【メッセージ】大それたことでなくても――エリシャ(8)――
2026年10月4日

(列王記下5:1-19, ルカ4:22-30)
しかし、家臣たちがそばに来て進言した。「ご主君、あの預言者が大それたことを命じたとしても、あなたはきっとそれをなさったことでしょう。ましてあの方は、『身を洗って清くなれ』と言っただけではありませんか。」(列王記下5:13)
◆アラム
私たちはここのところ、預言者エリシャの後をついて歩いています。登場するのは、ナアマン。教会で聖書に親しんでいれば、どこかできっと聞いたことのある名前です。アラムの将軍でした。アラムは、今でいうシリアと言ってよい地域で、ここの言語は、後にイエスの時代に、ユダヤ地方でも標準的に用いられる言語であったようです。ヘブライ語と関連はありますが、全く同じではありません。
アラムという国は、北イスラエル王国の東に位置し、勢力を張り合う関係にありました。エリシャの時代、アラムとイスラエルとの関係は、微妙なところありました。宗教的な統一を以て国を構えるイスラエルにとって、アラムと迎合はできなかったようです。それで双方には対立も起こり、争いが続きました。
しかしアッシリアなど、近辺に大国があります。小国が下手に争ってエネルギーを浪費していますと、こうした大国が目をつけて一気に双方を滅ぼしかねません。時に手を組む必要もあったでしょう。時にくっついたり離れたりという関係があったように思われます。
この後、イスラエルはアラムにより壊滅寸前にまで至りますが、そこにエリシャがどう関わるか、またその後、アラムがどうイスラエルと関わってゆくか、そうしたことは、今後のエリシャの追跡により次第に明らかになるだろうと思います。
今回は、ナアマンというアラムの将軍の逸話を見ます。イスラエルとアラムとの関係が幾らか良好だった時代の一コマを垣間見ることとします。
◆規定の病
1:アラムの王の将軍ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主が彼によってアラムに勝利を与えられたからである。ただ、この人は力ある勇士であったが、規定の病を患っていた。
ナアマンは病気をもっていました。確かに「規定の病」と訳されています。かつては「癩病」と称されていました。「ツァラト」という表記もされましたし、いま主流は「規定の病」となっています。訳すのに苦しい言葉の一つです。どうにも社会的に差別された歴史をもつものであるため、苦労しています。また、時に「ハンセン氏病」と称されるのが一般的です。
日本でも、癩病については差別の歴史がありました。いえ、現在もその差別がなくなっているとは言えないのが実情です。悲しくも美しい物語として、『あん』(ドリアン助川)という小説・映画がよく知られています。全国に13の施設があり、そのうち5つが九州にあります。
完全な隔離がかつて行われていましたが、実のところ感染力はそこまで強くないことが分かってきました。しかし歴史上、子どもができないような措置をとられたこともありました。一部醜い後遺症が出る場合もあったのは事実で、いまでも依然として差別は残っているようにも見えます。
聖書に現れるこの病については、律法で様々に規定されています。こうした場合はどうだ、こうなったら完治だ、と非常に説明が細かいのですが、そういう関心をもたせるほど、以前は深刻だったとは言えそうです。
しかし、私たちが言う「ハンセン氏病」と、この聖書の指摘するこの病気とは同一ではないのではないか、と近年言われてきています。だとしたら、かつての聖書が「癩病」と呼んでいたことが、差別を生む原因になっていた、とも言えるわけで、現代の私たちは、これを含む病気の捉え方に、責任感を覚えて然るべきではないか、とも思います。
聖書に描かれるその症状は、必ずしも「ハンセン氏病」ではない、という考えが最近の研究の主流です。しかし何らかの皮膚病や感染症が広まる危険があったのは事実であり、昔の人々が警戒したのも理解できます。ともかく、その病気の正体が何であったにせよ、聖書が対応をいろいろと「規定」しているのは事実です。律法的に特殊な扱いを強いられたものですから、新しい訳では「規定の病」という、どこか落ち着かない訳語で対応している、ということなのでしょう。
