神学校について

2026年10月12日

本日は特別な日。神学校を思い、神学校のために祈る礼拝として献げられた。選ばれた聖書箇所は、イザヤ書から、イザヤの召命のところ。それから、マタイ9章の「収穫は多いが、働き手が少ない」と弟子たちに明かした場面である。
 
説教者は、韓国出身の伝道師。日本の神学大学を卒業している。神学校時代の思い出から語り始め、古い寮の、いまから見れば不自由な生活環境を懐かしく思い起こす。だが、そこには人との温かな交わりがあった。共に生きることを学び、互いに支え合う毎日の中で、確かに言えることがあった。人は、独りではない、ということだった。
 
イザヤ書6章の、有名なイザヤの召命の場面が開かれる。「ウジヤ王が死んだ年、私は、高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た」から始まるのだが、ただこれだけの箇所から豊かな世界が視界をつくる。地上の王は死ぬ。だが、玉座の主は居続ける。変わることがないのである。
 
そこにはセラフィムがいた。一種の天使であると考えられている。炎や火のイメージがある。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」とセラフィムは呼び交わす。三度の繰り返しが、三位一体を表す、などと考える人もいる。しかしイザヤはこれを、「ああ、災いだ」と受け取る。自分は「汚れた唇の者」であると思うからだ。
 
この「ああ」は、嘆きの感嘆詞である。黙示録で、災いだ、と嘆くオノマトペがあるが、それと同様に受け止めてよいのかもしれない。イザヤは自分を呪う思いでいたことだろう。イザヤが見たのはセラフィムだというが、自身では「王である万軍の主を見てしまった」と自覚し、神を見た者は死なねばならないという考え方の下に落胆している。
 
だが、セラフィムが来て炭火をイザヤの口に触れさせる。これにより「過ちは取り去られ、罪は覆われた」のだ、と言う。炭火は、悔い改めの象徴であるらしい。イエスの時代となれば、「罪は赦された」というところだろう。ここでは「罪は覆われた」と表現している。箴言でも「憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す」(10:11)と言っている。つまり「罪を覆う」ということだ。
 
説教者は、この赦しを受けた者、自分が赦されたと知る者こそが、神の召しを受けたことなのだ、と解する。まるで自分がそうであったこととイザヤに於ける出来事がそっくり同じことであるかのように、「誰を遣わそうか」という主の声に対して、「ここに私がおります。/私を遣わしてください」と応えたことを強調する。そして、こう応えたことの背景には、主を信頼したことがあることを指摘する。
 
説教者はここで、マザー・テレサの言葉を引用する。
 
「私は、世界へと愛の手紙を送る神の書く手のうちにある小さな鉛筆だ」(I'm a little pencil in the hand of a writing God, who is sending a love letter to the world.)
 
私の意志や、私の好み、思い込みで私が動くのではないことを思い知らされる。書き手は神である。その神は、世に対して「ラブレター」を書こうとしている。実のところ、それを書くためにとてつもない痛みを負ったのが神自身であったのだが、それはもはや問わない。自分勝手に動き回るような鉛筆を手にすることなく、神の書く手に委ねる鉛筆を、神は手に取ることだろう。
 
さて、ここから説教者は、マタイ伝に目を向ける。
 
35:イエスは町や村を残らず回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた。
36:また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
 
地域を「残らず回って」、「ありとあらゆる」病気を癒やしたとは大変だ。簡潔な表現ながらも、教え、宣教し、癒やしたというイエスの活動を十分に伝えている。癒やしというものが福音であることについては、またどこかで検討しなければならないだろうが、いまは先を、急ぐことにしよう。
 
癒やしを与えたその人々については、「羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」とマタイは描写している。否、イエスが、人々をそのように見たのだ。イエスの目に映った人間たちが、弱り果てていたのだ。
 
