聖書とは何か(2)
2026年10月21日

私が聖書を読むようになったのは、ひとつの小説がきっかけだった。友人が、感動した、という何気ない知らせからだったから、偶然と言えば偶然である。読んでみた。すると何故だか説明できないが、小説の中に出てきた詩編の言葉が、心に留まったのである。そのとき私は哲学科の学生であったのだが、西洋哲学を専攻していながら、自分が聖書というものを読んだことがなかったことに気づいた、ということも重なったことで、聖書を初めてまともに開いたのだ。
京都で下宿をしていたが、福岡から、国際ギデオン協会の和英対訳の新約聖書をもってきていたのだ。その聖書は、高校で配られたものだった。同級生にカトリック信仰の女子がいて、どうやら働きかけたらしい。まともに読みはしなかったが、それを福岡から幾らかの本と共に送ってきていた。それが私の人生を変えることになった。
いまにして思えば、特に意味が分かって読んでいたとは思えない。だが、聖書の言葉というものは、長々と続く話の中の、ほんのひとつの文、そこに心が捕らえられる、ということがある。そこだけが輝いて見えるのである。
あるいは、こんなこともあるだろう。教会の前に、よく聖書の言葉が、短い一句として掲げられていることがある。その言葉が、何故だか知らないが、心に留まる、あるいは心に刺さる、という経験をもつ人は少なくない。
どんなふうに留まるのか。それは人さまざまであり、その言葉さまざまである。自分の心の疚しさのようなものを言い当てることもある。おまえはこんなふうではないか、と見せつけられるような思いになるのである。また、不安や困難を胸にくよくよしていたときに、ああそうか、と光が射してくるような思いにさせられることもあるのだ。頭を掴まれて、こちらを見ろ、とでもいうように、ぐいと後ろを向かされるようなものである。しかも、そこには、悩んでいた問題の答えが、あるいはそのための希望が見えるではないか。
後々、その聖書の言葉の意味を調べてゆくと、かつてその言葉から受けた希望とは、また少し意味が違うようだ、と思わされることもある。つまり、ある意味で最初に受けた衝撃は、聖書の読み方としては普通適切でなかった読み方によるものであったと知ることがあるのだ。
そうなると、あのとき受けた示唆というものは、偽物だったのか、という気になることもあるだろう。だが、私はそうは思わない。聖書を正しく読む、という基準など、ある意味でどうでもいいことである。あのときあの聖書の言葉に出会って、自分は光を受けたのなら、それでよいではないか。それで道が与えられ、いまの自分へ繋がり喜んでいるのなら、それでよいではないか。
さらにそこから、聖書を積極的に読むようになり、オーソドックスな「信仰」をもつようになっていたならば、最初のきっかけは、方便としてどんな形でもよいのではないだろうか。
聖書をそのように理解するのは間違っている――そういう指摘が必要な場合は確かにある。だが、その人を聖書の世界に招き入れるためには、なんらかの形で聖書の言葉が、その人の心を抉るように、あるいは引っ張るように、強く働いたというのであれば、それは神の導きなのである。
最近、ある方がコメントを寄せてくださったのだが、その方は特に教会に通っているのではないらしい。でも、以前闘病生活の中で、開いた聖書の言葉に支えられていた、と仰っていた。それでよいのだ。
聖書には、神は「ことば」だ、というような書き方がなされているところがある。また、聖書の言葉は命のことばであって、神の言葉は必ず実現する、というようにも宣言されている。その言葉に出会って、自分が支えられたのだ。勇気が与えられたのだ。変えられたのだ。それは、私のような者から見れば、神が働かれたのだ。それを教義的には、聖霊が働いた、とも言う。
聖書の言葉が、何か小さな言葉であっても、働いたらいい。どんな形でもいい。自分は聖書の言葉と出会った、と言えるような経験を、多くの方に持って戴きたいと願うのだ。