【メッセージ】責任と信仰――エリシャ(10)――
2026年10月18日

(列王記下6:1-7, ルカ16:12)
神の人が、「どこに落ちたのか」と尋ねると、彼はその場所を指し示した。エリシャは木の枝を切り取ってそこに投げ入れ、鉄の斧を浮かび上がらせた。エリシャが、「拾い上げなさい」と言うと、その人は手を伸ばしてそれを取り上げた。(列王記下6:6-7)
◆金の斧
5:一人の者が梁にする木を切り落としていると、鉄の斧が水に落ちてしまった。彼は叫んで、「ああ、ご主人様、あれは借り物なのです」と言った。
6:神の人が、「どこに落ちたのか」と尋ねると、彼はその場所を指し示した。エリシャは木の枝を切り取ってそこに投げ入れ、鉄の斧を浮かび上がらせた。
このエリシャの逸話を聞いて、きっと多くの方が、思い出したことでしょう。「おまえの落としたものは、この金の斧か、銀の斧か」という声が聞こえてきませんでしたか。切っていた木から弾かれた斧を池に落としてしまった男が嘆いていると、池から女神が現れて、そう言います。男はそれではないと正直に返答し、鉄の斧を見せられると、それですと答えます。正直さに感心して、女神は金の斧も銀の斧も男に渡した、という話です。正直に生きよう、という教訓であろうと思われます。
いわゆるイソップ寓話に見られる物語です。最近の子どもたちは知っているのでしょうか。――と思いきや、気になって調べてみると、どうやらこれは川だったようです。それに女神というのは思い違いのようで、ギリシア神話のヘルメスということであるそうな。男の神で、泥棒の守護神だともされ、嘘つきの才能豊かだった、などとも評されるので、この逸話そのものが、皮肉からできているような気もしてきます。
話はその後、強欲な隣人が金の斧をせしめようと、わざと斧を落とすのですが、金の斧かと訊かれてそうだとこだわったため、鉄の斧も奪われてしまった、というオチがついています。花咲かじいさんやこぶとりじいさんもそういうふうでありましたっけ。
正直の徳。欲から出た嘘は身を滅ぼすこと。こうした寓話にはいろいろな教訓がありますが、どこか余計なお世話だと思う人もいるようです。しかし人々に道徳を教育するのに適切だ、と見ることもできるし、だからこそ遺されたのでしょう。
ラ・フォンテーヌやフランソワ・ラブレーなどの作家が、この物語をアレンジして文学作品に仕上げているそうです。様々なバリエーションがあるようです。この話をモチーフにして物語ってみたいという気持ちは、分からなくもありません。
◆列王記と斧
様々なアレンジが産み出されているとはいえ、このようなモチーフは、作家の想像力を刺激するものを十分持ち合わせているように見えます。列王記の場合はどうでしょう。どうしてもこの金の斧の話と重なって聞こえてくるのですが、何か関係があるのでしょうか。
イソップ(アイソーポス)の寓話の成立は、紀元前6世紀頃ではないかと言われています。書物にまとまったのは紀元前3世紀頃ではないかと言われています。列王記の成立は、紀元前6世紀である、という説があり、そうだとすると何かしら双方に関係がある、という可能性も消せません。けれども、積極的につながりをもたせることは難しいようです。それよりも、世界各地でこのような教訓めいた話は思いつかれているかもしれず、文化的に斧が重要な生活道具である地に、偶然に生じたとしても不思議ではないでしょう。
それに、斧が反動で飛ぶとか、もしかすると斧の頭が抜けるとかいう事故が、わりとよく起こっていたのかもしれません。
旧約聖書には、この斧についての律法がひとつ見られます。
例えば、隣人を伴って木を切りに森に入り、切ろうと斧を振り上げたとき、斧の頭が柄から抜けて、隣人に当たって死んでしまったような場合である。その者は、これらの町の一つに逃れて、生き延びることができる。(申命記19:5)
これは「のがれの町」の規定のひとつで、現代風に言えば「過失致死」のような件については、復讐を免れることができる、という律法のためのひとつの例です。森で木を切っているときに、斧の刃が外れて飛び、致死事故が起こってしまったとすると、これはその過失に相当する、というのです。実際にそうしたことがあったと見るべきでしょう。
斧による事故は、聖書では他に例を見ませんが、何かと武器のようにして斧を手にもっている様子は時々見られます。木を切るということが、自由にできたのか、私には知る由もありませんが、斧という物が比較的身近な道具であったように見受けられます。
◆聖書と斧
しかしクリスチャンにとって、「斧」というものが一番ありありと見えてくるのは、洗礼者ヨハネが登場したときのことです。ヨハネは、「毒蛇の子らよ」(マタイ3:7,ルカ3:7)と言い放ち、「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10,ルカ3:10もほぼ同じ)と言っています。面白いのは、マタイ伝ではファリサイ派やサドカイ派の人々が来たのを見てこう言ったのに対して、ルカ伝では、群衆に向かって言っています。マタイは権力者に厳しく、ルカは群衆に厳しい傾向がありますが、ここにもそれが現れているのかもしれません。
