聖書って何? (「証し」について)
2026年10月9日

小学3年生の国語の授業のときだった。本文の中の言葉で、意味を尋ねたいものはないか、と問うたところ、ひとりの男の子が手を挙げた。「『聖書』って何ですか。」
西洋絵画の話で、聖書の物語を絵に描くことがあった、というような文章がそこにあった。なんと難しい内容の文章が載っているテキストである。私は、職場で信仰のことを話すことは基本的にない。業務の中で疑わしいことをするべきではないからだ。だが、言葉の質問ならば、説明を果たすのが義務というものである。
どう答えたのか、についてはいまは遠慮する。ただ、少しばかり長めの説明をしたことは、たぶんご想像の通りである。そして、自分はそれを毎日読んでいるんだよ、ということだけは伝えておいた。
キリスト者には「証し」と呼ばれる文化がある。自分がどのようなところから神と出会い、救われたか。これを人の前で話すことである。
新約聖書の中で、パウロはこの「証し」を何度か語り、それを自らの手紙によっても、第三者の書いた使徒言行録の記者によっても、明らかにしている。それは「パウロの回心」と呼ばれ、激しい体験が語られている。体験はともかく、このような「証し」は、キリスト者にとりよいモデルである。キリスト者も、「証し」を語る機会が与えられることがある。
ある教会では、礼拝のうち1か月に一度、「伝道礼拝」という位置づけで、教会は初めてという人が訪れやすいように、また誘いやすいように、比較的分かりやすい信仰の勧めを語るという礼拝説教の機会が設けられていた。そのときに、信徒が順に、自分の救われた「証し」を語る役割を担っていたのである。
信仰の体験談、という形でプログラムされていたが、牧師はこれを、ひとつの「訓練」としても位置づけていた。これからも誰かの前で、自分の信仰のきっかけについて語る機会があるだろうと思われる。そのときにどのように話せばよいか、訓練しておくのはよいことだ、という考え方によるものであった。
何年かたつとまたその順番が回ってくる。結局同じ体験談を語ることになるのではあるが、その時々によって、語り方や強調点が違ってくるのは本当である。それは、自分の体験があやふやなためではない。語るそのときに立っている位置と時間が異なるため、過去のことも語り方が異なってくるのである。パウロの証しもその都度変化が見られる。それは、過去の出来事が偽りだということにはならない。過去は変わる。これは、特別奇妙な説ではない。最近私はベルクソン関係でその分析を見たし、村上春樹の小説世界のひとつのテーマでもある。
さて、この「証し」は、そもそも洗礼を受けるときに、普通それを語るものである。教会員の前で自分の信仰を語り、教会員の「承認」を受けるという形式をとるのである。中には、この「証し」なしでも洗礼を授ける教会もある。教会の定めた「信仰告白」を自ら読めば、公に、あの人は信仰をもっている、と認められる、という考え方なのだろうと思う。
それはそれでよいだろう。パウロのような劇的な回心を遂げなくても、信仰を告白するということはそれ自体で尊い。しかし、案の定というか、そうした教会では、実のところ信仰と呼べるようなものを知らずに、ただ決まり文句を読み上げることで教会員になる、ということも実際起こっている。果ては、そうした人間がついに「牧師」にまで成り上がるということまで頻繁に起こっているので、それを何らかの形で受け容れてしまったならば、不幸である。
子どもたちから「聖書って何?」と訊かれた。予想もしない事態であった。このようなとき、キリスト者はどのように説明するだろうか。私は私なりに説明という形で、つまり授業という建前の中で説明を施したつもりだ。ただ、子どもたちの脳裏にそれは初めての知識として刻み込まれるものだから、ただ冷たく突き放して説明したというよりも、先生も毎日読んでいるよ、の一言が、何かしら心に残ってほしいものだ、と密かに思っている。