胃透視で褒められる
2026年9月19日

会社の健康診断は、ここのところ秋に行われている。夏期講習でさんざん傷めた身体の状態のときにあるのは厳しいのだが、無料で診てもらえるので文句は言うまい。ありがたいことである。
胃透視がいちばん問題である。かつて、ピロリ菌検査を医院でしてもらった年は健診での胃透視は免除されたが、その他の都市は、毎年、絶飲食の後に、例のバリウムを呑んでいる。それでも以前のバリウムよりは、最近のは「おいしく」なった。
検査台に入ると、アナウンスが入る。まず右へ3回転とか、右斜め45度とか、カメラ撮影に必要な措置や角度を求められる。いつも思うが、ろう者はどうするのだろうか。モニターがあれば視覚的に指示できるが、検査技師が手話を使えるとはなかなか思えないし、大変ではないかと心配する。
とりあえず私は聴者なので、普通にアナウンスを聞いてごろごろするわけだが、今年の若い男性技師の声は張りがあり、明るかった。いや、そればかりではない。「はい、いいです、いいです」などと感動の声を伝え、さらには「バッチリです」というような、粋のいい反応をしてくれたのだ。
どうかすると、こういうのを過剰だと嫌がる人もいるかもしれないが、私は気持ちよかった。うまく向きが決まると、褒めてくれる。もちろんこれまでも「いいですね」くらいの反応はあったが、さすがに「バッチリ」は初めて聞いたと思う。
言葉の軽さ云々の話ではなくて、この「褒める」ということが、私には心に響いた。なぜなら、私も人を褒めるべき仕事をしているからだ。学習塾で生徒に対していると、素人的な講師は、「どうして分からないのだ」と思うことがあるかもしれない。この説明で分からないはずはない、と自分で思い込んでいるから、分からないという生徒の方を責める気持ちになるわけだ。
もちろんプロは、そんなことを口にすることはない。だが、一瞬でもそういうことが頭を過らない、とまでは言えない。だからまた、どのようにして分かってもらおうか、と苦心惨憺するのであるが、もちろん大切なことは、生徒の理解が何によって詰まっているか、を考えることだ。多いのは、言葉の意味が分からないことである。時に、その生徒独自の思い込みで、あることをその生徒は特定の枠で捉えてしまい、そこから抜けられない、ということもある。
塾へ来て、「分からない」で帰ってもらうというのは、本人もだが、教える側もつまらない。気持ちというのは大切なもので、前向きな気持ちで帰ることができたら、少しばかり困難な問題に立ち向かっても、どうしたらできるかな、とやる気を以て向き合う勇気が湧いてくるものだ。単に「難しかった」「どうせできない」という気持ちでいたのであれば、とても問題と向き合う気持ちになれやしない。
いい気分になれる、それは大切なことなのだ。そして、人間は、褒められたらいい気分になるものである。生徒は「できる」ことが一番の前進の動機となるであろうし、先生に褒められたことが、うれしさを呼び起こすであろうことは明らかである。
生徒を褒める。それは私も当然心がけていることだし、自分なりにやってきたつもりだった。だが、技師に「バッチリです」と言われただけで気持ちが歩くなり、もう一周でも二周でもぐるぐる回りたくなるようになるのだから、生徒に対して、もっと褒めることが必要だ、と教えられた日であった。