あたりまえにある奇跡

2026年9月27日

アニメ「きみが死ぬまで恋をしたい」が一区切りついた。そのオープニングの歌の歌詞が切なかった。一部を引用する。
  
  会いたい
  きみに会いたい
  
  ……
  
  明日 きみがいないのなら
  僕は後悔するのだろう
  言えなかった言葉たちが
  棘になって刺さるのだろう
  
  明日 きみがいないのなら
  僕はどうなっちゃうんだろう
  そんなこと考えてたら
  きみに会いたくなったんだよ
  
  明日 きみと生きれるなら(ら抜き表現)
  毎日記念日にして祝おう
  あたりまえにある奇跡を
  決して忘れはしないように
  
  ……
  
  きみにあげるはずのこれから先 何十年分の
  「おかえり」「いってきます」「おはよう」
  「おやすみ」「ありがとう」「ごめんね」
  「大好きだよ」たちは
  誰に言えばいいの ねえ
  
  ……
  
  会いたい
  きみに会いたい
  
  ねえ どうして神さまはさ
  出会いと一緒にサヨナラを
  きつくリボンで結びつけてプレゼントしたの?
  
  明日 朝目覚めたら
  「おはよう」って きみに言えること
  「ただいま」って言ったらさ
  「おかえり」が待ってること
  
  分かり合えず喧嘩すること
  「ごめんね」って謝れること
  そのどれもが奇跡だったよって
  思える きみと出会えた
  僕は 僕は
  きみが大好きでした
  
  ……
 
ReoNaという名の女性歌手が歌う「Amore」と題した曲である。著作権を侵していると思うが、その素晴らしい感性を直接伝えたいと思った。どうか機会を見つけて、実際に全曲お聴き願いたい。
 
アニメの物語は、若い女の子たちのものである。架空の話だが、孤児の少年少女に魔法を教える学校が舞台である。一人ひとりは兵器として使われるように訓練される。少女たちは突然召集され、戦いに繰り出される。死の場面もある。そして、少女たちは互いに愛し合う。いわゆる「百合」ものである。
 
切ない歌詞である。「僕」と称しているところが、少女たちの世界にまた切なく響く。が、なにも少女同士の関係でなくてもいい。身近な、大切なひとのことを、こんなふうに私たちは思っているだろうか、そんなことを問われるような気がしてならない。
 
歌詞は、「明日」の存在が保証されない真っ只中にいる心である。絶望しかいまはもうなくなった、そんなシチュエーションであるが、何気ない日常がどんなに基調だったか、かけがえのないものであったか、それをひしひしと感じさせる。
 
とても重たい。だが、私はふだん、こうした気持ちでいると言っていい。だからこの歌詞が心に染みるのだ。確かに、明日がある前提で行動する。先々のことを考えて計画もするし、また明日がくることを疑わずにひとに接するし、夜も寝ているには違いない。だが、そうではないということも弁えているのは事実である。傍にいるひとからは、とてもそんなふうに見えない、冷たい人間だと思われているだろう、とは覚悟しているけれども。
 
表向き、のほほんと毎日同じように暮らしているように見えるであろう。ただ、意識は違う。そんなことは物心ついてからずっとである。だから、ハイデッガーが存在を問いつつそれを時間制の中に考えようとしたことも、実感できたのは間違いない。そっちへのめり込みはしなかったが、私の核心の部分に、それは確かにあるし、あり続けている。
 
それはかつて興味をもちながらも頓挫していたベルクソンを、いままた考え直していることにもつながっている。物理学にも興味をもったが、ベルクソンはそれを実のところ凌駕していたということに改めて気づかされるのであった。
 
日常の、あたりまえすぎることが、どんなに奇跡であるのか、「Amore」の歌詞は指摘している。絶望を歌うのに長けた歌い手であるとの評判だが、本当にそれが絶望であるのか、それはまた別であろう。なにげないいまがどんなに輝いているものなのか、抱きしめたくなるほど愛おしいものなのか、私たちに伝えてくれていると思うのだ。
 
聖書の言葉もまた、そうしたものである。



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