【メッセージ】私の心もそこに――エリシャ(9)――

2026年10月11日

(列王記下5:20-27, 使徒5:1-11)

あの人が戦車から降りて、あなたを迎えたとき、私の心もそこに行っていなかったとでもいうのか。(列王記下5:26)
 
◆ナアマンの癒やし
 
本日は、先週の物語の場面の続きです。今日の聖書箇所は、次の文で始まります。
 
20:その時、神の人エリシャの従者ゲハジは思った。
 
「その時」というのは、ナアマンがエリシャと別れて去ったときのことです。ナアマンは、アラムの将軍でした。元来敵国同士のイスラエルとアラムでしたが、その頃はまだ関係が穏やかだったようです。ナアマンの皮膚病を治すことができるのはイスラエルの預言者エリシャだと聞きつけて、エリシャの許を訪ねました。アラムの王にとってもナアマンは頼りになる将軍だったために、たんまりと謝礼の宝物を携えて、エリシャを訪ねたのでした。
 
5:アラムの王は、「行って来なさい。私もイスラエルの王に手紙を送ろう」と答えた。ナアマンは、銀十キカル、金六千シェケル、着替え十着を手にして出かけた。
 
10:エリシャは、使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」と言わせた。
 
エリシャは言葉ひとつで命令をし、ヨルダン川で身を洗うという、ナアマンからすれば拍子抜けするような方法で、見事にナアマンの皮膚病を治します。ナアマンはしきりに謝礼を支払うと言いました。渡さねば、アラム王に対する義理も果たせません。しかし、エリシャは頑として受けつけませんでした。エリシャは、癒やしを商売としていたわけではなかったからです。それで、ナアマンは仕方なくアラムに向かって足を進めました。
 
20:その時、神の人エリシャの従者ゲハジは思った。「ご主人は、あのアラム人ナアマンが持って来たものを受け取らずに帰してしまわれた。主は生きておられる。後を追いかければ、何かもらえるだろう。」
 
◆ゲハジ
 
ゲハジは、ナアマンの従者です。自身では何の能力ももちませんでしたが、エリシャの身の回りの世話をする役割を担っていました。ゲハジは、ナアマンの持参した謝礼に目を奪われます。「銀十キカル、金六千シェケル、着替え十着」というリストにあったものは、ゲハジの目には、涎が出るほどうやらましい謝礼でした。金に使われた「シェケル」の価値については、はっきりとしたことは分かりませんが、百万円を下らないくらいの値打ちはあったのではないでしょうか。それよりも、銀の方にある「キカル」は規模の大きな単位であり、研究者によっては、億単位ではないか、とも見られています。
 
ゲハジならずとも、これには心が動きます。それをエリシャ先生ときたら、無碍に申し出を断り、一文たりとももらわずに帰してしまうとか。ゲハジのここでの言動を、私たちは傍観者として軽蔑するようなことがあるかもしれませんが、とんでもないことではないでしょうか。億をくれるというのに、いらない、で済ますことを、黙って見ていてよいか、ということです。
 
このときゲハジは、「主は生きておられる」と言っています。自分に納得させるために呟いたのかもしれませんが、主の名を出してまでも、ナアマンから何かをせしめようと計画するのです。――少し、胸が痛みませんか。
 
自分の都合の好いように、神を利用する。それはゲハジが意地汚いからでしょうか。私たちも、実のところ日々やっていることかもしれない、とは思わないでしょうか。実に、人間は古今東西、それをやり続けて今日まで来ているのです。神の名で敵を呪い、自国の勝利を祈る。今年もこれまでと同様に、アメリカの福音派はトランプ大統領を囲んで、イラン戦争開始に伴い勝利を神に祈っています。
 
この「主は生きておられる」というフレーズは、旧約聖書の中に30節にわたり現れるフレーズです。中でもダビデ王の言葉と、エレミヤの預言の中に目立ちます。「こんにちは」の挨拶に、「ご機嫌いかがですか」を意識することがないように、「主は生きておられる」に何かの意味を理解しこめているようには見えないこともあります。でも、ダビデとエレミヤが多用しているとなると、必ずしも決まり文句に過ぎないとか、そこに信仰がないとかいう解釈は、方向を誤っているような気がします。
 
