みごとな生き方へと自由に聞け
2026年10月5日

礼拝の終わり掛けに、牧師が手を挙げて祈るというものがある。多くの教会は「祝祷」と呼び、礼拝プログラムにそのように記述されている。だが当教会ではそれを「祝福と派遣」と称している。これは祈りではない、というのだ。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。(コリント二13:13)
代表的な祈りのひとつが、このパウロの祈りである。ただ、説教者は指摘する。原文に「あるように」はなく、私たちが勝手に補っているのだ、と。原文では、「あなたがたと共に」だけで終わっている。動詞がないのだ。願望ではなく、すでに「ある」と宣言しているように受け止める方がよいのではないか。
今日はマルコ伝12章の中程、「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」と、一人の律法学者がイエスに尋ねた場面を扱う、連続講解説教である。イエスはこれに先立ち、復活はないと主張するサドカイ派の人々がもちかけた、七人の兄弟が次々と死んだことで、復活の矛盾を突こうとした問答を突破した。これを聞いていた、「律法学者の一人が進み出」てイエスに尋ねたのだ。
一体、復活の力が及ばないような死があるだろうか。信ずる者が、神の愛の外側をあるようなことがあり得るというのだろうか。巧みな問いをもちかけながら、説教者は、この律法学者の問いの本質へ迫ってゆく。
旧約聖書の中でも最も大切な教えは何か。人は時にせっかちに、一番のもの、最高のものは何か、と尋ねたがる。たくさんある情報の中で、大切な一つだけを知りたいのだ。一番大切なものだけを知り、それをものにすれば、他のすべてのものを探らなくても済むのだ。あるいは、旧約聖書の律法の中で一番のものを守るならば、他のすべてを支配できたことになるのではないか、という甘い見通しがそこにあったのかどうか、それは分からない。
だが悪意を以て、あるいはイエスを陥れようとして、その律法学者は「第一」の戒めをイエスにもちかけたというのではなさそうだ。「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」と問うたところ、イエスも正面から真摯に応えたように見える。
イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」(マルコ12:29-31)
不思議だ。律法学者は、「第一」を問うたのに、イエスは「第二」を付け加えている。サービスなのだろうか。説教者は、イエスの応えた二つは、切り離すことができないものなのだ、と説いた。それは、教会の「祝福と派遣」で繰り返すこと、「神を愛し、隣人に仕える」が別々の二つではなくて、一つの殊なのだ、というポリシーと合致するのだ。
これは他の説教者も指摘していたことだが、この律法学者についてマルコは、イエスに対する賛辞について、ギリシア語のある語を以て飾っている。最初に「イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」というところと、イエスが二つの戒めを応えた直後にイエスに返して言った、「先生、おっしゃるとおりです」というところである。「立派に」と「おっしゃるとおりです」とが、ギリシア語で同じなのである。――というと、私たちは戸惑ってしまう。日本語では似ても似つかぬ表現であるし、品詞も構造もまるで違う。だが、ギリシア語は同じである。基本的にそれは「美しい」と訳す一言なのだ。
よくそれは、人体の美しさを称えるときに使われた。だが、古代ギリシア哲学では、さらに抽象的な「美」の理念、そしてそれは「善」に重なり、立派であること、気高いこと、そうした価値ある概念として用いられたのであった。ギリシア語を直訳する試みで訳された『詳訳聖書』では、これらをどちらも「みごと」という言葉で表現している。それらが同じ原語であることを知らせるのはとてもよいことだ。「イエスがみごとにお答えになった」「先生、おみごと」となると、その場の空気が伝わってくるようにも感じる。
四の五の理屈はいらない。私たちもまた、「みごと」と褒められるとすれば、実にうれしいではないか。陥れようとするような嫌味もなく、純粋に驚くべきこととして絶賛するときに発するような言葉だと思えないだろうか。
もちろん、人間の分際で、イエスに向かって「みごと!」などと声をかけるのは、おこがましいこと甚だしい、と見えるかもしれない。では「すばらしい」はどうだろうか。これもよいかもしれない。ただ、それは見世物ではない。私たちは単に、舞台のイエスに向かって、あなたはすばらしい、おみごと、と暗がりの観客席から拍手を送っているのではない。イエスが舞台で演じ、私たちが離れた観客として接している図式は、間違っている。完全に間違っている。
