特集・救いとは何か
2026年10月7日

『福音と世界』をしばらく講読している。社会とのつながりや教会の問題をずばりと斬り込み、歯に衣着せぬ語り口調での論調が少なくない。だが、様々な立場の意見が集められている、という印象であって、決して偏っているわけではない。但し、いかにも福音派というような考えを説こうとしているのでもない。
その『福音と世界』が、2026年10月号に於いて、「救いとは何か、どうしたら救われるのか」という特集を掲げた。毎号、半分の頁が、一定の「特集」により集められた文章で占められている。そこで、キリスト教の信仰の核心にあるはずの「救い」というテーマがズバリと今回は置かれたのである。
その中に、少し心惹かれるものがあった。「降りて来られる神」と題されたその論文あるいはエッセイを少し辿ってみたい。魯恩碩(ロ・ウンソク)という、国際基督教大学教授が執筆している。
「救いとは、罪の赦しなのか、心の平安なのか、それとも苦境や抑圧からの解放なのか」と問うところから始まり、すぐに「旧約聖書が語る救いは、まず、傷ついた生がいまここで回復されることである」と答える。
そして救いの発端が、人間の側にあるのではなく、神の側の「見る・聞く・知る」という三つの動詞にあることを示す。そのようにして、「苦しむ者の叫びに応える神」が、旧約聖書の救いの根底にあるのだ。そして、「狭さそのものから解き放たれること」に聖書の「救い」の出発点があるのだという。
それから、救いの主語が「徹底して神」であることを弁え、「救いの主語を神に返し、神が開かれる道へと踏み出すこと」が「信仰」なのだ、と告げる。
「救い」や「信仰」の定義を自分なりにまとめている。些かまとめすぎのような観があるが、私たちはハッとさせられる。
もちろん、神の救いは「罪悪感を拭う」であろう。だが、「どう生きるか」を新たな共同体の中で道しるべとして私たちは歩まねばならない。そのとき、私たちには重荷が現れるだろう。だが、「嵐のただなかで「ここに立っていてよい」と告げられる場所が与えられる」ならば、私たちはそれをひとつの救いだと捉えるだろう。
そのためには、感情が否定されるようなことがない。泣く夜もある。でもその「涙の時間が「朝へと続く時間」として抱きとめられる」ことを私たちは知る。それは特に詩編の中で味わうことだ。そこで私たちは神の慈しみを知る。「慈しみ」、それは原語で「ヘセド」という有名な言葉である。救いは、「関係のなかで変わることなく示される神の慈しみと誠実さ、すなわち「ヘセド」に根差している」と筆者は言う。
また、預言者の書では、「絶望のただ中で、救いは「回復」として語られる」とも言う。「「ゴーエル」(贖い主)とは、遠い法廷の裁判官ではなく、近親者、とりわけ最も近い親族として困窮した者の傍らに立ち、その喪失を引き受け、失われたものを取り戻す者を指す」と教えてくれるとき、私たちは大いに慰めを受ける。
「神の憐れみは冷静な同情ではない」のであって、「内側から込み上げる深い愛」である。「憐れむ」とか「憐れみ」とかいう言葉は、「「母の胎」を意味する「レヘム」と同じ語根に属する」のだそうだ。こうしたヘブライ語を辿る指摘は、説得力がある。だから「神ご自身の内奥が痛むほどに民を愛し、見捨てないことを選び取られるところに、救いの根源が示されている」と言い、私たちが聖書の中のあちこちで聞くことがひとつにつながってゆくような感覚を覚える。「神が愛することをやめられないという、神の側の不思議な自由のうちに現れる」のが、神の「恩寵」であるとは、なんとうれしいメッセージであろうか。
私たちの側で「救いが見えないとき、それは「分かった」という納得ではなく、「それでも知っている」という関係への信頼として残る」という力強いメッセージは、この文章自体がひとつの説教として神の言葉を以て私たちの耳を開き、魂を生かすものとなっていることを強く感じた。「理由は分からない、それでも「恐れるな」とささやく声が聞こえてくる」ことは、キリスト者であればきっと経験したことがあるのではないだろうか。
このように恵みの言葉を重ねつつ、文章は終盤へ向かう。そこでは「救い」ということについて、神の誠実さに支えられて、満ち足りた調和である平和へ向けて少しずつ修復されていくことを明らかにしており、その約束はなお前方に開かれたものである、という希望を見出している。
先に、「狭さそのものから解き放たれること」に聖書の「救い」の出発点があることを示していた。私たちはそれを受けて、「世界を狭くする力に抗って生きる」者である、とも宣言する。だから、「正義を語るときにも、人を壊す言葉で語ってはならない。救いに生かされる者が求めるのは、相手を打ち負かす勝利ではなく、関係が回復される恵みである」と、私たちへ強力な釘を刺す。
神は私たちの痛みをご存じである。私たちのところへ、たんに空間的なイメージだけではなく、「神ご自身が降りて来られるというこの出来事への信頼から始まる」ことこそ、「救い」のエッセンスであるのだ。しかもそれは、「イエス・キリストの十字架と復活において決定的に現された」ことである。
私たちもまた、「降りて行く者」として生きるべきではないのか。神はすでに私たちに先回りしておられる。神のその足跡に、「後から従う」のであってよい。日常の中で、「目の前の苦しみを見ようとし、声を聞こうとし、痛みを知ろうとする者」であれ。「小さな修復の積み重ね」ができれば十分である。
まるで優れた説教のように、うっとりと6頁を読み、そこに浸った。確かな根拠に基づき、勇気を注ぎ、立ち上がらせてくれる。これは礼拝説教ではないのだろうが、説教とはこうありたいものだし、こうやってこそ、神を礼拝するということが可能になるのだ、というように、強く思わされた。
『福音と世界』2026年10月号、特集「救いとは何か、どうしたら救われるのか」は、その多くの文章が「多様性」を掲げていた。ひとつの流行であるのかもしれない。本論も、「旧約聖書に聴く救いの道、その多様な響き」という副題が添えられていた。しかし、その「多様」は、ひとつの通った軸があってこそのものであったように私は思う。