心の目が照らされ
2026年9月28日

マルコ伝の連続講解説教を一休みして、今日は「教会」をテーマに礼拝説教が語られた。教会の行事で、これからの教会を語る、というような交わりが午後に予定されていた故である。選ばれた聖書箇所は、エフェソ書1:15-23であった。有名な、「教会はキリストの体」(1:23)という言葉が登場するところであり、当然そこが説教の着目点であるはずだった。
これは、もちろんエフェソの教会に宛てた手紙という形で書かれたものであり、本文からしてそれを否定することはできない。書いた場所については推定するより他ないのだが、説教者は、ローマの地を想定した。伝説によると、パウロはそこで死刑にされたのだという。エフェソの教会は、使徒言行録を見る限り、パウロと親しい関係にあった。特に三年にもわたる滞在は、他の教会では見られない特徴で、信徒たちとのつながりも一入であったことだろう。
この手紙には、教会に対する批判やお小言のようなものが基本的にない。命令口調で訳されてはいるが、非難を伴うような感じではない。やはり信頼関係があったと見るべきなのだろう。だから、あなたがたの教会は、キリストを体現するような存在としてそこにあるのであり、キリストの業を現しているのだ、との励ましのような気持ちがこめられていたのではないか、とも思える。
17:私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、
18:心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、
19:また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。
ここは美しい祈りの言葉であると見てよいだろう。「キリストの体」というような、少しひねった神学的な言い回しよりは、ずっとシンプルで直接的な心がここに表されている。説教者はここから、「心の目が照らされ」という言葉に特に注目し、幾度も説教の中でこのフレーズを繰り返した。
これは新共同訳では「心の目を開いてくださるように。」と一旦切って最初に置かれた。説教者はこの訳を買っていた。ここでの動詞は、基本的には、光で照らすことである。光がもたらされることにより、見えるようになる、というところにまで踏み込むことも当然できる言葉である。さらに、日本語で「明らかにする」というように、この明るさという言葉は、理解が進むこと、はっきりと分かることを示すことができ、どうかすると「啓蒙する」という意味にも使うことができるのであろうと思う。「心の目が照らされ」というときに、この隠喩的な感覚が伴っていることは確実である。
そもそも「心の目」という表現が粋である。日本語でも「心眼」という言葉がある。名作落語もあるほどだし、仏教の語だという話もある。この「心」というギリシア語は、心臓を意味する語である。新約聖書には800回以上使われているというが、「心臓」という意味で使われていることは一度もないようである。すべて比喩的に、人間の考えと気持ち、つまり思考と感情の座を表している。だから日本語の「心」という言葉は、とても相応しいように思う。
但し、「心臓」は体の中央に位置すると見てよいし、生命活動のためにも、血液を全身に送るという中心的な役割を果たす。「心」という言葉で、人間の中心にあるもの、人間の本質的なものを指すように考えてもよいのではないだろうか。人間の中心、本質的な部分が、光に照らされていること、はっきりとしたものであること、それが求められているように感じられる。
「照らされ」というような受動態の表現は、意味上の主語が表されていない場合、主語が神である、という理解が聖書に於いては一般的である。だとすると、照らすのは神である。この光は、人間にとり、外から来るものだ。自分の中から湧き起こるものではない。自分が発明したものではないし、自分が造り出すことができるようなものではない。神からくる。もちろんイエス・キリストからくる、と言ってもいい。そしてまた、神の言葉からくる、と言ってもいいに違いない。
説教者は、このような手紙は、宛てられたエフェソの教会だけに向けられてものではないし、エフェソの教会の人々が聞けばよいのではない、というような釘を刺していた。各時代の教会が、自分たちへ宛ててこうした書簡を読んできたのだ。そして、いまの私たちもそうしなければならないことは言うまでもない。私たちにいま、聖書の言葉が届けられている。それは神からくる言葉であり、ある意味で神そのものである。そして、私たちの外から照らす光である。