私たちは案外、マタイ伝のように、ヨハネがイエスのように権力者によって吠えていたと記憶しているものですが、ルカ伝では明らかに群衆に向けて「毒蛇の子らよ」と断罪しているのです。
私たちのイメージなんて、案外思い込みに基づいているのかもしれません。そうやって反省してみると、この「斧」という言葉についても、私たちがイメージするものと一致するのかどうか、怪しくならないでしょうか。
「1世紀のユダヤの農業では、低木を刈り取り、木材を加工し、実を結ばない果樹園の木を取り除くのに斧が用いられていた」という説明が、Interlinear Bibleのこの語の説明のところにありました。果樹園を守り、燃料を確保するための仕事でした。
では列王記ではどうでしょうか。ここで「鉄の斧」と、わざわざ「鉄」が二度も加えられているのは何故でしょうか。これを原語であたってみますと、実は「鉄」という語があるだけなのです。「鉄」が余分に加えられているのではなくて、逆に「斧」の方がなく、そこには「鉄」としか書かれていないのです。
もちろん、ここでは木を伐っていますから、斧のことでしょう。しかしこの語そのものは、ただの「鉄」を表すのです。すると、水に落ちたのは、斧の頭の鉄の部分だけだった、とも考えられます。もちろん柄が木材だとして、それが付いているから少しは浮かびやすいだろう、などとは考えられませんが、鉄の塊が水に落ちたことの方が、絶対に浮かぶことがない、という考え方を読者に与えるのには有効でしょう。
イスラエルは長らく製鉄の技術を持ちませんでした。ペリシテ人はその技術をもっていたために、その技術に関しては敵わず、隷属するような事態も招いていたようです。千度前後の金・銀・銅に比べて、鉄はその融点が高く、千五百度ほどのいっそうの高温を必要としました。それを保つ技術が、イスラエルにはなかったようなのです。
強度からすると鉄は他の金属よりも強い面がありました。それで貴重な金属のように扱われていました。一時ヒッタイト王国(紀元前1400-1200頃)が、鉄の技術を自在に操った「鉄の王国」と見られていましたが、必ずしも武器に鉄が大量に使われていたのではないらしい、と考古学者は近年発言しているようです。
それでも、「斧で塔を打ち壊す」(エゼキエル26:9)というような表現は、やはり強力な武器として鉄が知られていたことを示すように思われます。
◆一緒に出かける
エリシャの周りには、いつも預言者集団がいたようです。エリヤの昇天のときにも、預言者集団が見守っていました。幾度も登場する。具体的にどのような集団なのか、何をしていたのかなど、書かれていないことについてはよく分かりません。ただ、ここではその人数が増えたために、住むところを確保しなければならなくなったようです。
自分たちで新しく住まいを造ろう、ということになりました。昔のことですね。いとも簡単に、自由に木を伐って、家を建てることができるわけです。このとき、まずは、住む場所をつくりたい、と願うと、エリシャは「行きなさい」と答えました。続いて、一緒に来てくださるよう求めたので、エリシャは「それでは、私も行こう」と行って立ち上がりました。
エリシャについて、私たちはイエス・キリストと重ねて見る機会をもとうとしています。奇蹟を沢山起こし、どちらかというと非人間的にクールに振る舞うエリシャは、イエスの姿の予告のようにも見えるからです。それでこの「行きなさい」と「それでは、私も行こう」との間をつなぐものを、イエスと弟子だとして少し考えてみることにしましょう。
何か問題が起こります。ここでは、住まいが狭くなってしまいました。弟子たちはイエスに、自分たちでやってみます、と報告します。イエスは「行きなさい」と行動を促します。しかし「その中の一人が」、一緒に来てください、とイエスに頼みます。するとイエスは、「それでは、私も行こう」と腰を上げます。こうしてイエスが同行したことで、次に起こる事件が解決するわけです。
一緒に来てください。私たちは教会で、神にそれを頼んでいるでしょうか。ここは自分でする、自分たちだけでする、神の力はいらない。そんなふうに思うことはないでしょうか。ここを読むことで、そうした自分たちでなんでもやろうとする気持ちに、楔を打たれるように感じます。たとえ「行きなさい」と言った後でも、一人が頼めば「私も行こう」と答えて、共に歩んでくださるのです。一緒に出かけてくださるのです。
教会の大部分の人たちが、自分たちの手でやるのだ、と息巻いているときに、一人でも、自分の信仰に従って祈り抜くことが必要であることを教えられます。皆が何か世の動きに流されていても、一人でも、主こそ共に来てください、と願い祈ることの大切さを覚えます。
