死者たちを生きてゆく
2026年10月19日

聖徒の日。亡くなった方を偲ぶと共に、復活の希望を語る。教会によっては、先に天へ召された教会員の名前を読み上げるところもある。当教会はそれを礼拝の中で行うと、それだけで時間が尽きてしまうほどであるから、プログラムとしてはできない。また、ある教会では、遺族が写真を持参して、その写真を講壇の前に並べて共に礼拝するという形をとる。すでに天で神の国の礼拝で賛美している方々と共に、私たちもそこに招き入れられるという礼拝を共に過ごすのだ。
マルコ伝の連続講解説教は、今日のこの日のために、一カ所を飛ばして進めてきた。わずかな週のずれだが、ここを後回してしてきたのだ。つまり、ここは「復活」を解いているのである。マルコ伝の12:18-27の、復活問答が開かれる。
「復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻になるのでしょうか」とイエスに迫ったのは、サドカイ派の人々。現実的で、政治的な振る舞いをモットーとする。モーセ五書に固執する余り、そこに「復活」が説かれていないという理由で、「復活はないと言っている」のだった。
論拠とするのは、モーセの律法である。「ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない」という規定があることは否定しませんよね、とイエスに意地悪く寄ってくる。いわゆる「レヴィラート婚」と呼ばれるものである。
説教者も指摘したように、これに類することは日本にもあった。ただ、もちろんそれは律法によるものではなく、「家」を守るという目的のためであった。後継ぎの子がなくして夫が亡くなった場合、その家名を継ぐために、その弟が兄嫁と結婚する、という慣習である。その目的であった訳ではないが、私の身近なところでもそのような事実は認められるから、世の中ではきっとずいぶんあったことなのだろう、と思う。特に、ずっと昔は、女は子を産むための財産だという見られ方をしていたことがあり、家系図があっても、ただ「女」としか記載されていないことも当たり前であったという。
サドカイ派は、また極端な例をもってくる。ただ一人の弟がそうやって兄嫁をもらった、というだけでも論理は十分であるだろうに、その弟も死に、さらにその弟が結婚し……というように、七人の兄弟が同じ女と結婚したという物語をイエスにぶつけた。そして持ちかけたのは、「復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻になるのでしょうか」という問いだった。もちろん、サドカイ派は、復活を否定したいのであるから、背理法のように、矛盾するが故に復活はあり得ない、という結論をイエスの口から言わせたかったのである。
復活の思想が明らかになってくるのは、旧約聖書でもずいぶんと後のことである。預言者の書の中でそれらしいことが登場すると言えるが、より明確になるのは、いま私たちが旧約聖書続編と呼んでいる書の中である。イスラエルがバビロン捕囚から戻ったものの、依然として巻き起こる周辺大国との戦いを経る中で、明確になってきたイスラエルの希望として、復活が信じられるようになっていったように見える。
サドカイ派にとっては、復活を前提に教えを施すイエスは、厄介者であったに違いない。基本的にローマの支配を受けその属州扱いを受けていることには協力的、と見てよいだろうと思う。政治的な動きは、ただ一つの理由だけしかないわけではないので、軽率なことは言えないが、ローマの宗教には到底ないであろう「復活」という概念を強調することは、何かと権力から睨まれかねないものだったのではないだろうか。
さて、七人の兄弟が次々と死ぬ――どうしても、マカバイ記二の7章に描かれた、七人の兄弟の殉教が頭に浮かびます。この物語はユダヤ人たちの知るものだったと思われますから、いくらモーセ五書を信仰するサドカイ派と雖も、知らずして偶然に七人の兄弟という、必要以上にオーバーな結婚の例をイエスにぶつけはしなかったのではないでしょうか。
「復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」と、サドカイ派の人々がイエスにバトンを渡します。真面目に尋ねているようなふりをして、口元が思わずほくそ笑むようになっていたのではないかと想像します。これに対してイエスは、どうやらすぐさま返答したようです。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」とは手厳しい。
説教者は、そもそも彼らのもちかけた話は、とても抽象的で、理屈ばかりを通そうとしているのだ、と指摘した。そもそもが作り話なのである。女というのは誰か。名前もないし、具体性はどこにもない。相手を「論破」しようとする者がよく持ち出す手法である。極端な例を持ち出す。相手の主張にひとつだけミスがあることを挙げる。それで、相手の主張は全部間違っている、と高笑いする。自分がもし責められたら、なんとか相手の不備を持ちだして相手が正しくないことを周囲に見せようとする。実にフェアではないのに、誠実な人はそれで黙ってしまうし、黙らせた方は「論破」したと自ら大声で宣言する。できるだけ早めに議論を切ってしまえば、逃げ切り勝ちとなる。