私たち現代人は、どうだろうか。強いのだろうか。神などなしに自分の意志を通し、何でも創り出す力と技をもつようになって、すっかり強くなったのだろうか。それとも、かろうじて神の故に折られずに済んだ葦のような存在なのだろうか。記事の人々と同じように、あるいはそれ以上に、弱り果てていると見た方が適切だ、ということにはならないだろうか。
 
もちろん、ここでは定番の、「深く憐れまれた」の語が、内臓を表す語を含むことを指摘し、イエスの内奥での強い感情が伝えられていることを説教者はツ得た。心身を別のものと分ける必要はないが、ここでは、より精神的に、あるいは魂の領域で、人々が傷ついていることを強調することができる。
 
この情況の中でイエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と弟子たちに教えたことでこの場面を離れることとなる。つまり、問題はいまここでの私たちの教会であり、現代の世界である。
 
説教者は、居場所を失っている人々がいること、希望をもてぬ人が多いことを挙げた。その人たちが福音を待っている、という言い方は僭越だろう。逆に、福音がその人々を待っている、とするのである。
 
ここで説教者は貴重な視点を提供する。イエスは弟子たちに向かって、もっと頑張りなさい、と言ったのではない、ということだ。しかも、その傷ついた人々のところに行きなさい、と命じたのでもない。
 
イザヤの召命の場面で、しばらくはセラフィムが「聖なるかな」と歌っていたり、炭火をイザヤの唇に当て、「罪は覆われた」と宣言したりしていたが、その後に聞こえたのは、「主の声」であった。主の声がイザヤに聞こえた。「誰を遣わそうか。/誰が私たちのために行ってくれるだろうか」これは、イザヤに「行け」と命じたのではなかった。だが、イザヤは応えたのだった。「ここに私がおります。/私を遣わしてください」と。
 
説教者は、「召命」という言葉は使わなかった。安易に用語を使いたくなかったのかもしれない。また、「召命」というと、特定の職務に就くべき道をどうしても想定してしまうと考えたのかもしれない。それは牧師のことだ、伝道師のことだ、そのような突き放して、会衆が感じてはならない、と思ったのではないだろうか。
 
そこで説教者は、三つの印象的なアスペクトを最後に示した。まず、「収穫の主に願いなさい」というイエスの言葉を聴くことだ。願うことだ。それは、日本に於ける伝道者の実態と、今後のことを懸念してのことかと思われる。
 
神学校のために祈ることをモットーとした礼拝だった。イエスが願うようにと求めたのだから、私たちはそれに応えるべきだ、というのは当然であるが、「働き手を送ってくださるように」という祈りが、切実なものとならねばならないことを、私たちは、たぶん知っている。神学校に若者が押し寄せるということがなくなって久しい。少子化、高齢化の波は、世間以上に、キリスト教会に押し寄せている。
 
それぞれの神学校の実情を知悉しているはずがないので、無責任な言い方になるのだが、知っている範囲で、神学校の門を敲くのは、高齢者が増えているように感じる。目立つのが、一定の職業を経て、退職してから神学校に入る、というものである。定年後の時間を献げる、という気持ちがあるのかもしれない。一定の財ができたので学費そのものも自分で出せる、という事情も助けているかもしれない。
 
ただでさえ、牧師などの代表者の平均年齢は高くなっている。60歳以上であることは明らかであり、推定では70歳以上ではないか、とも見られているという。今後、高齢の神学生がもし牧師職に就いたとしても、平均年齢を下げることは期待できないだろう。長期にわたる牧会というわけにはゆかないものと思われる。
 
また、これは実際のケースであるが、はっきりいって教会の迷惑にしかならなかったような人材を複数知っている。牧会できないどころか、学ぶ姿勢がなく、少しばかり神学校の授業を受けたということで、自分の誤った信念をごり押しするケースである。その点は、若い柔軟な思考の持ち主が、謙虚に学び、信仰と知恵とを育まれてゆく、ということの良さが際立つようである。もちろん、こればかりはその人による事柄であって、単純に年齢がどうだからこうだ、と決めつけることは禁物ではある。
 
