聖書とは何か(1)

2026年10月15日

「聖書」とは何か。素晴らしい方がその伝道人生を賭けたかのようにして、それについて語っている。ものの数にも入らない私のような者が、それに何か付け加えるようなことがあるだろうか。
 
あるとすれば、いまここに立つ私の視点から、思いつくままに風のように語ることだろう。論理を構築しようと努めれば努めるほど、知識のなさや、霊的な見劣りを露呈することになるだろうからである。
 
さて、「聖書」とは何か。それはひとつのまとまった文献である。いつからか、一定の形に整えられ、関与する人々が命懸けで守ってきた書物である。聖書の中でそれは実際、「書物」という言葉で示されることさえあるのである。
 
聖書はイスラエルの書物である。イスラエルは、ユーラシア大陸とそれに繋がるヨーロッパ大陸、並びにアフリカ大陸を基準にすると、その中心部にある。世界史の交通の真ん中と言ってもよいだろう。そのイスラエルという地域で編まれた。日本でもそうだったが、政治的権力をもつと、自分が民族の中で歴史的に価値があり、この国の支配者として相応しい存在であることを誇示しようとする。
 
イスラエルの場合、確かにイスラエル民族の歴史が壮大な物語の中に描かれているが、どうやら人間の歴史とは呼びづらい面がある。もし日本の歴史の中で、天皇家が滅亡し、他の家計が日本の指導者や権力者になったとしたら、天皇の歴史を描く書は抹消されたことだろう。幾ら征夷大将軍が世を治めた時代でも、天皇家は守られたから、天皇家の歴史の書は今に遺るのであろう。
 
イスラエルの中では、支配者はよく変わった。特に2つの王国に分裂してから、北の王国では、クーデターに次ぐクーデターで、王家は頻繁に入れ替わっている。だが、この聖書という歴史書は保たれた。何故か。
 
聖書の主人公は、どうやらこの民族ではなかったからである、と私は理解する。日本語では「主」と訳すが、それは暫定的に神の名である。聖書の神は、名を明らかにしない。特定の固有名詞は、恰も多くの中のひとつの神であるように、つまり異国のありきたりの神であるかのように見せてしまうだろう。聖書の神はそうではない、とする。天地万物を創造した、唯一の存在する神だ、という大前提があるとするのであろう。
 
その神こそが、聖書の主人公である。この主人公は、終始変わらない。人の世がどのようになろうとも、そしてイスラエルの国が消滅しようとも、神はずっと変わらなかった。それどころか、聖書は将来のことも描いているが、そこでも神は変わらないのだ。
 
この「神」という日本語については、いろいろと問題があると指摘されている。「何々についての神」という形で、「何々」という存在者の多様性に準じて、「神」もいろいろとある、と感じるのが日本語の性格であるからだ。偉大なもの、優れたものについて使うことができるのが「神」という言葉であった。いまでも、ネット上で優れた意見が出たり、優れた技を披露したりすると、「神」という言葉が飛び交う。その感覚で、若い人々が当たり前に使っているのだが、案外それは「神」という日本語の正しい使い方であるのだ。
 
こうした事柄に一つひとつ言及してゆくと、話がいつまでも前に進まない。時に、曖昧なままに話を展開してゆくことになるだろうことを予めお断りしておかねばなるまい。
 
イスラエルの人々が、自分の民族のアイデンティティのためにも、この聖書という書物が必要だった。だがそれは同時に、神というお方がイスラエルを創り導いたこと、いまもこれからも導くであろうことを信じる中で成立していった。だから、民族の中で指導者がどのように替わろうとも、神は変わらないわけで、聖書も変わる必要がなかった。こうして、いつぞや成立してからは、イスラエル民族の中に受け継がれていったのである。
 
しかも、写本というが、書物を書き写すことにかけては、実に丁寧に、誤ることがないように注意深くなされていった。特にいわゆる旧約聖書については、驚くほど一致度の高い文書が遺っている。
 
聖書について形式的に触れてきたが、その内容については、また改めて記すことにする。



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