そのため、ナアマンの病気が、イスラエルの律法の「規定」に当てはまった、ということは、聖書記者からすると紛れもない事実だったのでしょう。ただ、その「規定」によると感染の危険があったのは確かなので、ナアマンがその病気をもちながら、あたりまえのように公務に就いていられたのかどうか、私には少々疑問に思えます。
◆策略の疑い
2:かつてアラムは部隊を組んで出撃したとき、イスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来た。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3:あるとき、女主人にこう言った。「ああ、ご主人様がサマリアにいる預言者のところにお出でになれば、その規定の病を癒やしてもらえるでしょうに。」
皮膚病に悩んでいたナアマンは、いわば偶然に、情報を得ます。捕虜奴隷だったイスラエルの少女の口から、「規定の病」を癒やす「神の人」がイスラエルにいる、と。現代なら当然怪しい情報ですし、聞き流すところだったでしょう。いえ、現代でも、不治の病に苦しむ人からすれば、どんな些細な情報でも、藁にも縋る思いから、信用してみたくなることもありましょう。民間療法が絶えない理由です。
ナアマンは、主君に相談します。アラムの王は、とても寛大でした。それならば癒やしてもらうとよい、と簡単に訪ねて行く許可を与えます。この頃、アラムとイスラエルとの関係はまだ良かったと思われます。礼儀を伴い、多大な礼金を携えて、ナアマンはエリシャの許を訪ねます。少女の口からの情報ひとつで、将軍が、へたをすると敵となりかねない国へ、護衛も僅かな状態で訪ねてゆくのです。
アラムの王は、「私もイスラエルの王に手紙を送ろう」と自らの手紙を託します。そこでは「規定の病を癒やしてくださいますように」と願います。なかなか丁寧な書簡です。政治的にはあり得ないような接し方にも思えます。私たちの感覚では、このような低姿勢を喜ぶかもしれません。が、イスラエルの王は、この手紙に対して猛烈に怒りをぶつけます。
7:イスラエルの王はこの手紙を読むや、衣を引き裂いて言った。「私は、人を殺したり生かしたりする神なのか。この者は、私に規定の病の男を癒やせと送って来ている。だが、よく考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
確かに、政治的にはそういうことでしょう。これは特別な病気です。簡単に癒やせるとは思えません。癒やせなかったらどうなるのでしょぅ。それを理由に、アラムが正義となり、イスラエルを攻める口実をつくることになりはしないでしょうか。つまり、言いがかりをつけるための策略ではないのでしょうか。
◆塩対応
ところがナアマンは、イスラエル王のこの態度に、超然としています。使いを送り、知らせます。エリシャに会わせてくれ。そうすれば「イスラエルに預言者がいることが分かる」でしょう、と言いました。これは、アラムの将軍の台詞なのです。信じられますか。この時点で、すでに私はナアマンの信仰を感じます。が、あまりいまは持ち上げないようにしましょう。事の経過を見守ることにします。
9:ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の戸口に現れた。
10:エリシャは、使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」と言わせた。
素早い展開ですが、ここはじっくり様子を想像したいところです。ナアマンははるばる、いわば敵国にまで頭を下げてやってきたのです。金銀財宝を運び、アラム王の名を掲げ、病を癒やす神の人のところにやってきたのです。この家にエリシャがいる。どんなに緊張したことでしょう。ついに今から、自分の苦労してきた病気との闘いが終わるのだ。どれほどこの病に苦しんできたかが偲ばれます。いまそれから解放される道に足を踏み入れたのです。その信仰――そう言うのが言い過ぎなら、信頼と言いましょう――、信頼があったからこそ、ここまでやってきたのです。
