらしいと気がつきます。
 
アラムの王ベン・ハダドは、内部に密通者がいるのかと怪しみますが、どうやら敵国にエリシャという預言者がいて、すべて見抜いているからだ、と知ります。王はエリシャを捕らえようと、大軍をエリシャ一人に向けました。
 
エリシャの従者がそれを見て恐れると、エリシャは従者の目を開かせます。イスラエルには、火の馬と戦車が渦巻いているではないか。エリヤはアラム軍の目をくらまし、難を逃れます。
 
エリシャはそのアラム軍を、サマリアに導きます。アラム軍は気がつけば、イスラエルの本軍の真ん中に取り囲まれているという醜態を晒します。イスラエルの王ヨラムは、さあ打ち殺そうとエリシャに持ちかけますが、エリシャは、食べ物を十分に与え、国へ帰せと言います。この恩義の故か、アラムはイスラエルを攻めることを一旦止めました。
 
聖書記者は「アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった」と書いていますが、それは次の行で、「その後」と共に吹き飛んでしまいます。いろいろと理由付けをしようとする学者もいますが、エリシャの厚意の効果が長持ちしなかった、というくらいにいまは押さえておきましょう。
 
ベン・ハダド王はイスラエルを攻めてきます。今度は真っ向から首都サマリアを狙います。今度は兵糧攻めでした。サマリアは飢餓状態になり、子どもを互いに食べ合うような凄惨な情況になります。これを知ったイスラエル王は、こんなことになったのもエリシャのせいだ、と怒り狂います。あのときエリシャが敵を殺さず逃がすなど甘いことをしたものだから、こんな羽目に陥ったのだ、と考えたのです。
 
今度はイスラエルの王がエリシャを殺しにかかろうとします。しかしエリシャは慌てず、王の言葉を伝えに来た者に、明日食糧がふんだんに与えられると預言します。王の侍従が、そんなことがない、と馬鹿にすると、エリシャは、そうなるがおまえはそれを見ることができぬ、と告げます。
 
その夜のことでした。律法で隔離が定められた皮膚病、あのナアマンを悩ませた病気の男が4人、城壁の外で相談します。どうせこのままでも殺される。アラム軍に投降すれば、もしかすると生きていけるかもしれない。恐る恐るアラム軍のところに出向くと、誰ひとり兵はいませんでした。そればかりか、食糧や金品がたっぷりと遺されていたのです。
 
男たちは狂喜乱舞しますが、思い直して町にこのことを知らせに戻ります。その知らせを受けて、王は罠ではないかと警戒しますが、果たしてまことにアラム軍は消え去っていました。町の人々はこれまた狂喜の内に、アラムの陣営に出かけ、略奪を恣にします。あの侍従は門番をしていましたが、民衆に踏み倒されて死んでしまいました。エリシャの言った通り、その目で見ることはありませんでした。
 
◆わざわざ
 
ここから、基本的に一部をピックアップして、神からの示唆を受けたいと願います。
 
まず、エリシャが敵の作戦を見抜いていたところから見直します。如何にも超自然的な出来事のようです。エリシャが神の目をもっている、それはいまそのまま受け取っておくことにします。
 
エリシャは、イスラエルを密かに護りました。敵の作戦をすべてお見通しだったので、その作戦ができないように先回りすることができたのです。しかし結局、そのことでアラム王は、エリシャ自身を狙うようになります。アラム軍の攻撃の対象は、いまやイスラエルではなく、エリシャです。エリシャさえいなければ、イスラエル攻略など簡単だと理解したのです。
 
エリシャとしては、アラムの攻撃の矛先を、イスラエル国から、エリシャ自身へと換えさせたことになります。自ら標的になるように仕向けたようなものです。言わば、自分にとり損になる道をわざわざ選んだというわけです。
 
エリシャは預言者でした。神の言葉を預かり、この世に神の意志を伝える役割を担っていました。国を、王を、民を守るために、預言者は立てられています。それが預言者の職務でした。
 
2つのうちのどちらを選ぶかで迷ったならば、自分にとり損になる方を選べ。恐らく多くの人が聞いたことのある知恵の言葉でしょう。良心的な人の言葉のように聞こえ、世間でも聞くことがあります。
 
けれども、そま世間の言葉は、その後損をして不幸に終わった、という人の言葉ではないと思うのです。結局そのことが自分の益になった、自分は成功した、そういう結果があったからこそ、損を選ぶべきだ、というような知恵を発表するのではないでしょうか。損を選んだら成功した、その経験が、人の耳を集める発言となるわけです。「大学など要らない」とか「受験教育をなくそう」とか言って人の気を惹こうとする政治家や学者は、自身大学に行ったのであり、受験を潜り抜けてきたのであり、その恩恵を自ら十分受けてきた立場でありながら、そう言って注目を浴びようとするのです。
 