ゲハジの出自についてはよく分かりません。すでに4章で登場していますが、その4章からの登場です。エリシャの従者ということのほかは、何も分かりません。子どもを授け、生き返らせる場面です。この後分かるように、ゲハジはこの5章でエリシャから見限られましたが、8章で、子どもが生き返った母親が王の前に訴えに来たときに、ちょうどゲハジが王に向かってその母親の話をしていたという偶然の場面が描かれています。女の言い草など本来相手にされないところでしたが、ゲハジの証言により、王は信用して、女の言い分を聞き入れ、女は恵みを得たのでした。
 
このときに列王記の記者は、「神の人の従者ゲハジ」(8:4)と記しています。となると、赦されて戻っていたのかもしれません。聖書には直接そのように書かれてはいませんから、安易な推測はここではやめておきますが、ともかくこのゲハジの振る舞いに焦点を当てて、今日は聖書から神の心を聴きたいと願います。
 
◆見抜かれていた
 
21:ゲハジはナアマンの後を追いかけた。ナアマンは後を追いかけて来る彼を見て、戦車から降りて迎え、そして言った。「何か変わったことでもありましたか。」 22:ゲハジは答えた。「何も変わったことはありません。ただ主人がこう言って私を遣わされました。『つい今し方、エフライムの山地から、預言者の仲間の若者二人がやって来ました。それでどうか、彼らに銀一キカルと着替え二着を与えていただきたいのです。』」
 
嘘は嘘を呼びます。しかもその最初の嘘をつくったのは、ゲハジの意志です。他の誰からも命じられたわけではない、ただあの目の前の宝を手に入れたい、という一心から始まっています。走ってナアマンを追いかけるゲハジは、その心の中で、何をどう言おうか、と考えていたに違いありません。どう言えば不自然でなくなるか。
 
ナアマンとしては、エリシャに差し上げて然るべきと考えていたし、現に進呈しようとしたのです。しかしエリシャに固く断られ、仕方なく祖国に持ち帰るしかない、と思っていました。王に何と言い訳をしようか、とくよくよ考えていたかもしれません。
 
ゲハジの言い訳は、エリシャ先生の気が変わった、という、見え透いた嘘ではありませんでした。あれから情況が変わったのです。来客があったので、その客のために少々のものでよいから恵んでもらえませんか、というのです。ナアマンが申し出たものの十分の一程度の、ささやかな報酬でした。さすがに全部、ということを肯定するような嘘までは、作ることができなかったのでしょう。
 
23:するとナアマンは、「どうぞ二キカルを受け取ってください」と言ってしきりに勧め、二つの袋に銀二キカルと、着替え二着を詰め、自分の従者二人に渡した。彼らはゲハジの先に立って運んだ。
 
ナアマンは、十キカルのうちの一キカルだけ、というゲハジの謙虚さに驚きました。自分は十キカル差し上げる準備をしていたのです。たった一キカルだけ、という申し出には、せめて二キカル、というように提示したくなるではありませんか。ゲハジはそれを受け取り、戻ります。表向き、ナアマンの気持ちも少し治まったし、ゲハジとしても、十分でした。二キカルと言っても、一生生活できるほどの財産となります。
 
24:オフェルに着くと、ゲハジは二人からそれらを受け取り、家の中にしまい込んだ。それから二人の者を送り帰したので、彼らは去って行った。
 
オフェルというのは、よく分かりませんが、「丘」という意味を表す言葉からできているので、いくらかの高台だったものと思われます。そこにゲハジの家があったらしいことも窺えます。ナアマンの部下によって、そこに銀などを運ばせています。度量衡の情報が確かならば、それは米一俵ほどにも相当します。部下は任務を終えると、ナアマンの許に戻ります。ゲハジの上に、ひとかどの財産が残りました。
 
どうでしょうか。何か思い当たることがありましたか。自分もそんなことをした、という隠していた思い出が、よみがえってきませんでしたか。ちょろまかした経験がない、という人はめったにいないのではないかと予想します。私もあります。ふだんは忘れていたかもしれません。意識に上らせないように、心が蓋をしていたかもしれません。本当に全く何もない、という人がいたならば、幸いではあるのですが……。
 
