常識と偶像
2026年10月3日

時に、何かが偶像となる。最初、それが登場したときには、異端的に扱われていた。まさかそんなことがあるわけないだろう、との冷たい視線と攻撃に見舞われた。だが、なんらかの出来事をきっかけにして、それが認められ始め、いつしかスタンダードになってゆく。そうなると、それが次第に当たり前になり、かつての常識などは異端とされてゆく。
何にしたって、こういうことの繰り返しだ。それを「パラダイム」という言葉で明らかにした哲学もあった。それは、思想的な領域に限らず、もっと日常のなにげないことに対しても、適用できるだろうと私は捉えている。
女性が選挙で投票をするなんてありえない。そうした時代もあった。女子がパンツルックで中学に登校するなどありえない。そういう常識が当然だったこともあった。女性アナウンサーは深夜の報道に携われないのが当然ともされていた。教会の牧師を女性が務めるなど考えられなかった教会もたくさんあった。なんだか女性についての常識が多いが、もちろんその他のことも多々ある。
学校の教師が、いじめられる側にも理由がある、と決まり文句のように話し、いじめる側に寛大だった時代もあった。牧師がワンマンで、教会で強いリーダーシップを務めるのが当たり前とされていた時期もあった。同性愛者は犯罪者だとしていた国や時代もあったわけだし、魔女を探して殺戮していたこともあった。特にキリスト教というものがそれらを激しく「神の正義」の名の下にしていたことを、クリスチャンは断じて忘れてはならない。
過去の常識こそ真理だと言い張る者が少なくない。それは、過去の常識が自分を育んだからである。過去を否定することは、自身を否定することになるため、ほぼ本能的にそれを避けるのではないかと思われる。
いまが一番よいというわけでないことは当然だ。次のパラダイムで、いま誰もが当たり前のようにしていることが、消えてゆくことも考えられる。電車という密室の中で他人にものを考えさせないお喋りや、優先席という概念を全く考えない冷たさや、前を見ないで歩くことや、そもそも他人に全く関心をもたないでいるようなことが、過去に消えてゆく時が来ることを願っている。
そして、「民主主義」を多数決だとしか理解しないような考え方や、「多様性」が何でもアリだと言い切るような態度も、考え直されてゆくとよいと思う。このとき「民主主義」や「多様性」というものが、偶像になっているのである。そうした偶像を持ち出せば、万事終わりであり、自分が論破できるという思い込みは怖い。事実、「神」というものを盾にすれば、権力は――民衆もその意味では権力をもっていた――人の命を正義の名の下に奪っていたのである。
「当然〜ではないか」のフレーズが頭に浮かんだら、よくよく省みるとよい。その習慣があるだけで、いくらかの暴走を避けることができるのではないかと思う。誤りをすべて回避することはできないにしても。