そしてそれは、得をするための知恵として発されるのであって、一種の「処世術」として流布していることになるのではないでしょうか。
 
いやいや、それは些か意地悪い見方でありましょう。へそ曲がりなひねくれた読み方をしてしまったかもしれません。でも、エリシャがわざわざ自分が狙われるような真似をしたことは確かですし、それを自身で意識していたのか、偶々そうなったのか、その辺りは詮索しないにしても、気に留めておきたいと思います。
 
つまりそうなると、イエスもわざわざ自分が憎まれ、十字架に架けられるように自ら仕向けたのではないか、という眼差しすら生まれてくることになるわけです。
 
◆信仰の目
 
さあ、アラム軍は、エリシャの居場所をドタンだと見出しました。エリシャを目指して「馬と戦車、および大軍」が、ドタンの地にやってきます。
 
果たして、敵は来ました。軍は夜の内にエリシャを取り巻いてしまいます。精鋭のアラム軍が取り囲んでいます。但し、夜襲はかけませんでした。エリシャには仕えている者がいます。ここでは「召し使い」と書かれています。「朝早く起きて外に出てみると、軍隊が馬と戦車で町を包囲していた」のでした。
 
エリシャは丸腰です。召使いはビビります。当然です。「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう」と嘆きます。エリシャは平然と、いったい何を見ているのか、おまえには見えないのか、と告げます。ここはエリシャの言葉そのものをじっくり受け止めましょう。
 
「恐れることはない。私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多いのだ」と言い、「主よ、どうかこの男の目を開き、見えるようにしてください」と祈ります。すると、見えるようになったのだと思います。「山はエリシャを取り囲む火の馬と戦車で満ちていた」のでした。
 
見えるようになる。それはもちろん、普通は見えないものが見えるようになる、ということです。見えないものを見る、それが「信仰」というものでした。むしろ、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(コリント二4:18)というほどに積極的な眼差しを向ける方が、いっそう「信仰」の先陣を行くことになるでしょうか。
 
信仰の目でこそ見えるものがあります。それは、同じ信仰の光に照らされたならば、見えるようになるでしょう。エリシャの言葉で、目が開かれる。目を覚ましていよ、とのイエスの言葉が同時に響いてくる。「目を覚ましていよ」というのは、「警戒を怠るな」あるいは「用心深くせよ」という意味に受け取ってもよいと思われます。目がくらまされないように、見た目に囚われてはなりません。誰もが心配するようなことに縛られてはならないのです。
 
あの「火の馬と戦車」は、直接アラム軍を攻撃するためのものではありませんでした。どのようなメカニズムによるのかは分かりませんが、エリシャの神通力で、とでも言いましょうか、アラム軍はふらふらとサマリアに向かいます。ドタンはそこからそう遠くない場所にありました。
 
当人たちは、サマリアを攻めるつもりで向かった気持ちでいたのかもしれません。が、当然この動きを知っていたイスラエル軍は、このアラム軍を待ち構え、取り囲んでしまいました。「主よ、この者たちの目を開き、見えるようにしてください」とエリシャが祈ると、アラム軍は目が覚め、恐怖に包まれました。もう袋のネズミでした。
 
さあ、イスラエルの王は興奮します。王はエリシャに「打ち殺しましょうか。打ち殺しましょう」と、もう子どものように喜んでいました。
 
22:「打ち殺してはならない。あなたは剣や弓で捕らえた者を打ち殺すのか。彼らにパンと水をやりなさい。そうすれば、彼らは食べて飲み、主君のもとへ帰るだろう」とエリシャは答えた。
 
◆抑止力
 
エリシャの恩義の故、「アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった」のに、「その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集して攻め上り、サマリアを包囲した」のは、先ほどあらすじで申しましたように、一見矛盾しています。エリシャのかけた情けがアラム王には通じなかったことは確かです。この敵には、そんな心は通じませんでした。
 
アラム軍がサマリアを襲ってきます。「全軍を招集して」のことでした。攻撃を仕掛けてはきません。ただ包囲をします。いわゆる「兵糧攻め」に出たのです。サマリアは危機に陥ります。悲惨な姿を見た王は憤り、その怒りをエリシャに向けます。だからあのとき袋のネズミの敵を壊滅させておけばよかったのだ。そうすれば、イスラエルの恐ろしさに震えて、アラム軍は本当に二度とイスラエルには来なかったに違いない。
 
エリシャが敵をみすみす逃したために、アラムはイスラエルを舐めたのだ。だから言わんこっちゃない。情けが通じるような奴らじゃないのだ。王は政治家でもあり、軍師でもありますから、政治家や軍師ならばそのように考えても当然だったことでしょう。
 
