異常気象ではない
2026年9月15日

「線状降水帯」という言葉が一般に広く知られるようになってから、恐らく十年余りというところだろう。現象そのものは以前からあったとしても、その呼び名で言わざるを得なくなったのは、激しい雨による被害が顕著になってきたことと関係しているものと思われる。
聞き慣れない言葉がようやく馴染んできたと思ったら、今度は「モンスーンジャイア」という言葉で説明されることが始まった。知らない言葉だったが、30年余り前に用語ができたらしい。この言葉が一般に聞かれるようになったのはほんの最近のようだ。
こうしたことは、近年の豪雨が以前と違ってきたことを示しているのであろう。
私たちはここのところ、もはや「異常気象」という言葉を聞かなくなった。毎年、毎月のように起こることについて「異常」という表現は似合わないからだ。それが「日常」となり「あたりまえ」になると、「異常」などとは言っている場合ではなくなるのである。
自然現象が、人間の力よりも大きいことは、当然である。だが、人間の知恵が全力を注いで立ち向かおうとしても、自然現象は人間の技術の内に収まることができない。その自然現象を創造しているのは、この人間自身ではないか、ということに薄々私たちは感づいている。燃焼によるエネルギーを利用する文明だから、二酸化炭素を増大させているし、都市文明は気温の上昇を生みだしている。
そうだ。大国が悪い。外国のせいだ。――まさか、いまさらそんな幼稚なことを言う人はおるまい。私たちだ。私だ。私たちが快適に生活するために、地球環境をこのようにしたのだ。一人ひとりの責任である。一人ひとりが加害者である。互いにそこを出発点としなければ、未来を考えることすらできない状態なのである。
自然のしっぺ返しが、豪雨となっているし、颱風の迷走にもなっているのだろう。それが、全員というわけではなく、一部の地域の人々に襲いかかる。この夏に何度も襲われた地域もある。
もちろん、地震の被害も大きい。それは人間が何かをしたから、とは言いづらい面がある。だが、大都市に人が住んでいるから被害に遭う、という場合もある。崖裏に住んでいるから被害に遭う、というのも確かだ。それはその選択をした人々を非難しているのではない。もはや人間は、そうした生活を選びとってしまったのだ。何も、そこに住んでいたのが悪い、などというふうに言っているのではないことは、ご理解戴きたい。
耐震基準というものを考えて社会生活を営んでいるが、人間の知恵が判断した耐震基準というものが、果たして自然に相談して知り得たものだろうか。勝手に人間が決めた基準に過ぎないのではないか。防波堤も、津波は乗り越えた。通電火災は、もはやどうしようもないし、それは正に人間の生んだことである。人間は事が起こったら、
「想定外」と弁解する。しかしそれは、防災の責任者の言い訳であって、私たちもその人間の判断を信頼していた共犯者ということになる。人間の想定内で万事がうまくゆくなどという思い込みの方が、確かにおかしいのである。
氷河が壊れたのも、この温暖化の中では、当然と見てもよいのではないか。極地の氷が減っている、ということが遠い国の、関係のない地域での話だ、としか聞いていないわけだが、どのように形を変えて、そのようなことがここで起こらないとは限らないはずである。
人が住みやすさや運輸の益のためにコンクリート都市を造った。ヒートアイランド現象をそれはもたらし、またせっせとエネルギーを消費することで、温暖化を益々助長し続けているのも間違いない。
せめて、分かっていることについてだけでも、止めることはできないのだろうか。止めたら経済が衰える。その方が人間は生きてゆけない。止めたら外国から攻められるから軍備に金をかける。――それしかないのだろうか。人間は、互いに不信を募らせ、経済第一の原理から離れられず、自然災害を「通常気象」にしてしまうしか、選択の道はないのだろうか。
被災者の命と生活を、なんとか支えるような社会でありたいと願う。もう現状は「異常」ではないのだから、かつての政治の常識や古い体質のままの考え方、まして懐古主義を夢とするようなことは、もう捨ててしまうべきではないだろうか。宗教的な言葉で恐縮だが、もはや「悔い改める」のでなければ、「異常」が本当に「日常」になってしまうと懸念するのである。