すると、エリシャは顔を見せることもなく、使いの者が現れました。そして、伝言だけナアマンに向けます。将軍としては、それを非礼と見ても当然でしょう。肝腎の預言者は顔も見せません。そして使いの者に、川に行って体を洗えばいいよ、との言葉だけ言わせました。なんやそれ。私なら頭にきます。ナアマンも、頭にきたはずです。
なんという塩対応でしょう。この名医にかかれば治る、と聞いてはるばるやってきたら、風呂にでも入って安静にしといてね、との伝言を、他のスタッフから告げられて終わり。このとき「ありがとうございます」と頭を下げて、感謝して風呂に入りに行くでしょうか。
◆拍子抜け
ナアマンとしては、人生の一大事のつもりで、ここまで来たことでしょう。さあいまから一世一代の大勝負。そんな意気込みがあったかもしれません。長年かどうか知れませんが、職を失いかねないほどの危機の中で、それが癒やされるかどうか、それは自分の後半生を決定する重要なターニングポイントでした。
その預言者の家がいまそこにある。緊張しないわけがありません。後でぼやくように、「彼が自ら出て来て私の前に現れ、彼の神、主の名を呼んで、患部に手をかざし、病を癒やすものとばかり思っていた」というのも本当だろうと思います。私でもそう期待します。この自分の病気は並大抵のものではない。こんなに苦労してきたのだ。辛い思いをしてきたのだ。それを癒やすのは、超能力者が精一杯の力をこめて、癒やす儀式をするに違いない。それは思い込みかもしれませんが、そうあっても当然ではないかと思うのです。
しかし、エリシャ本人は出てこない。川に行って水浴びしたら治るよ。それだけ伝言を受ける。ふざけるな。エリシャならずとも、怒りがこみ上げてきます。怒りでなければ、それは「拍子抜け」した、とでも言えばよいでしょうか。
私たちもそれはあるでしょう。人生を懸けて就職の面接に向かいます。これは手強いぞ。無理でも仕方のない会社だ。よし精一杯、練習してきた応答やアピールを、するぞ。でも可能性は低いわけだから、落ちたときの言い訳をまず自分の中につくっておくこともあるでしょう。
緊張の極致の中で面接室に入ろうとすると、「あ、面接はいいよ。その辺掃除しといて。採用してあげるから」などと軽く言われたら、半信半疑というよりも、「んなことあるかい」という気持ちになっても仕方がないでしょう。
採用だというのなら、ナアマンのように怒ることはないかもしれませんが、どうにも納得ができないという気持ちがあるかもしれません。人並みに、ひとつやふたつ落ちて悩み、やがて真に自分を認めてくれる会社に出会う、そんな筋書きを考えていた身とあっては、こんないい加減な感じで「採用」などと言われても、実感が湧かないような気がします。少なくとも、自分の思惑とはずいぶんと違う様相を帯びてしまいました。
もちろん、最初から自信満々に、自分を採用しないのならその会社の方が見る目がないのだ、などと豪語していたら、また受け止め方も違ってきたかもしれません。人生を舐めているこうした人物は、ドラマを面白くするためのキャラクターとしては登場するかもしれませんが、実際にいるとは思えません。尤も、そういう人が世の中に実際いるらしいことは、私も気づいていますけれど……。
人生最大の大勝負、と覚悟していたからこそ、出来事に拍子抜けする。思っていたのと違うことに戸惑ってしまう。「思ってたんとちがう」というようなフレーズで、世の中では茶化すこともあるのですが、ナアマンの場合は、命懸けの願いです。実に深刻なものだったことでしょう。
◆小さなこと
「思ってたんとちがう」からと、ナアマンは暴れます。地元の川で洗うのとどこが違うのか、と吠えます。
13:しかし、家臣たちがそばに来て進言した。「ご主君、あの預言者が大それたことを命じたとしても、あなたはきっとそれをなさったことでしょう。ましてあの方は、『身を洗って清くなれ』と言っただけではありませんか。」
ナアマンの家臣は、なんと賢いことでしょう。機嫌を損ねれば自分の首が飛ぶ可能性もある進言です。しかし将軍に向かって、なんと堂々と、正論を吐くことができたのでしょうか。
もちろん、家臣たちは家臣たちで、与えられた任務がありました。ナアマンの病を癒やすために付き添ってくれ。王からそう託されたかもしれませんし、言葉で言われなくても、それが任務というものです。このまま将軍が憤って何もしないままに帰国したら、家臣としての職務を全うしたことにはなりません。給料が出ないかもしれないし、へたをすると死刑という可能性がちらついたかもしれません。なんとかこの任務を遂行しなければ。必死の進言であったのかもしれません。
14:そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言葉どおり、ヨルダン川に七度身を浸した。すると、その体は、少年の体のように清くなった。
驚きます。ナアマンが、文句一つ言わずに、駄々をこねた子どもが泣き疲れて無気力で言うことを聞くように、家臣の進言を受け容れたのでした。そして、エリシャの言う通りに川に身を浸すと、皮膚病がたちまち癒やされたのです。
家臣の言葉の、何がナアマンを動かしたのでしょうか。「あの預言者が大それたことを命じたとしても、あなたはきっとそれをなさったことでしょう」というところに、私ならば動かされただろうと思います。家臣は、ナアマンの行動を褒め称えるような言い方をしたのです。あなたはきっとなさった。それがあなただ。あなたはそういう立派な方だ。
けれども、もしかするとですが、ナアマンは気づかされたのかもしれません。自分は、何か大それたことを命じられると「思い込んで」いたのだ、と。自分の思った通りにならなかったことに、自分は腹を立てていたのだ、と。
「ましてあの方は、『身を洗って清くなれ』と言っただけではありませんか」との家臣の言葉に、エリシャが伝言という形ではありながら、自分に対して実に簡単なことを命じただけであることに気づいた――そうすると、命じられたことは、ほんの小さなことに過ぎませんでした。大それた業や奇蹟の儀式などではなく、なんでもない日常のこと。特別なことでなく、ただのありふれたことをやりさえすればよいのだと。ただ預言者が与えた「言葉」の通りにすればいいのだ。
小さなこと。小さなことだから、すればいい。あたりまえのことを、いつものように、小さなことをすればいい。ナアマンは、そこに気づかされたのだと思います。
そもそもこのエリシャという預言者の活動については、派手なエリヤに比べて、あまり注目されません。エリヤは、メシアの先導者だと福音書で位置づけられ、また死なずに天に挙げられたというふうに特殊な存在として注目されるのに対して、エリシャについては、知らない人もいるのではないかと危惧します。
でもよく見ると、エリシャのしたことは、イエスのしたこととよく似ています。いまそれを逐一挙げはしませんが、イエスの真似をしたみたいに、とてもよく似たことが多いのです。でもそれは錯覚です。イエスの方が、エリシャのしたことの記録を知っていたはずですから、倣ったのならば、イエスの方がエリシャを範とするよりほかありません。
イエス自身が、エリシャについて言及したことが、ただ一度だけありました。というより、新約聖書は、エリシャについて、ただこの一回だけしか言及しないのです。
また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた。(ルカ4:27)
少し寂しい気がします。「エリシャの時」と、時代を示すためにその名を用いるだけです。ナアマンの清めはもちろんエリシャの言葉に拠るというよりも、神の業のはずですから、エリシャの名は、時代を示すただの目印として触れたに過ぎません。でもとにかく、イエスがエリシャのことに触れたのは、このナアマンの出来事だったわけです。新約聖書に関係する、唯一のエリシャの名が、今日のこの出来事に関してだったのです。
◆謙虚に
ナアマンの癒やしは、エリシャが直に行ったのではなく、エリシャの伝言だけで実現しました。それはナアマン本人の期待からすれば、確かに拍子抜けするものでした。ヨルダン川で水浴びしたらええよ。自分の人生を懸けた思いを抱え、気負っていたナアマンが、がっくりしたのも当然だと言えます。
私たちは誰もが、自分が自分の人生の主人公だと考えているかもしれません。誰かほかの人のために生きる、そういう真摯な利他の精神に富む人もいるでしょうが、それでも自分の人生の舞台は、自分が主人公だと見なすしかないのではないでしょうか。
主人公は、もっと脚光を浴びていいはず。もう少し主役として活躍すべき。いや、スポットライトに照らされた主役であれ、と願っているのではないかもしれません。でも、自らの不遇を思う戸、もう少し注目されて大切にされてもいいのではないか。贅沢は言わないにしても、いくらかはもてはやされてほしい。そう思ったところで、非難を浴びる必要はないでしょう。