けれどもエリシャの目は神の目です。これをすべて見抜いていました。
 
25:ゲハジは戻って主人の前に現れた。するとエリシャは、「どこへ行っていたのか、ゲハジ」と尋ねた。ゲハジが、「僕はどこにも行っておりません」と答えると、
26:エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて、あなたを迎えたとき、私の心もそこに行っていなかったとでもいうのか。今は銀を受け取る時であろうか。衣服、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男や女の奴隷を受け取る時であろうか。
27:ナアマンの規定の病は、いつまでもあなたとあなたの子孫にまとわりつくことになるだろう。」ゲハジは規定の病で雪のように白くなり、エリシャの前から立ち去った。
 
◆ごまかした事例
 
エリシャの心は、ゲハジのしていたその場所にいて、それを見、聞いていたのだ。恐ろしい宣言です。ゲハジは、ナアマンの皮膚病を受け取る者となってしまいました。そして「エリシャの前から立ち去った」と結論づけられています。こうして、しばらくゲハジの姿は、列王記から消え去り、先ほど触れた8章で突如、ちらりと現れることとなります。
 
エリシャはゲハジに、「あの人が戦車から降りて、あなたを迎えたとき、私の心もそこに行っていなかったとでもいうのか」と言いました。このときの「私の心」の「私」とは、エリシャという人間個人のことではないでしょう。そこにあるのは、主なる神の視線です。神は見ている。エリシャはその道具に過ぎないかのようです。常に神が生き、働いています。
 
神の言葉を預かるのが預言者と呼ばれますが、もはやエリシャは、その域を超えています。神の目には通用しない、人間のせせこましいごまかしなどを、旧約聖書はこのように随所で指し示しています。
 
私が思い起こしたのは、アカンという男です。ヨシュアのリードによりカナンの地に入ったイスラエル民族は、最初にエリコを攻略しました。続いてアイという町を攻めようとしたとき、イスラエルはアイの軍の前に敗走せざるを得なくなりました。ヨシュアは、神に祈り従って攻めたのに、どうしてなのか、と神の前に泣いてひれ伏します。ヨシュアが神に問うと、滅ぼし尽くせと命じた神の命令に背いて、戦利品を自分のものにした者がいる、ということが分かりました。調べると、神はアカンを選び出します。アカンは、金銀と上着を自分の家に持ち帰り、隠していました。
 
お気づきだと思いますが、この銀と金と上着という組み合わせは、ゲハジの場合と同一です。アカンは家族もろとも石で打ち殺されました。アコルの谷の謂われとなっています。
 
それから、新約聖書では、やはりアナニアとその妻サフィラの件でしょうか。教会が初めて成立して、イエスの弟子たちが共同生活を送り始めた時期のことです。誰もが金品を共同体のために献げていましたが、この夫婦は、土地を売った代金をごまかします。夫のアナニアが、その一部だけを教会に献げに来ました。しかしペトロは、直ちにその嘘を見抜きます。
 
なぜごまかしたのか。土地を売らねば、土地は自分のものとしてもっていてよかっただろう。売った金も、自分のために用いて差し支えなかったのだ。だが、あなたはこれが売った全額だと称して、実はその一部に過ぎない金を献げた。このごまかしは、神を欺いたに等しい。
 
この裁きの言葉に、アナニアはその場に倒れて息絶えます。まさかペトロが殺したのではないとは思いますが、この通りだとすると、正に神罰のようなものです。神は、そのごまかしの心を見抜いた。だから、神の怒りに触れた。こうした物語が教会に伝えられると、信仰者は震え上がったのではないでしょうか。
 
さらに、後からこの事件を知らない妻のサフィラがペトロのところに来ます。ペトロは、土地の値段をサフィラに尋ねます。妻は、夫と示し合わせた額を答え、土地を売って得た値段をごまかします。ペトロは、二人して示し合わせてやるとは何事だ、と怒ります。それは主の霊を試みたことに等しい、と罪であることを厳しく指摘しました。
 
哀れサフィラも、その場に倒れて息絶えます。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」(使徒5:11)と記者はこの場面を結びます。
 
どこか気の毒にも思えます。それは私の心が元々汚れているからかもしれません。ここで裁かれたのは、偽りです。偽証をしたことです。それは十戒で厳しく戒められていたことでした。イエスの十字架の過程で、さんざん偽証がなされたことも、私たちはもっと気にするべきでしょう。「ごまかし」即ち「偽証」という捉え方を、私たちはもっと厳しく意識する必要があるのだと思わされます。
 
