世代から世代へ
2026年9月21日

しばらく里帰りされていた韓国出身の説教者の説教をしばらくぶりに聴く。その第一声が、敬老の祝福の礼拝である。まず、人生を四季に擬える、情緒溢れる入り方は、如何にも日本的だ。人生は季節のように変化する。だが、これは説教である。「変わらないもの」がある。草は枯れ、花はしぼむけれども、主の言葉は永遠に立つ。そして説教者にとっては、神の恵みはとこしえに変わらない、ということが今大きくこの場に響いている。会堂にそれを響かせている。
開かれたのは、詩編71編。選ばれたのはその16節から18節であるが、この詩には敬老の祝福に相応しい信仰が流れている。
年老いた時、私を見捨てず/私が力衰えても、捨て去らないでください。(詩編71:9)
このような言い方は、詩人がむしろ老人ではないということを意味しているように思える。だが、決して若者というわけではなさそうだ。
神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。(詩編71:17)
説教者自身、まだ老齢というわけではない。かといって、若者というよりはむしろ「おとな」である。すると、説教者の立場から、この詩人の心境は、共感しやすい位置にいるのではないか、と想像する。若い時からあなたが教えてくださってきた。そして、神の言葉を、神の業を語り続けてきた。正に、伝道者としての気概がそこに感じられる。
もちろん、教職にあるからこそだ、と決めつける必要はない。信徒伝道者などという肩書きすら要らない。ただ主の僕としてそこにいること。居続けたこと。それだけでいい。
もしかすると、高齢になると、自分が必要とされていないのではないか、という不安に襲われることがあるかもしれない。さらに、老いるということに恐怖心を抱くことがあるかもしれない。けれども、主と共に歩んできたキリスト者であれば、自分の足跡には常に主が伴っていた。有名な「あしあと」の詩のように、ときには自身で歩けないとき、主が背負っていたのだ、と気づかされることがあるようにも思える。否、始終主に背負われてばかりだった、というところが正直あるかもしれない。
説教者は、老齢に於いて、若いときには見えなかったものが見えることがあるのだ、とも言う。見えないものを見るのが信仰だともいうが、神の恵みをしみじみ思い出すのみならず、正にいまここに神の恵みがあるではないか、と見えるようにすらなるのではないか、ということらしい。過去のことに於いても、あれが神の恵みだったことに気づく。現在にもそれがあるはずだ、と類推することもできようというものだ。
最近偶々、「老い」ということについての本を立て続けに読んでいるので、説教を聴く中でも、いろいろ思いが馳せることがあった。そればかりか、いま読んでいる「老い」とは関係のないはずの本とも、リンクすることがあった。
それは、『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』である。ベルクソンは好きな哲学者の一人なのだが、改めてその「時間論」について、やわらかな解説を見て見たいと思い、先月発行された新書を購入したのだ。その中で、「回顧的錯覚」という説明に目が留まった。ここで論じても仕方がないのでぼんやりと指摘すると、今この現実を理解するために、過去の記憶に、実はあのとき可能性があったのだ、などというように、過去の出来事に納得しやすい意味づけをするように、人間は思いがちだ、ということである。
それは、村上春樹の中に巣くうようなひとつのテーマとも関係する。過去の出来事そのものを変えることは、確かにできないだろう。今の自分が過去の記憶を変化させ、過去に新たな意味づけをすることはできる。だから、極限すると「未来が過去を変える」というような、逆説的な言い方もすることがある。
詩編の中でダビデが謳ったというが、「私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな」(詩編103:2)というのも、単に昔を覚えていよ、というだけではないような気がする。「すべての計らい」は、若いときの自分を形成するものだった。私がいまあるのも、主の導きの故である。主はずっと確かに自分を導いてきたのだ、ということに改めて気づくことが大切であることを、しみじみと語っているのかもしれない、と思ったのである。
説教者が言ったように、「神は真実な方であるという経験」が、改めて身に染みて感じられるということもあろうかと思う。それは、木の年輪の中に、神が共にいた記録が刻まれていることに気づかされるようなものである。
確かに、歳をとればできなくなることも出てくる。教会のために何もできない、と思うような場合もあろう。だが、幾人か出会ってきた高齢者は、誰よりも多く祈っていた。ある方は、祈るべき人や課題を、長い紙に書き連ねていた。それをずっとつないで巻物のようにして、開いて祈ると仰っていた。「それしかできない」と謙遜しておられたが、私から見れば、「それができる」という強みであるに他ならなかった。
神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。(詩編71:18)
もう一度若い日々に戻りたい。詩人はそのようなことを願ってはいない。それを願ったファウスト博士は、メフィストフェレスにつけこまれ、悪魔に魂を売ることとなった。
ただ、主に捨てられさえしなければ、生きてゆける。命がある。そこに、永遠の命の鍵があるというものだろう。詩人は、その捨て去られないことの意味を、主の業を「来るべきあらゆる代に語り伝える」ことの中に感じていた。説教者の語りは、この後この「世代」という言葉に傾いてゆく。