説教者は指摘する。イエスの言葉に、心を打たれ続けるべし、と。言葉巧みに語られたことを忠実に再現はできないが、イエスの言葉に憧れつつ、ときめきながら私たちは歩むのだ、というようなことを言ったと思う。
さらに、このイエスの返答について、注意深く耳を澄ますことから、次のような指摘があった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である」は、確かに引用である。申命記6:4にある、聖書の中でも第一級の重要な箇所である。ユダヤ教では信仰告白の中心そのものである。ああそうだ、神は唯一なのだ。十戒の第一もそうだった。そのようなことに気を取られていると、見落としてしまうことを、説教者は拾い上げた。
「聞け」から始まっているではないか。
とにかくまず「聞け」。いいか、「聞け」。そうだ。教師が生徒に重要なことを、正面切って伝えようとするときに、まずそれを言うではないか。「聞きなさい」は、時に厳かに、時に権威を以て、はっきりと頭に入れてもらわなければならないことを告げるときに使う言葉ではないか。
説教者は、申命記が蕩々と言い聞かせるイスラエルへの律法の宣言を語るときに、この「聞け」から始めたことを語った。
ここから少し時事問題に触れて、いまのイスラエルにとり、この「聞け」がどうなっているだろうか、と説教者は漏らした。それは、政治的な意味を以て言うものではなかった。こういうとき、何か「正論」を振りかざして世界の悪を指摘するような牧師が、世の中には確かにいる。政治の悪口を揶揄するように言って、にやりと笑う。このようなとき、その人は完全に自分が正義だと宣言していることになる。この戦争を、この政治のよくないことを、自分の責任として、自分の痛みとして語るのならばまだいい。問題を起こしている他者をただ悪く言うことに徹して、自分は安全なところから正義を振り撒いているだけである、そういう残念な牧師が現にいる。私はぞっとする。この人は福音というものを、幾ら綺麗事をその唇から連ねて出していても、腹の底は罪も救いも知らないのだ、と。そうしたままに、自分は神の教えを語る偉い人間だ、と自ら吹聴している姿に、まことにぞっとするのだ。
こちらの説教者は、政治について過ぎた判断を下すことはない。ただ、神を愛すると言いながら人を殺す行為があちこちでなされていることについて、「かなしい」と言った。確かに、十戒の「殺してはならない」は、同胞に対してが基本であって、敵を殺すことは、旧約聖書の神は幾度も幾度も命じてさえいるほどである。だが、イエス自身ユダヤ人であった。キリスト者は、イスラエルの歴史にある神を信じている。その流れに共にいる同胞のすることは、あるいはそうせざるを得ないような現実は、あまりに「かなしい」のだ。
だから、説教者が言うように、私たちがその「かなしい」ことをしていないのは、偶々いま私たちが手許に現実の殺戮の武器をもっていないだけのことであって、どれだけここに憎しみや嫌悪感があるか、それは私たち自身で気づいているはずなのである。もちろん、そういうことに気づかない人や、自己認識のできない人がいることも確かだが、自分の中にある醜さが分かるからこその、「かなしみ」であるに違いない。
説教者はここから、「自由」という言葉を使い始める。これは実に難しい概念である。とても短い時間でそれにまつわることを述べることができるような代物ではない。だからいま、そうした追究をしながら記すわけにはゆかないが、頭の中には「自由」のいろいろな側面や捉え方が渦巻いている中で、最低限のことに触れてゆくことにしよう。
説教者が告げたことは、キリスト者が自由を与えられたという前提で、そうした自由を得た者が、自由を手放さないために、どうすればよいかを心に置きたい、というようなことだったと思う。神に救われたからこそ、こうして毎週礼拝に加わっている。また、そのような救いと共に、日々助けられ続けていることを弁えている故の、この礼拝なのであろう。
神などいるものか、という強い態度の者もいるが、先ほど挙げた例のように、表向き神を信じ敬虔そうな姿を見せびらかせておいて、その実自分をこそ「王」として、自分を「正しい」とする者がある。それは自由の正反対なのである。自分では自由でいるつもりなのかもしれない。聖書を自分の理解することが正しいとし、神をさえ自分の判断で裁いているようなことも、現代では散見される。それは自由ではない。パウロもまた、そうしたことこそが正に「奴隷」なのだ、と理解していたように思われる。