では、キリスト者ならば、どう考えるのでしょうか。我が手中にある勝利を譲り、敵を赦すようなことが、クリスチャンの道なのでしょうか。
 
些か政治的視点が関わってきますが、決して現実の政治論ではなく、抽象的な考えだとご理解戴ければ幸いです。いわゆる「抑止力」というものについてです。互いに強力な武器をもっているからこそ、互いに相手を攻撃することを躊躇させ、平和を実現することができる、という考え方です。報復を恐れるから攻撃を仕掛けない、とするのです。
 
他方、強力な軍隊をもたないことこそが平和なのだ、という考え方もあります。もしも軍備をもたなかったら、悪意のある国が攻めてくるかもしれません。でもそのときにも何もできないわけです。それでいいのか。だから軍備増強が必要になる。そういう声が勇ましく世に響きます。そして呑気な平和主義者を「腰抜け」だとか「平和ボケ」だとか言って嗤うのです。そして彼らは、目の前で家族が殺されるのを黙って見ているのか。そのように感情を揺さぶることを持ちかけもするでしょう。
 
けれども、いまや「戦争」というものの概念が、過去とは異なるのです。戦国の合戦の中で、鉄砲を使った織田信長は卑怯呼ばわりされたかもしれませんが、やがてその戦い方が当たり前になってゆきました。第一次大戦のときには飛行機はまだ大きな戦力となるだけの技術を持ち合わせていませんでしたが、第二次大戦での飛行機は、その性能が戦争を左右し、また無差別な爆弾が戦死者を増やし、あげくは原子爆弾まで使われるに至りました。
 
いまや無人で爆弾を運ぶ機器があり、コンピュータやAIで、遠隔地からピンポイントで攻撃を仕掛けられます。否それどころか、無駄に建築物を破壊することなく生き物だけを殺傷する兵器もあり、かつてのものより破壊力のある核爆弾は、地球が何度も消滅するほどのものが現に存在しています。とても「目の前で肉親が殺されても」というようなレベルではないのです。
 
すでにイラク攻撃のときにもそうでしたが、ウクライナやガザの映像は、リアルタイムで現在の戦争というものを思い知らせました。当初は珍しがられ、可哀想にと逐一報道された、攻撃を受けた現地の画像や映像も、だんだん報道されなくなりました。それと共に、戦争の悲惨さを感じた市民感情も薄れてゆきます。まだやっているのか、という程度の感想しか持ち合わせなくなっているとは言えないでしょうか。
 
それでもその間に、現地で逃げ惑う市民には容赦なく攻撃がきます。でも、遠くから見ている者にとっては他人事です。日本の私たちのこの周りの風景があんなふうにならない、と見込んでいるのです。軍備を、もつ国にすらあのようなことが起こるとなると、軍備のない国にはどんなことが起こるのか、想像を超えたものになるようにも思われます。
 
エリシャのような聖書の時代には、戦争は肉弾戦が多かったことでしょうが、大がかりな武器も確かにありました。しかし国際間に「戦争犯罪」などと称するルールがあったわけではありません。もっと残虐な仕打ちを受けました。そのことは、その言葉に対しても目を背けたくなるような事態の描写が、特に旧約聖書には犇めいています。実に酷たらしい殺戮と制圧の姿を、私たちは、もっと切実に読むべきではないでしょうか。
 
◆赦し
 
それでも、です。攻めて来ながらエリシャにいいように扱われた宿敵アラムの間抜けな兵士たちを、エリシャは見逃しました。あまつさえ、飲食を十分与えて、客扱いまでして故国に帰らせました。宗教的には、「赦した」と言うべきかもしれません。
 
こういうとき、マタイ伝はその道に長けています。そのシチュエーションには拘泥せず、イエスの口から出たという言葉を思い起こしてみます。
 
あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。(マタイ18:22)
 
自分が少々ひとを赦したからと言って、イエスはよしよしと褒めてはくれません。七の七十倍というのは、具体的な回数を意味するのではなく、もう限りなく、徹底的にいつまでも、ということを言っているのは明白でしょう。
 
このように、キリスト教は確かに「赦し」を説きます。時に、できるはずのないことをも、新しい掟として命じます。
 
しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:39)
 
目の前に画が浮かんできそうなくらい、具体的な有様で突きつけられます。まさか、そんなことができるわけない、と叫びたくなります。それがイエスの命令ですか、と打ちのめされるしかありません。でもこれは、究極的には行き着くところにまで行きます。
 
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)
 
エリシャのしたことは、このようなイエスの言ったこととつながりを強くもつような気がしてなりません。あるいはむしろ、イエスがこのエリシャのしたことから何らかのヒントを得て、何らかのリスペクトを払って、新約の時代にイエスの教えへと完成していった、とは考えられないでしょうか。
 
