作文にはメモが必要

2026年10月19日

世の中には、自分の授業がよくできた、などと自己愛に溢れた奇妙な人もいるものだが、私は、自分の授業なんて、よろしくないものばかりだ、といつも考えている。だが先日、珍しく、結果的によかったのではないか、と思えることがあった。ふとした思いつきだったが、国語の授業である。中学2年生の、成績の良い生徒たちのクラスでのことだった。
 
「作文」を書かせる、というのが指定された授業内容だった。以前一度試しに書かせたこがあったが、今回は中3になる準備も含めて、基礎からきっちりと書き方について学ぶという意図があった。
 
福岡県の公立高校入試には、必ず国語で「作文」が出題される。指定されたテーマで、というのもあるが、基本的には、目の前に資料や題材が与えられ、それについてのコメントと理由、また関連して自分の具体的な経験といったものを含めた、200字程度の文章を書くものである。これだけで国語の点数全体の四分の一くらいが与えられるから、「書く」「表現する」能力が、それなりに高く評価されることになる。
 
内容よりも、条件を守って書けるか、ということが評価の対象である。条件が守られていないと大幅減点か、零点の可能性もある。その他、誤字脱字や文法的な誤りについては逐一減点される仕組みとなっている。もちろん、筋道が通っているか、という面も調べられるが、一定の採点基準があるから、基本的に不公平なことはない。
 
よほど書き慣れた生徒ならばできるかもしれないが、頭に思い浮かべただけで、条件を守り論理が通っている文章を一発で書くことは、まず無理である。200字でしかないが、逆に200字の中に条件をすべて詰め込むというのは、簡単なことではない。
 
だから、まず「条件」が書かれてある部分を囲むなどして目立たせ、それからメモをするように、と指導する。メモをすれば、それに従って言葉を置いてゆく作業が滞りなく進む。少しばかり練習すると、それは殆どの生徒に可能になる。メモをとらないと、途中で、「次に何を書こうか」と手が止まる。これについては、私はずばり「下手」だと宣言する。結局流れがつかめず、適切な着地に辿り着けない。200字と少ない字数だからこそ、最初にまず結論、そして結論へ至る道しるべを決めておかなければできないのである。小説でも、短編を書くのが難しい、と言われる所以である。
 
ある課題を与えた。二つの意見のうち、どちらに賛成かを選び、その理由を添える。続く段落には、それについての自分の具体的な経験を記す。こうした出題であった。比較的優秀な生徒たちであるから、それなりに書き進めることができた。いくらかでも書き慣れているかどうか、多少の差はあったが、大差がつくものではなく、10分間という制限の中で、皆書くことができた。
 
隣同士で交換して、他人の目から見て書き間違いや主語述語の狂い、そして条件を満たしているかどうか、の検査をさせた。その場で私一人で全員の作文を見て評することは不可能であるからだ。ここまでは、普通の「作文」の授業としてのルーチンワークだったと言えよう。
 
残り半分の時間で、では今度は私が集めて後で見るから、という宣言を、して、もう一枚の紙を配った。そこには、先ほどと同じ作文の出題が印刷されていた。生徒が訊く。「丸写しして提出ですか?」――隣の人に指摘された欠陥を修整して提出する、生徒がそう考えたのも無理はない。だが、私は観察していた。あれほど言ったのに、メモひとつせずにいきなり綴り始めた生徒が何人もいたことを。
 
そう。メモをする時間が無駄だ、と思い込んでいる生徒がいるのだ。もちろん、メモをしないことで、途中で考えながら書く方が、実のところ時間を要するものである。道しるべなしに目的地に行くようなものだから、途中で立ち止まり、いろいろ考えながら文字を置いてゆくことになるわけだ。道しるべがあることで、いわばプログラムに沿って進めばよいだけのこと。早足で歩くことができるのだが、どうもそれが分からない。メモを書かずに、自分は自分の考えを書くことができる、という気になっている。
 
「丸写しではない」と私は説明した。「今度は、先ほど選んだ、自分が賛成した意見と、逆の意見を選んで書きなさい。」
 
生徒から驚きの声が上がった。私は、ルールを確認した上で、すぐに書き始めさせる。また10分間を計る。こうして書かせると、手の進み方に大差が見られるようになった。お分かりだろう。メモをとった生徒の方が、明らかにスムーズに書けているのである。
 
自分の内にある考えだったら、その理由も経験も、自分にはよく分かっている。メモなんかとらなくても、自分の思うことは書ける。そのような安心感から、メモを軽視する生徒が多いのではないか、と私は睨んでいた。そこで、自分が本来賛成しない方の意見に賛成しろ、と命じたものだから、自分の中にある自然な感情をぶつけることしかできない生徒は、手が動かなくなってしまうのである。
 
ところが、自分の考えでさえメモをしてから書くのだ、と私の指示通りに最初から従っていた生徒は、今度も、さっさとメモをとることから始める。本来自分の中にはない意見ではあるが、そのように「演じてみる」ことで、それなりの理由を考えて、メモをする。なんとか他人の立場に立つような気持ちになって、具体的な経験も捜し出す。そうすると、時間内に「作文」が書けてしまう。そういうものである。
 
回収した後で、私は別の話も加えた。アメリカなどでは、ディベートという議論が盛んである。それは、自分の感情とは関係なく、賛成派と反対派を指名し、討論をさせるのである。これにより、論理による話し合いがどのような形であってもできる訓練ができる。自分の感情だけの意見なら、「とにかくこれが正しい」という思いに唆される。相手の論拠は絶対に認めないで、自分が正しいという一点張りの考えにしか立てなくなる虞がある。
 
だが、相手の立場の正しさも、どこかで認めた上で、論理的に、自分の意見の方が通るべきだ、という筋道をつくることの方が、論理的な議論ができる。感情で決するような場合には、そういう感情をもつ相手の人格を攻撃したり否定したりすることになりかねないが、より「事柄」に対する意見を戦わせることが可能になる側面があるというものだ。
 
そこまで突っ込んだ話はしなかったが、察しのいい生徒たちは、主旨は理解してくれたと思う。それよりも、メモの必要性というものを、味わったのではないか、と私は思っている。感情で流して文章を綴るのではない。なんとなくいつも喋っていることで筋が通るとは限らない。メモという形で自分が言おうとしていることを言葉にしてつなぐことによって、これで筋が通るか、相手は理解できるか、そうした視点をもつことができるだろう。それを、理屈ではなく、体験的に分かってもらうために、荒治療をしたような授業だった。私は、生徒が、なかなかできない貴重な体験をしたのではないか、と考えている。



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