とくに、社会経験者が献身するということについては、私はむしろ歓迎したい、とも思っている。妻がよく言っていたが、社会経験もないままに、若い人が「純粋に」育てられて、「先生」とちらほやされて説教を語るよりも、社会でいくらかでも揉まれて酸いも甘いもかみ分ける経験をもってから講壇に立つ方が、どれほど福音というものに近いか知れない。
 
神学生となりたいという希望者そのものが減っていることも、間違いない。そもそも信徒数が減っているのに、いわゆる献身者が増えるというのは考えにくい。さらに、献身というからには、神の呼ぶ声を受け、それに応えるという強い信仰体験が必要である、とも言われている。そうした信仰そのものを教会が語れず、伝えられないようになっている事情も、この流れに棹さしているように感じられる。
 
少子化のために、大学などの学校も、定員割れが起こっている。人気のない学校は当然のようにそれが起きる。それでも志望してくれたのだから、全員入学させる……となると、学生の質は確実に下がることになるだろう。それはいまの学校教員についても言える。昔は「聖職」などとも呼ばれたが、そうした誇りももちろんない。これは、神学校についても同様ではないか。私が知っているところは、その凋落ぶりが激しい。聖書の知識や近年の学説だけは教えるが、信仰については教えないし、罪について考えさせるようなことのない神学校すら存在する。自己吟味もできず救いの体験もないお粗末な者が礼拝説教をしている。それを受け容れる方もどうかしているが、元々そういう「信仰」だったということだけなのかもしれないから、希望者の減少が直接の原因であるのかどうか、については保留しておくことにする。
 
これはやや過激な意見になるかもしれないが、提示はしたいことがある。それは、キリスト教会の数や信徒数は、増加しなければならないのだろうか、という問いである。特にプロテスタント教会は、分裂が過ぎて、「種類」が多くなりすぎている。一教会の規模はとても小さく、財的に支えるということの困難さは火を見るより明らかである。確かに、教会の数が多いことは、良い面もある。礼拝に、遠くまで出かけなくてもよいかもしれないからである。だが、教会数というものが、持続可能なレベルで多すぎてしまえば、信徒数の減少がそのまま教会の消滅と等しくなることも当然予想されるはずである。一つひとつの教会でできることに、力があるというふうには考えにくい。企業ならばとっくに合併して体力をつくるところだ。教会世界に、もう少し「教会経営」という考え方が加えられてよいのではなかろうか。神学校で、「教会経営」という項目があるのだろうか。ごく一部にあるような話も聞いたが、実践神学の一部であるとか、些末な分野として触れておくとかというのではなく、もっとマネジメントとして切実に考えなければならないのではないか、と思われる。もちろん、神学校は、信仰の部分の探究を決して削減してはならないとは思うけれども。
 
さて、説教者の三つのアスペクトに戻るが、二つ目は、祈りと献金という実際的な営みにより、神学校を支援したい、ということだった。そして三つ目が、本当は一番大切なことであるかもしれない。それは、「誰を遣わそうか」というあの主の声、それから「収穫のために働き手を送ってくださるように」との祈りを、自分の胸に響かせる、ということである。つまりは、イザヤという特定の人物や、イエスの弟子たちこそがそのような言葉を受け、私たちはそれを傍観しているだけだ、というのではなく、私たちが、この私が、その言葉を受けるのだ、ということである。
 
それは、形の上での献身や神学校ということに留まらない。キリスト者は、誰もがイエスの弟子であり、イエスに心を献げた者であるはずなのである。一人ひとりが受け止めたい、と言った説教者の言葉を、自分のためのものとして聴き、反芻しなければならないのだ。自分が出会う一つひとつの出来事が、神とのつながりの内で確認されなくてはならない。その横を通り過ぎるのではなく、煮詰めるほどに考え、祈り、営んでゆくようでありたいと思うのである。その意味では、誰もがいつでもどこでも献身者であるべきである。神を忘れていました、というようなことは、言い慣れてしまってはならないと思うのである。



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