◆炭火
 
もちろん、ここでのエリシャのしたことが、イエスの教えとぴったりと合うのだ、と言いたいわけではありません。エリシャは、無条件に赦したのとはまた少し違うように感じられます。  
22:「打ち殺してはならない。あなたは剣や弓で捕らえた者を打ち殺すのか。彼らにパンと水をやりなさい。そうすれば、彼らは食べて飲み、主君のもとへ帰るだろう」とエリシャは答えた。
 
敵対する国から、イスラエルを破滅させようとやってきた敵を殺す、絶好のチャンスでした。否、ごく当たり前に、千載一遇とばかりに、殺すしか選択肢がないはずでした。その敵に、塩を送るどころか、ご馳走まで振る舞って、にこにこと故国に帰したのです。それで、エリシャのしたことは、ローマ書12章でパウロが書いていることの方に、むしろ近いのかもしれません。
 
19:愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。
20:「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
 
「燃える炭火」を頭に積むというのは、本来憎むべき相手に優しくすることにより、相手が自らの過ちに気づき、恥を覚えて改心することを期待するためのものを言います。犯罪者に実際にそのようなことをさせて悔い改めさせるということがあったのかもしれません。比喩的にではありますが、このような言葉は、箴言にも見られますし、パウロもこのように使っています。一部では広く認識されていた考え方なのだろうと思われます。
 
敵を赦すばかりか、厚遇する。それで相手は恥じて、もう二度とそのようなことをしないと誓う。人間の良心を信じたような、優れた道徳話ではそれは成功することでしょう。しかしそれは、現代社会では通じることがあるのでしょうか。甘っちょろい、ほのぼのとしてお伽話に過ぎないのではないでしょうか。だとしても、イエスはそのように赦せ、と言ったのです。
 
アラム軍がそんな恩に涙し、回心するようなことは、結局ありませんでした。でも、一旦はエラム軍は攻撃を思い直したことが、列王記には書き留められています。エリシャはとんでもないお人好しでした。イスラエル王が激烈に怒るのも無理はありません。
 
◆掌の上
 
そこでエリシャはエリシャで、落とし前をつけます。エリシャの想定内だったと思いますが、アラム軍は再び来ました。あらあら、だから赦すなんて甘いことを言っちゃだめなんだよ、抑止力の方が優れているよ、と言いたくなる人がいるかもしれません。その人から見れば、エリシャは実に能天気なお伽話の主人公なのでしょう。
 
アラム軍の兵糧攻めに遭いサマリアは機能不全に陥ります。王は、エリシャがあのとき変な情けをかけたことの結末がこの酷たらしい兵糧攻めなのだ、と怒ります。
 
それに対してエリシャは、明日すべては解決する、と言いました。その立役者は、4人の感染病の患者でした。ふだん市民から遠ざけられ、罪人呼ばわりされ汚れていると見下されていた4人の男たちでした。敵軍の不在を最初に発見し、さらにサマリアの当局に報告したのです。この場面は、ただ読めば情況はすべて分かります。ときには物語を味わい知るという意味で、ぜひまた叙述を辿ってみましょう。奇想天外な展開ですが、やたらと歴史記録や想像に基づいて、なんとか説明がつくように努めよう、とする必要はきっとないでしょう。私たちは神の業としてこれらを見ていますから。
 
これらすべては、エリシャの掌の上で転がされた出来事でした。孫悟空は、自分では幾ら果てしなく飛び回っているつもりになっていても、しょせん釈迦の掌の上にいるだけでした。まして神の掌の上にこそ、この世界はあります。すべて人と世界は、神の掌の上で働いています。アラム軍如きが、エリシャの思惑の外に出て行くはずもありませんでした。だからこそ、軍の作戦などすべてエリシャに読まれていたわけです。
 
アラムの作戦などエリシャは全部お見通しでしたし、頭に炭火を置かれるような経験もアラムはしました。でもそれを覚ることなく、反逆に出ました。それでもエリシャの掌の上で事は起こり、サマリアは救われました。
 
先ほど、マタイ伝18章から引きました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」(マタイ18:22)という言葉ですが、最後にこれのシチュエーションを振り返っておきます。
 
何百億円とも何兆円とも推測される額の借金を背負った僕が、王に全額赦された話でした。その僕は赦されるやたちまち、自分が100万円ほど貸していた者に、すぐに返せと暴力を振るい、挙げ句訴えて牢に入れます。もちろん主君はこの僕に厳しい報いを与えました。彼には、ひとの心が通じなかったのだ。
 
赦された、ということを知らない者、あるいは忘れてしまった者は、赦すその心が通じません。心の通じない敵は、この話の中で厳しい審きを受けました。私たちがもしも、自分が赦されていることに気づこうともしないで、傲慢な振る舞いをしているようなら、それと同じことなのです。私たちは、神からどれほど赦されているのか、そして人々からもどれだけ寛容に扱われているのか、この朝、よくよく思い返そうではありませんか。



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