ヨルダン川のところでしょうか、梁にするためだそうですが、良い木があったのでしょう。めいめいが一本ずつ切り出せば間に合う、というのが人の計算でした。それぞれの働きが集まってこそ、住む場所を造る。ここも何か示唆的です。私たちは、それぞれが分に応じて働けばよいのです。余計なことをしすぎなくてよいのです。分を弁えて働く。すると、住む場所を建てることができるといいます。
この「住む場所」が、また連想を呼びます。ヨハネ伝で、それは何を表していたでしょうか。永遠の命にまつわる神の国の住まいというイメージを与えていなかったでしょうか。イエスがそれを用意しに行くという、謎めいていた予告でした。
私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。(ヨハネ14:2)
◆災害
エリシャも伴ってきて、木を伐る作業が始まりました。でもそこへ、事件が起こります。
4:彼らはヨルダン川に着くと、木を切り出した。
5:一人の者が梁にする木を切り落としていると、鉄の斧が水に落ちてしまった。彼は叫んで、「ああ、ご主人様、あれは借り物なのです」と言った。
「鉄の斧」は、先ほど申しましたように、斧の先の鉄の部分だ、と理解すべきでありましょう。律法は、斧で作業をしているときに、過失事故が起こり得ることを指摘していました。もちろんわざとである場合は該当しません。過失致死は、死罪に値しない、とする考え方が社会にはありました。
ここでの斧の刃が水に入ってしまったことも、もちろん過失でした。しかし、斧の鉄が水に落ちたこと、そして川の深みなどのせいでしょうか、それを拾い上げることが絶望的であったことからして、もう取り戻せないに違いない、と誰もが判断することは確かでした。それは、故意であろうと過失であろうと、関係ありません。結果は同じなのです。
つまり、故意であるということは、行為者に責任がより負わされることになりますが、過失であれば、責任を軽減するのが妥当です。しかし、事故であれ、殺意を持ってであれ、被害者からすれば、命を奪われたことには違いがありません。現代では、殺意を伴わなくても、誰かが死んでも構わないという行為は、ときに「未必の故意」などとも称して、単なる過失とは認めないようになりました。まして、車を暴走させたり、酒酔い運転をしたりすることは、断じて過失などではありません。そのような理解が、これからも進んでゆくように願います。被害を受けた方と、その関係の方々のためにも。
さて、結果は同じ、紛失ということになります。このとき、斧を振っていた当事者が叫びました。「ああ、ご主人様、あれは借り物なのです」――苦悩を直接的に表す「ああ」は、音としても日本語と大差ありません。
もちろん自分の物であっても、これは一大事です。重い鉄の斧の刃が、そう安価であるとは思えません。そして仕事の道具なのですから、これがなくなるということは、仕事がなくなる、という場合もあります。現代のように、保障制度が行きわたっているわけではないのですから。
今年の夏は、各地で大変な雨による被害が出ました。農業機械がダメになった、という人がテレビカメラに映っていました。医療器具が水没したという医療機関もありました。簡単に報道しますが、医療器具の中には、家が一軒買えるほどの価格のものもあるのです。農業機械も、集団で出資して購入もしますし、大きな借金を背負って購入することもあると思います。商店で、冷蔵冷凍の設備が使えなくなると、殊に小さな商店ではもうそれだけで死活問題となります。
しかしそれは「借り物」だと言いました。他人のものです。これは、他人を殺すことにもなりかねない事態です。自分が責任をとって済む問題ではなくなります。
ふと、思います。何故命が大切なのか。私たちの命もまた、神から借りたもの、あるいは預かったものであるようには思えないでしょうか。自分の意志で生まれてきた人は、一人もいません。神から命を与えられました。否、それはただの信仰の話だ、と論じて胸を張る人もいるでしょうが、その感覚を失うことは、たいそうな危機ではないか、と私は思います。その危機感すら、私たちが忘れているのだとしたら、私たちは、現在あの戦闘の地で攻撃を続けている者と、実は同じになってしまうのではないか、と思うのです。
◆責任感
5:一人の者が梁にする木を切り落としていると、鉄の斧が水に落ちてしまった。彼は叫んで、「ああ、ご主人様、あれは借り物なのです」と言った。
もう一度、この男の言葉に着目しましょう。これは確かに過失でした。故意に落としたわけではありません。でも、それは借り物でした。遺恨を残します。他人のものをなくしたのです。水の中に沈んだものが、探し出せる情況ではありません。男は何を叫んだのでしょうか。借りた自分が罰せられることを恐れた感情も、どこかにあるかもしれません。どう返せばよいのか分かりません。何倍の弁償をしなければならないのか、分かりません。
