考えていない
2026年10月13日

通勤電車では毎日不愉快な思いをしてばかりではあるが、先日、ありえないようなことに初めて出会った。
私はエスカレーターの右側に基本的に立つ。福岡はしばらく、左側に立ち、右を空ける暗黙の了解がまかり通っていた。だが、追い抜いて歩くことの危険性がようやく指摘されて、ここのところ歩く人はいくらかは少なくなってきた。それでも追い抜く者がいるが、それは「みんながやれば自分もして構わない」と考えるタイプだろうと見ている。戦争反対といまは言っていても、いざそうなると、戦争賛成に変わるタイプだ。
その日も、駅のエスカレーターで右に立ち、右手で手すりを握っていた。すると、後ろから来た男性が、私の右手にぶつかり、手すりから離させようとした。「すみません」と言うだけまだ社会人としての常識はあるようだったが、問題はそこではない。私の左側は空いている。また、そのエスカレーターには他に乗っている人はいなかった。私の左側はガラガラに空いている。しかし、私と手すりの間の狭い隙間に無理矢理入り込んでくるのだ。
私は、何が起こっているのか理解できなかった。その男は、強引に私を押し退けて、歩いて上がって行った。私はまた手すりを握った。と、もうひとりまた来て「すみません」と同じことをして私を押し退けて上がって行った。
電車がホームに入ろうとしていたのは分かる。が、何も追い抜かなくても間に合うタイミングであったし、第一私の左側はきれいに空いている。それなのに、私の手すりを握る手にぶつかり入り込んで行ったのだ。
後ろ姿から、その二人が何者か分かった。サラリーマン風に二人連れだが、先ほど改札のところで、上司なのか、一人の人にぺこぺこ頭を下げながら挨拶をしていた二人だ。その一人は改札機の外、二人は内に挟まって、ぺこぺこしながら少し長い時間喋っていた。そのため、改札機が二つほど塞がれたままになって、誰も通ることができないような状態だった。
私は思った。この人たちは、何も「考えていない」と。
そもそも電車の中では、こうした「考えていない」者が多すぎる。その後乗った電車では、優先席が空いていたので私は座った。優先席の端には、決して若くはないが、高齢者には程遠い男性が座っていた。スマホでピコピコとゲームをしている。私の右には、若い女性。こちらもスマホでゲームをしている。何が言いたいかと言うと、どちらも肘を横に張りだしている状態なのだ。
これも常態化している。スマホを、扱う人は、両肘を横に張っている場合が9割以上だ。お分かりだろうか。私の席の「領空」に左右に座る者の肘が侵入しているのだ。そのためその間に座る私は、腕を相当「内股」の角度にしないと、ぶつかって不愉快なのだ。これはよくあることだが、両側からやられることはあまりない。私も本が読みたいが、不自然な角度で腕を向けなければ本が読めなかった。少し痛いほどだった。
見ると、向かいにもスマホに興じる男性がいた。優先席がひとつだけ、遠慮気味に空いていた。見ると、その男性は奇妙に体を捻るような恰好で、右膝がその空いた優先席の半分くらいを占めていた。もちろん、特別な病気や障害のためにそういう恰好をしているというのではないことは明らかであった。脚を拡げる者は男性に多いが、電車でよく見かける。脚の間にカバンなどを挟んでわざわざ隣の席にはみ出すように脚を拡げているのも普通に毎日見る。
女性の場合に多いのが、手持ちのバックなどを、隣の空いた優先席の上に置いていることである。妊娠しているなどのときには何もカタいことを言うつもりはないのだが、どうもそうでもないというふうでありながら、荷物を膝に置かず、隣りに置いたり、はみ出す位置に置いたりしている。同じ時刻に私は乗って帰るから、いつか優先席にどっかと座り、わざと荷物をはみ出して、となりの優先席にも誰にも座らせないようにしてスマホだけを見ている同じ女性を複数回見かけたこともある。
女性だから、隣りに変な男性が座ったら嫌だろう、という気持ちは分からないでもない。だが、だからといって、立っている人がたくさんいる中で、このような真似は普通できないのではないか。
言い訳があるかもしれない。おじいさんやおばあさんはその夜には乗っていなかったよ。そういう言い訳を胸に、若い者が優先席を占領しているのが、福岡の電車の実情である。高齢者は、ふらふらしたお年寄りは確かにいないが、60代くらいならたいてい何人かいる。でも、80代くらいの人はいないから、という理由を用意しながら、優先席に座り、さらに先のように空いた分にも誰も座らせないようにしていることが、決して珍しくはないのだ。
悪いけれど、言わせてもらう。「考えていない」と。自分の言い訳は考えるかもしれないが、他人の気持ちは全く「考えていない」。他人には本も読ませず、考え事もさせないほどに、大きな声で喋り続ける人がいる。昼間はお年寄りグループに多いが、実は夜遊びから帰る高齢者グループもけっこういる。互いに耳が遠いからかもしれないが、実に大きな声で話す。しかも、ずっと話し続ける。
街ですれ違うときに誰が喋っていようが構わないが、電車という密室の中で何十分か、そのくだらない話を聞かされ、考え事すらできないように強いられる、仕事帰りの疲れた人には、何の自由もないのだろうか。ではどこか違う席に行けばよい、とこれまた言い訳が出そうであるが、どの車両に行っても似たようなものだ。さらに、そういううるさい者たちが最初にいたらわざわざそこに座りには行かないのであって、要するにうるさい者たちは、静寂の中にいた人のところへ、後から入ってくるわけである。
道徳とか、思いやりとか、そういう言葉を差し向けることもできるだろうが、私は簡単な原理で説明をするつもりだ。世の中には、「考えていない」者がたくさんいる、と。
これは、他のいろいろな場面で弊害をもつ。「考えていない」ままに投票所に行くのだ。「考えていない」ままに、無邪気に害悪を垂れ流しもするのだ。
ではおまえは考えているとでも言うのか。自信はない。考えられていないことは多々あるし、同様に考えていないではないか、と言われても否定はしないつもりだ。そして害悪を垂れ流さないつもりでいるのか、と私もまた問われるだろう。そう。私は害悪の塊である。私のような者がいるから、面白くない、という顔をする人がいるわけで、そういう人にとっては、私は害悪に他ならない。本を読むなど自分本位なことで文句を言うな。電車の中で騒ぐ自由を侵害するな。そういう考えであるならば、私は確実に害悪である。
どうも社会は、そういう「世」であるらしい。聖書で言う「世」というものは、現代的には、こういうふうにはびこっているものだと理解しておくことにする。ただ、私は現代風に、その原理を「考えていない」という言葉で指摘しておこうと思う。そこからどういうことになるのか、それを私は考えてみたい。「考えていない」と人にとっては全く関心がないだろうと思うけれども。