イエスは静かに――たぶん静かに――告げる。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ」と。復活のときの姿は、この世での夫婦とか親子とか、そういう関係の中で説明しなければならないことなのだろうか。否、天使を想像してみたら、それに近いものだと見てもらいたい。
そして、「モーセの書の『柴』の箇所」にあるように、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を知っているだろう、ともちかける。相手はサドカイ派だ。モーセ五書を信仰している。そのモーセが、初めて神と出会って呼びかけられた場面のことを根拠にするのは実に効果的だろう。このとき、誰それの神で「ある」という言い方が強く響いた。現在のことである。過去のこととして述べていたわけではない。そこでイエスは強く宣言する。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
ここから説教者は、教会の人々へ心を差し向ける。その一つひとつをここに記すことはできないが、家族を亡くした人々への、慰めのメッセージとなってゆく。必ずしも、今日の聖書箇所を説き明かすとばかりは限らない。自由なイメージも交えながら、死者の行方を神と結びつけて語ろうとするのであった。
神は、決して墓の中で肉体的には朽ちた人をも、その胸に懐いており、神とのつながりを断つようなことはなさらない。私たちがその方と、共に生きて共に喜び、あるいは共に悲しんだそのことも、すべて神の内の出来事であり、神が取り次いでこそありえたことなのだ。教会でこの一年間だけをとっても、幾多の方々を天に送ってきた。説教者はそれを告げると、エジプトの宰相として兄弟たちに身を明かすときのヨセフのように、もはや感情を抑えることができなくなり、涙と共に言葉を零すのだった。
神は強い絆で導いている。生きておられるその神が、アブラハム・イサク・ヤコブの神であると共に、この教会で名を刻んだ信仰者たちの神でもある。神がその人たちの魂を、手放すことはありえない。イエスがここから、自ら十字架の運命を受け容れて、葬られるところまで経験なさったことを、片時も忘れてはならない。
そのイエスは、葬られて3日目に起きた。目覚めさせられた。復活させられた。そのように、私たちと共に礼拝した方々のところへも神は来て、呼び起こしてくださるであろう。
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)
今日のこの、生きている者の神だ、ということと、イエスを信じる者は死ぬことはない、ということとは、神を知らない人からすれば別々の命題であるかもしれない。だが、信仰者は、これらの言葉をひとつに結びつけることができる。否、これらはひとつのこととしてしか見えてこない。魂の中で、ひとつになっている。
説教者の語りは、いつでも感覚を連れてくる。目の前に風景が浮かんでくるとか、音楽が、あるいは風の音が聞こえてくるとかいうふうに。今日は、歌声が聞こえてくるだろうという言葉があった。先に天に召された方々が、「いま」どうしているかなど、聖書は語らないし、私たちも知ることがない。ただ、聖書に書いてあることから推測するに、天上の大宴会の中で神を賛美しているに違いない。私たちが地上でこうして礼拝しているのと、どのようにだかは知れないが、共に神を礼拝し、神を賛美しているに違いない。説教者は確信をもってそう語る。また、これは「いつか」先のことであるにしても、もっとリアルに、その方々の歌声を聞くことがあるだろう。賛美の大宴会を見ることがあるだろう。そしてまた、芳しいキリストの香りを漂わせているはずだから、その匂いも感じるようになるだろう。
そして説教者は、最後に謎の言葉を以て、礼拝説教を閉じた。「私たちは、死者たちを生きてゆく」のです――。
通常の日本語に、なっていない。そして、それは心をぐいと掴んで話さない力をもった言葉であった。それは、見送った死者たちのことを思いつつ生きてゆく、ということだろうか。彼らも私たちと共に生きていると信じてのことだろうか。私たちもいずれその中に呼び寄せられるが故に、死者となっても生きてゆく、ということを考える人がいるかもしれない。ただ単に、いま目に見えず会うことのできない愛しい人があの天に確かにいることを信じるために、天を見上げ、「天の父よ」と呼びかけて祈ることをしてゆこう、という誘いなのかもしれない。
あるいは、いまこうして生きていることについても、常に死を背負って、あるいは死というものからの反射光を受けながら生きてゆく、ということを考えるべきだろうか。ちょうど、ハイデッガーが「死への存在」を想定したように、そもそもが死というものを「いつか」というものとしては捉えず、「いまここ」で正に受け止めてゆく、というような構図をイメージするとよいのだろうか。いやいや、私たちも、また送った死者たちも、神が与える命によって生かされており、生かされて行くのだ、という信仰の言葉なのだろうか。あるいはまた、死者たる経験があった後にも、私たちは神の国に於いて生きるということの表明であるという可能性はないか。この地上でいま生きている私たち限定で、私たちだけへ向けての言葉だったのだろうか。そもそもこの「私たち」とは誰なのだろうか。
そのどれもが当てはまるようでもあり、そのどれもが当てはまらないようでもある。何かしら風を受けて、ある時に、ふとその言葉の意味の光が射してくることを期待しながら、今日もいつも、懐に温めておきたいと思う。「私たちは、死者たちを生きてゆくのです」という言葉を。