◆潔白とは言えないが
 
しかし蒸し返すようですが、私たちは、日常的にそうしたごまかしをしているのではないでしょうか。職場のボールペンを持ち帰り、自分のものとして使う。職場の電気を使って自分のスマホを充電する。人間社会は一応、これらを窃盗または業務上横領という名の罪と見なす知恵も持ち合わせています。ヤバくないですか。
 
三浦綾子さんはしばしば潔癖な信仰をもつ人のエピソードを挙げ、自分への戒めとしていました。出典を忘れましたが、忘れられない話があります。ある方が、定期乗車券を職場から提供されたが、私的な目的で行動するときには、その定期券を決して使わなかった、というのです。三浦綾子さん自身は、なにもそこまでしなくても、というふうに思うタイプだったそうですが、神から戴いたものに対する誠実さというものについて考えさせられたように書いていたように記憶しています。
 
また、これは三浦綾子さん自身のことですが、自宅に沢山の手紙が届いた中で、消印が切手から外れていることも、昔はままあることだったようです。綾子さんは、これはもったいないと、その切手を器用に剥がして、自分が差し出すときに使おうとしたといいます。すると夫の三浦光世さんが、厳しい顔をして、それでもクリスチャンか、と怒りを露わにしたそうです。もちろん、綾子さんが本当にそれをしようとしたわけではないのではないか、と思いますが、そのような発想をすることそのものが、神の前にごまかす心があることを露わにしているのではないでしょうか。
 
このような体験をあからさまに書くこと自体が、三浦綾子さんの信仰によるものなのでしょうが、そういうことを書き始めると、私は一生、そんな事例を書き綴らなければならなくなるだろうと思います。
 
三浦夫妻は、綾子さんが1999年に、光世さんが2014年に亡くなっています。現代プロテスタントの代表的な作家夫妻です。体力的な問題を抱える綾子さんが語る言葉を、口述筆記という形で光世さんが文字に置いていました。その形態もさることながら、キリスト教信仰の点でも、いまとなっては幻のようなクリスチャンであると言いたくなります。そういう生活を小馬鹿にするような言い方をする人さえいる昨今ですが、私たちは少しは襟を正す気持ちにならなければならないのではないでしょうか。私たちは、何を信仰しているのでしょうか。
 
そんなのは熱心な人が特別にやっていたことだ。自分には関係ない。そうだよね。――私たちは、「赤信号みんなで渡ればこわくない」を余りにも当たり前のこととしてはいないでしょうか。もちろん、私は、とてもとても立派に生きているなどとは、口が裂けても言えない者の一人です。
 
それでも、どうせ人間なんてそんなものだよね、と開き直ることがよいとも思えません。
 
修道院と同じことをしろというのか。トマス・ア・ケンピスに倣えというのか。神秘主義がいいのか。聖霊陶酔を推奨するのか。いろいろ言いたい人もいるでしょう。私も何が良いか悪いかを判断するつもりはありませんし、第一、できません。その人一人ひとりに神が語りかけて、導くことは否みませんが、一律こうすべきだ、と持ち出したいとは思いません。
 
しかし、そういう真面目な信仰者を否定したり、どうかすると嗤うような態度をとって、自分はいい加減でいいのさ、という免罪符を勝手に自分で発行したり、そういう仲間同士で発行し合ったりすることには、時に憤りを覚えます。
 
マザー・テレサと同じことはできないでしょう。マーティン・ルーサー・キングのようには生きられなくても落ちこむ必要はないと思います。けれども中には、こうした人たちのスキャンダラスな部分を大声で取り上げている、自称クリスチャンもいます。本当にただの「自称」ですから、そういう声をネットで見かけても、相手にしてはいけません。信仰のない人間の中には、自分はクリスチャンだと「ごまかし」をしている者もいるのです。
 
偉人級のクリスチャンと同じことはできなくても、私たちは、その人たちと同じ神を、イエスを、拝しています。このことだけは、間違いがないと思います。
 
◆知られていること
 
それなのに、日本人の性分なのでしょうか。教会の中で、照れ隠しのようにして、「どうも自分は不信仰でして……」という言葉が自然に出てくるのは何故でしょう。当然これは挨拶めいた会話の常套句なのであって、「そんなことはありませんよ」という返事を期待している狡い謙遜です。京都の牧師は、それを「謙遜傲慢」だと指摘していました。「自分は不信仰ですから」などと言われたら、「本当に不信仰ですよ」と言ってやるのだそうです。そう言われると、まず戸惑い、不快な顔をするのが普通で、確かにそういう姿勢は、「不信仰」と呼ばれるに相応しいものなのでしょう。
 