ワーシップソングの中に、「From Generation to Generation」という言葉が時折聞こえる。否、探せば数限りなく出てくるようにすら見える。「世代から世代へ」という言葉だが、信仰の継承というような意味をもつことがあると共に、神の福音が変わらず伝えられ、恵みが続くということを表しているのではないかとも思う。
説教者は、高齢者と若者との間のつながりを求める。具体的に牧会する中で、それは大切なことであり、牧会者はそれを適切につなぐ役割を担うことになるだろう。しかしまた、説教者自身もまた、高齢者に心から願うことがあるという。これまで受け取ってきた神の恵みを語って戴きたい、というのである。
そして、いまも人生は進行形の中にある。これまでの昔話ですでに終わったわけではない。これからまた、新しいことも起こるであろう。そして、これからの足跡からも花が咲き、神はそこにある信仰を用いて、新たな神の業を呼び起こしてくださることだろう。今日受け取ったものを、また誰かに渡すものとしてゆく。それが「世代から世代へ」という言葉にこめられた祈りであろう。
ところで、最近読み終わった「老い」についての本であるが、ひとつは『老いるということ』という直接的なタイトルの講談社現代新書で、作家の黒井千次氏が2006年に、七十代の半ばにさしかかろうとする頃に著したものである。NHKのラジオ講座の原稿をまとめたものであるが、文学の世界から巧みに「老いる」のテーマを読み解くものとなっている。私の知らない物語が沢山あるが、それを読んだことがない人にも十分伝わるように、丁寧に説明されていた。
「老いの中にはその季節にだけ見出せる貴重な何かがひそんでいないとも限らない」という「はじめに」が印象的だった。だが文豪というものはやはり驚異的である。芥川龍之介や太宰治という、自ら死を選び夭折した天才たちが、さらにまたその若い頃、デビューのような時期に、それぞれ『老年』『晩年』という作品を呈している。そこからもまた、「老い」というものが「完了形」ではなく「進行形」であるという、その本のテーマが映し出されていたようにも感じられる。それは、説教者の眼差しと少しつながるものがあるのではないか。
その本は、決して老年が孤立した時間ではないこと、老いは次第に姿を現してくるものであること、だから老いは、老年の課題というよりも若い日の宿題であること、そのような捉え方を提供してくれていた。老いというものを否む必要はない。これまで生きてきたことは、贈り物となって手にすることになるだろう。追い続けるということは、生き続けるということだから、確かに生きていることの証しとなるのだ、というように、希望が与えられるような言葉がそこにあった。それはどこか強がりのように聞こえるかもしれない。意地悪な人は気休めではないか、と言うかもしれない。だが、希望を抱く人には、ごまかしの気休めというものは存在しない。その人が、当人が顔を挙げて歩んで行ければよいのではなかろうか。
もうひとつの本は、『いのちの器』という本で、私は新装版の文庫を手にして読んだ。この言葉は、晩年さかんにそのテーマで講演をしていた著者のために、思い出される方もいるかもしれない。105歳まで現役の医師を務めていたという、日野原重明氏の本である。牧師の父をもち、生涯神と共に歩み続けた。医師として「成人病」の呼称を「(生活)習慣病」と変えたのはこの人である。
福岡のよど号事件の当事者となったことから医療と命について考えを深め、聖路加国際病院院長として災害に備える提言を起こしたために、地下鉄サリン事件のときに多くの人の救急救命に貢献できたことでも有名である。
この『いのちの器』の文庫は、サブタイトルに「医と老いと死をめぐって」と付けられており、特に本の後半がこのテーマで綴られている。連載記事を集めたものであり、広く分かりやすい叙述となっている。元々1989年の発行であるが、決して中身は古びていないと思う。私の手にした「新装版」という文庫もすでに15刷を数えており、いまもよく読まれているようである。信仰の話は直接的には登場しない。だがさすが文章が巧みである。高齢者はもちろん、高齢者を身近にもつ方、あるいは高齢になった自分のことが気になる方は、本の初めから終わりまで、心が動かされることが多いに違いないと思う。
さて、「世代から世代へ」という説教後半の大きなテーマであるが、私は子どもたちを、最低限教会経験はしてもらったとは言える。一緒に礼拝に連れて行かなければならなかったというためでもある。だが信じろとか信仰とはとか、強いるような働きかけはしなかった。それは緩かったかもしれない。教会生活を続けないという道にいる子ばかりのようであるが、恐らく「宗教2世」という流行の騒ぎをセンセーショナルに受け止める立場にはないだろうと思いたい。
しかし子どもは親をよく見ている。否、知らず識らずの間に、親の影響を受けている。子どもたちはそれぞれに、音楽に、写真に、哲学に、あるいはコーヒーに、本に、など驚くほどそこに自分の姿を見せつけられるように感じることがある。
子は親の鏡だともいうが、「世代から世代へ」とは、まず人が自分の生き方をする、というところから始まることは確かだと思う。キリスト者として、自分が神と向き合い、結びついているということが、教会の「世代から世代へ」のためには、まず必要である。これは否めないと考えている。誰もが、正にその「世代」なのだ。「から」の方か「へ」の方かは、それぞれであるにしても、確かに自分が「世代」の一員であることを「知る」べきである。