そう考えた可能性がない、とは申しません。けれども、苟も預言者です。神の言葉に関わります。持ち主が斧を失うとどういうことになるか、そこに気持ちが向かったに違いない、と私は思います。木こりの商売道具です。生活を奪うことになります。生計を踏みにじるということは、その一家を殺すことになるかもしれません。
この責任感は、自分の弁償についての悩みなどとは比較になるものではなかったのでした。自分を守る、ということよりも、相手がどうなるのか、考えることがあると思うのです。交通事故で、言い逃ればかりする人がいます。自分の非を認めるといろいろ損をするからでしょうか。現代では保険というものがありますから、またかの時代とは違うのでしょうが、言い逃れはしない、というのが基本線ではないか、そんな気がします。
斧を借りた相手の生活を潰すことがないように、なんとかならないだろうか。私はこの人の気持ちを、そのようなものだと想像してみたいのです。
ルカ伝の16章に、理解の難しいたとえがあります。いま、そのたとえに拘泥するつもりはありません。イエスのたとえの主眼からは少し逸れることになりそうですが、イエスがそのたとえの中で口にした言葉に、ふと耳を留めました。
また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。(ルカ16:12)
斧に携わったこの預言者仲間のひとりは、他人のものについて忠実だった、と考えたいと思います。私たちの言葉で言うならば、一種の責任感がまさしくあった、と考えたいわけです。過失の事件にしても、他人のものに忠実だったその心、そこを見つめていたいのです。
◆信仰
エリシャは、この事件の現場にいました。だから私は、エリシャもその男の忠実な心を酌んだのだ、と捉えてみたいと思います。
6:神の人が、「どこに落ちたのか」と尋ねると、彼はその場所を指し示した。エリシャは木の枝を切り取ってそこに投げ入れ、鉄の斧を浮かび上がらせた。
エリシャは訪ねました。「どこに落ちたのか」と。私たちもまた、わざとではないにせよ、何かを失います。ときに信仰を失うかもしれませんが、神の言葉を忘れ、日曜日の説教で感動したあの燃えるような思いを、神を愛する思いを、どこかに置き忘れてしまいます。いったい、いつそれを失ったのでしょうか。どこで、失ったのでしょうか。
それは「どこ」なのか。どこから落ちたのか。「それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示録2:5)と、エフェソにある教会の天使に書き送るように、「人の子のような方」(1:13)がヨハネに命じました。七つの教会の天使に送れと命じられた、その最初の手紙で、「どこから落ちたか」を思い出せ、と言ったのです。
失った信仰や愛が、どこから落ちたのか、どこに落ちたのか、私たちは思い起こさなければなりません。ただ漠然と、「罪を犯しました」とか「神を忘れておりました」と口にしたとしても、実のところ具体的には分かっていない可能性が高いのです。自分が悪い、と反省しても、何が悪かったのか、どんな悪いことをしたのか自覚がなかったら、反省などしていない、と言われても仕方がないのではないでしょうか。
6:エリシャは木の枝を切り取ってそこに投げ入れ、鉄の斧を浮かび上がらせた。
もちろん、神が業を示します。エリシャの力がなければ、問題は解決しなかったのです。イエスがどれほど、人々を癒やし、命を支えたか、思い起こすとよいでしょう。エリシャはここで、イエスの予告をする役割を演じている、と私たちは受け止めてみましたから、これはイエスの言葉のつもりで、私たちは聴いています。
7:エリシャが、「拾い上げなさい」と言うと、その人は手を伸ばしてそれを取り上げた。
エリシャは、浮かび上がった斧の鉄を、エリシャ自身が拾い上げたのではありませんでした。あなたが拾いなさい。あなたが手を伸ばすのです。そう、神の業がそこにあったとしても、手を伸ばすのは私たちの仕事です。神がなんでもぽんぽんと魔法のようにそこに与えてくれるのではないのです。神の命令を受け、神の指示に従って、自分の手を伸ばすこと。――信仰生活は、かくありたいと思います。
人間にとって、過失は避けられません。うっかりやってしまう失敗もありますし、知識や技術が及ばずして、事故を起こしてしまうこともあります。しかし、それは確かに起こります。私たちはいつかどこかで、何かやらかします。そのとき私たちの心がどうか、問われました。どこで問題が起こったのかを見つめることが求められました。しかしまた、神に願うことが必要です。神はその解決を何らかの形で与えてくださるのでしょう。それを実現するのは、私たちの伸ばした手であるのでしょう。手を伸ばしましょう。神が示すそのままに、手を伸ばすのです。
一連の動きは、私たちの信仰の道に、新たな光をもたらしはしないでしょうか。新鮮な気づきがあれば、今日恵まれた宝物となることでしょう。