ナアマンは思い込んでいました。こんなに苦労して長い間悩んでいた病を癒やす預言者の許へ来た。その癒やしの場面は、もっと劇的なことが起こって然るべきだ、と。口に出さずとも、心ではそのように期待していたのでしょう。この心理は、さて私たちにとっては、決して他人事ではないのだと思います。私たちも「そういうこと、ある」と言わないではいられません。
ましてナアマンは、国の英雄です。戦いの将軍として、名を馳せ、地位と名誉を手にしています。自分の癒やしには、ドラマチックなもの、特別な出来事を想像していたとしてもおかしくはありません。しかし、家臣の言葉を正面から受け容れました。素直に川に身を浸しました。謙遜な態度に戻りました。
ハッと気がつくと、自分は報酬をエリシャに届けなければならないことを思い起こします。前払いでなく、事後の後払いですが、報酬を支払うことは道理です。しかし、エリシャは、豪華なその報酬を、受け取ろうとはしませんでした。ナアマンはしきりに渡そうと粘りますが、エリシャは断ります。
このときナアマンは、神の業を実感したのではないでしょうか。それは、エリシャに会ってからの、次の言葉から想像できます。
17:そこで、ナアマンは言った。「それでは、どうか僕に二頭のらばに載せるほどの土をください。僕は、主以外のほかの神々には、もはや焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げることはいたしません。
18:ただ、次のことについては、主が僕をお赦しくださいますように。私の主君が、礼拝するためにリモンの神殿に入るとき、私の介添えが必要となるため、私もリモンの神殿で礼拝します。私がリモンの神殿で礼拝するとき、主がこのことについて、僕をお赦しくださいますように。」
分かりにくいですが、ナアマンが土を求めたのは、主にいけにえを献げるために必要だったから、と理解しておきましょう。ただ、アラムに戻れば、自分はリモン神殿での職務がある。王と共に、礼拝に加わらねばならない。イスラエルの神、主に治して戴いたのであり、主なる神が偉大であることをいま身に染みて教えられたのに、今さら別の神の像などを拝むことができようか。でも、それは仕事なのだ――どうか「主がこのことについて、僕をお赦しくださいますように」と、赦してくださるようにと丁寧にエリシャに告げました。
これは、ナアマンがもはやそのリモンの神殿の神を、もはや神とは見なしていないことを表しています。これに対してエリシャは、「安心して行きなさい」と返答して、二人は別れます。
エリシャは、異教の神殿での礼拝参加を認めたように見えます。ただ、私たちがこれを言い訳にすることは厳に慎まなければなりません。ときおり、教会に来た人の中にも、このような弁明をする人がいます。墓参りや仏事への参加を、どうしても家でしなければなりません、初詣にも、行かないわけにはゆきません。そのように悩みを打ち明けます。
牧師としては、少し心が痛むところかもしれません。無闇に否定することもできないでしょう。ギデオンのように偶像を破壊することを推奨することはできないでしょうし、昔あったように、仏壇をすぐに捨てろと命ずる牧師の真似もできません。
むしろ、私たちは、日常の中で、小さなささやかな出来事の中で、神に従うことへと目を向けるのはどうでしょうか。食器をいつもより丁寧に洗う。部屋の片づけも厭わない。ちょっと歪んだ新聞を揃えて置いておく。困っている人を見たら無視せず、近寄って声をかける。投票には毎回必ず行く。同じ電車に乗っているいろいろな人の気持ちを想像して静かにし、スマホをチラチラ動かすようなことをしない。こうしたことの善し悪しを、私が決めるつもりはありませんが、その人が霊に示されるものとして、日常の小さなことの中に、自分がどうしてもしなければならないと思わされながら、自分が従うべき機会が、実のところ幾らでもあることに、気づくようでありたいと願います。
私たちにこびりつく罪は、「規定の病」のようなものですが、イエスの命じた、小さなわずかなことに従うことで、それは清められるのだ。そう信じます。