私たちの本質的なところに、いまこうして神の言葉が届けられている。「心の目が照らされ」という言葉の中に、私はそのようなメッセージを受け止めていた。
さて、礼拝説教そのものは、この光を、教会の「礼拝」を通して受ける、という方向へと舵を切ってゆく。また、そこに差し込んでくるのは、「イエス・キリストの復活の力」であることが強調され、それを届ける「説教」というものの重みを伝えることとなった。説教の重みを伝える場が、正にその説教であるというところがパラドキシカルであるようにも見えて面白い。
普通の説教ならば、エフェソ書のここからは、どうしても「教会はキリストの体」という言葉が中心となり、第一コリントの12章辺りを引用し、教会の中で一人ひとりそれぞれの賜物をもっており、それを活かして奉仕しましょう、というように走りがちではないかと思う。教会の話だから、奉仕、というのはあまりに定番であり、また時に誰かを傷つける。あるいはまた、奉仕するのが当然だ、という悪しき空気をもこしらえてしまう。
しかし、「教会」をテーマにした礼拝とて本日は立てられている。説教者はおもむろに、教会のひとつの問題点を拾い上げた。それは、教会のいまと将来のことである。長い時間それに触れることはなかったが、私は偶々、この日のメッセージに於いて、その問題を正面から取り上げていた。10年ほど前に出版された、『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる――キリスト教の30年後を読む』という資料を基にして、さて10年後となったいま、そのときの懸念がさらに現実になっているのではないか、と考察したのである。教会という建物や組織は、今後間違いなく減少してゆく。
しかし、いまから凡そ百年前に刊行された、ベルクソンの本では、機械文明と神秘主義とが結びつくことを指摘していた。科学が宗教を追い出すわけではない。もっと複雑な、深層に於ける人間の変化が、社会の変化をもたらすことへと目を向ける必要があろうかと思う。いま急激に(私から見ればようやく)表に立ってきた、AIが破滅をもたらす可能性については、真摯に考えねばならないものと思っている。
説教者は、最後に、いわゆる「主の祈り」の言葉の裏を明らかにするような試みを示した。たとえば、「御名が聖とされますように」と祈るのは、神の御名が汚されているから。「御国が来ますように」と祈るのは、御国が来ていないから。私に言わせれば、御国が来ようとしていないかもしれず、人がそれを迎える備えをしていないために御国が来るのを妨げているのかもしれない。それはまた、「御心が行われますように」と祈ることの理由にも重なるように思われる。
こうした比較を、略さずにやり通して、説教者はこの「主の祈り」は町の中で祈るものだ、というようなことを語った。これは挑戦的であった。祈りについてイエスは、「隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)と教えている。ではなぜ説教者はそのようなことを言ったのか。
そのためには伏線があった。キリスト教界には、「四段の噴水」という比喩があるのだという。まず父なる神から発される恵みを、イエス・キリストが受ける。噴水の水はさらに溢れて、教会がそれを受ける。教会がそれを十分に受け、満たされたという条件つきではあるが、そこからあふれた水が、乾いた地へ、つまり世界へ、すべての人々へ注がれてゆく、というのである。
それがとても印象に残っていた。と共に、私の中には、四段の噴水というよりは、ワイングラスタワーが浮かんでいた。ワイングラスをピラミッド状に並べて積み上げてゆく。その一番上にワイン(本当にワインなんだろうか?)を注ぎ続けると、溢れたワインが次々と下の段のワイングラスに零れてそこに溜まる。それが一杯になったら、また下の段へ……というイメージが、私の中にあったのである。
神から受けた恵みを教会の私たちが一杯に受けて、そして私たちが満たされたら、次に教会の外へ、世界へ、すべての人々へ、神の恵みが注がれてゆくという構図があればこそ、「主の祈り」は、町の中で祈られるものであるし、町の中へ響いてゆくべきものなのである。