私たちは簡単に奴隷になる。金の奴隷になる。国の奴隷にもなる。そしてここがこの説教者のまた優れた一面であるのだが、教会組織の奴隷にもなり得る、ということを指摘した。普通、牧師というものは、教会を第一とせよ、と言いたいものであろう。もちろん教会を愛することは必要であるし、教会が神の命じた共同体であるのも本当である。しかし他方、教会が存立しなければ自分の仕事がなくなる、という側面もないわけではない。教会の番人たる立場にある者として、「教会批判」というものを安易にしてもらうと困るのは確かだ。だが、そのような場合、「批判」という言葉を「非難」と同一視しているのであろうと思われる。「批判」は「検討」であり「吟味」である。無批判に教会に従え、というのであれば、これは実に危険な思想になる。それが、あのカルト宗教ではなかったか。だから、教会組織もまた、神ではない、という点を押さえるということは、実に大切なことなのだ。自らを絶対的なものとし、神とすることができるのは、正に神そのお方のほかにはあり得ない。
ここから説教者は、ウィリアム・ウィリモンの考えを紹介して説教の終わりへ向かうが、ここでそのウィリモンの思想を説明するよりは、必要であれば直にいろいろ調べてくださった方が早くて正確だろうと思う。ただ、宗教多元主義について触れたのは興味深かった。つまり、どの宗教も、山への登り口が異なるだけで、山頂に登れば同じところへ行き着くのだ、という考え方が世の中にはあるが、キリスト者はその登山者とは違う、と言うのである。キリスト者は、山を登らなくてよい。すでに神により、その頂上に連れて行かれている。すでにいま頂上にあって、祝いを続けているのだ。
キリスト者は、赦された祝宴の中にいま招かれている。そこには「自由」がある。誰かに噛みついて論争をし、自分が勝ったというような宣言を一方的にする、そうした馬鹿げたことをする必要はない。「論破」などと自分が言って勝ったつもりになる者は、そもそも相手の言い分を聞こうとしない。対話も何もなく、自分の中で構築した論理をまくし立てて自分の思い描いた筋道だけが正しいと決めつけている。あとは声を大きくし、幾らかの同調者を得られたら、それで勝ちが決定的になる。自分の論理が完成する。馬鹿な。それはただの「奴隷」ではないか。自分では自由であるつもりかもしれないが、何かに操られ、自己本位の世界を相手に押しつけるだけのことではないか。
説教者は言う。自由であるからこそ、人を愛することができる。イエスは自由なお方であった。自由そのものであった。だが、その自由を自分を喜ばせることのために使うようなことをせず、人のために使い切った。その自由は、自分の死をすら厭わなかったのである。すると、実のところ、「死」たるものは、イエスに手出しをすることができなかった、とも言える。復活の力に、「死」は勝つことができなかったのだ。死の勝利など、どこにもないのだ。
人は、どこから来てどこへ行くのか。多くの賢人が問うた。キリスト者は、罪の中から自分が来たことを知らされている。そして、神の勝利の祝宴へと、真理という道を歩んで導かれることを知っている。すでに救いの約束を受けたという喜びはあるかもしれない。だが、相変わらず現実にこの地上の旅はしんどい。辛い試練もある。また、自分の馬鹿さ機嫌に呆れてしまい、神との距離を覚え、神との関係さえ疑わされるようなこともあるかもしれない。
しかし、そこへ声が響く。今日の、第一の戒めの冒頭である。「聞け」――モーセの声ではない。最初はモーセだったかもしれないが、それを今日の聖書箇所で、イエスが口にした。いまや私たちキリスト者は、イエスの声を以て、この言葉を聞く。イエスが私に、「聞け」と言っている。ここでイエスの顔を見上げよう。それは我執に囚われない、自由な生き方なのだ。「聞く」ことで「奴隷」ではなくなるという、ある種のパラドックスがここに成り立っている。「奴隷」は、何かのために使われる。何かに役立てられる者として命じられる。だが、キリスト者は「奴隷」ではなく、「自由人」である。自由な者は、何かの「ために」役立つよう迫られることはない。組織に嵌めこまれて身動きが取れないような羽目には陥らない。キリスト者の前には、イエスの「みごとな」生き方が、手の届かないようなお手本としてだが、確かにある。ただ、そのイエスと私たちとは強い関係が結ばれている。「自由」という色に染まったその関係を保つものは、「聞け」の声に従うことである。
いま、正に聞こえてくる。「聞け」との声が。「お話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上3:10)