指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り/遠くから私の思いを理解される。
旅するのも休むのもあなたは見通し/私の道を知り尽くしておられる。
私の舌に言葉が上る前に/主よ、あなたは何もかも知っておられる。(詩編139:1-4)
 
どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。/どこに逃れれば、御顔を避けられよう。(詩編139:7)
 
ダビデ王の詩です。人間的にはしくじりも多く、とんでもない犯罪も犯しますが、神はこのダビデを終生可愛がりました。その信仰を嘉し、ついにダビデの子孫から、神の子イエスを世に生み出すことになります。その信仰とは何か。それぞれの人が捉えたらよいと思いますが、私は、その神の前に真っ直ぐに視線を外すことがなかったことが大きいのではないか、と感じます。自分も神を見ている。となれば、神もまた自分を見て離さないわけです。私が座るのも立つのも、神はご存じだということが、ダビデの当たり前なのでした。
 
預言者エレミヤもまた、このような神の声を聞き、預言者として召し出されます。「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。/母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。/諸国民の預言者としたのだ。」(エレミヤ1:5)
 
おまえは、生まれる前から選ばれていたのだよ。おまえのすべては私のものだ。この神の迫りに、ついに神の御手がエレミヤの口に触れました。エレミヤは、これで神の言葉を授けられるのです。まるでエリシャのように、神がその人間を通して働き、その力を現すのです。
 
私たちに、果たしてこのような信仰の感覚があるでしょうか。神は私を知り尽くしているのです。神は私のすべてを見通しているのです。心底自分のすべてを見抜いています。醜いところも、こっそり隠したいところも、神は見ています。――このような意識をなくしたら、私たちの信仰は死んでしまうと思います。
 
ダビデとエレミヤ。今日、この二人の名を挙げたことを、覚えておいででしょうか。この二人が、「主は生きておられる」というフレーズを多用した代表だ、と先に触れたのです。二人が神の前から逃げず、神から知られているという体験を貫いたこと、そのことが、「主は生きておられる」という言葉によってもたらされている。私はそのように感じます。
 
◆イエスの眼差し
 
26:エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて、あなたを迎えたとき、私の心もそこに行っていなかったとでもいうのか。今は銀を受け取る時であろうか。衣服、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男や女の奴隷を受け取る時であろうか。
 
この言葉を、今日は受け止めて帰りましょう。今はそんなことをしている場合か、というような言い方をエリシャはしています。「今」という語は直接そこにはありません。あるのは「時」です。私たちの「時」は、ここだけは神さま目を瞑ってください、と言いたくなる「時」なのでしょうか。それは正に「主の霊を試すとは、何としたことか」(使徒5:9)と言われるようなことではないのでしょうか。
 
福音書に、引き渡されて去ってゆくイエスが、ペトロを振り返る場面がありました。
 
だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだ言い終えないうちに、たちまち鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:60-62)
 
ペトロは、このイエスの視線を、一生忘れることがなかっただろうと思います。ならば、私たちに向けられたイエスの視線は、どのようだったでしょうか。あの救いを受けたとき、十字架の上からイエスは私を見つめました。その視線は、そのときだけではなく、その後もずっと私を見つめています。片時も視線を外すことがありません。
 
イエスは、重要な場面で、天を仰いで祈りました。父なる神との絆の故でした。それはもしかすると、その天の父とイエス自身との結び付きのためだけではなくて、イエスが救いの業により、人をその神と結びつけることのためであったのかもしれません。イエスの十字架の救いに与ることが、私たちの救いです。神と結びつくことであり、神の国に入れて戴けるということです。
 
私たち人間は、他者から見られることで自分を知るのだ、と言われます。キリストにある者は、神に見られていることで、神の前の自分を知るようになります。もちろん、それは私たちが神を知ることでもあります。「神」というのは姿が見えず、抽象的な気がするときには、それを「イエス」という姿として見てみましょう。福音書のイエスが、私たちの目の前に描かれているのですから。
 
あなたは、イエスに見つめられています。イエスに支えられており、イエスから命を受けます。そのためにまた、あなたはイエスを見つめます。この関係の中に歩む人生は、あなたを限りなく豊かにするでしょう。あなたを幸せにするでしょう。究極的な幸せも、その先にあるでしょう。聖書は、それを約束しています。



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