聖と俗の対立を超えて

2026年9月14日

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 
聖書の中でも、比較的よく知られている言葉である。ただ、こうした有名な句はしばしば、その意味が実のところよく分かっていない、ということがある。どう理解したらよいのか。結局のところ、受け取る個人個人が示されて受け止め、それに応えてゆけばよいのであるが、それでも、イエスの真意というものについては、キリスト者ならばきっと関心が向く。
 
マルコ伝の連続講解説教は、今日はこの短い箇所に集中した。短い聖書箇所でも、深みがあれば、話は数十分では収まらない。しかしその枠の中で、ひとつのことをきっちりと伝えるというのが、説教者の力量であるのかもしれない。もちろんそれは、説教者自身がこの言葉に力を与えられ、福音書の舞台に立って当事者として経験する過程がそこにあるからこそ、できることであろう。
 
13:さて、人々は、イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ党の人を数人イエスのところに遣わした。
 
マルコ伝12章が開かれた。いったいこの「人々」とは誰なのか。話の流れからすると、「祭司長、律法学者、長老たち」(11:27)である。この三者を並べるのは、マルコ伝だけである。刺客を渡す。「ファリサイ派やヘロデ党の人」である。説教者はここに、丁寧な説明を施した。ファリサイ派は現実に妥協せぬ宗教重視のグループであるし、ヘロデ党はローマ帝国にも阿る現実主義のグループである。しかし、敵の敵は味方ということで、ここでは容易に手を組んだ。イエスを殺すためである。
 
ルカ伝で、裁判でイエスを引きずり回す中で「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである」(ルカ23:12)という説明がなされていたのを思い出す。
 
この刺客は、さんざん白々しい言葉を前置きとしてイエスにぶつける。「慇懃無礼」という言葉があるが、この場合は明確な目的のために、実にいやらしい仕方でイエスに迫るのである。すべては演技であり、仮面を被ったような振る舞いである。つまり、こういうものを古来「偽善」と見なした。
 
ところで、ここに面白い表現がある。彼らはイエスのことを、「人に分け隔てをせず」と形容している。これはギリシア語の表現からすると、「人の顔を見ず」というような響きである。この直前に同じく「誰をもはばからない」と言っているが、これは「誰のことも気にしない」というような言い方である。いまでも使うことがある流行語ならば「空気を読まない」というふうに言っているように聞こえる。否、彼らは隠してこう言いたいのだ。あんたは神の教えを述べているようだが、それは常識とは違うことを、自分勝手に独り善がりに言っているだけなんですよ、と。
 
そして核心を表す。
 
14:ところで、皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。
 
これがジレンマになる意味については、よく知られているので簡潔にだけ示す。イエスが肯定するならば、イスラエルの救い主のような扱いを受けていながら結局ローマの犬なのか、と非難を受け、あるいは石がユダヤの人々から飛んでくることになる。イエスが否定するならば、直ちにローマ側に訴えて、ローマ法によって処分されることになる。肯定しても否定しても、イエスは行き場がなく、ジレンマに陥るであろう、と「人々」は踏んだのである。
 
だが、説教者はここでイエスが「二者選択」をしているわけではない、と宣言する。今日の解釈の要点は、この点に着目する必要があるだろうと思う。
 
15:イエスは、彼らの偽善を見抜いて言われた。「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
 
イエスの反応は迅速であった。マルコはここにやはり「偽善」という言葉をもってきて、仮面の演劇であることを読者に伝えているが、イエスは偽善の対極にいる。思えば、群衆は最後に、イエスを偽善者だと見なして血に飢えた者のように、十字架につけろ、と叫び続けたに違いない。だがイエスは演劇で「ふり」をするようなことはしない。
 
イエスが言ったことの中に、「持って来て見せなさい」という言葉がある。説教者はここで粋な「演技」を見せた。懐かポケットが知らないが、自分が手に持っているデナリオン銀貨を探して、それをイエスに見せた、というのである。
 
祭りの旅に来ている誰かかもしれない。党の刺客たちかもしれない。誰かがデナリオン銀貨を持っていた。通説では、それは一日分の賃金に値するという。私たちも、こうした祭りに出かけるならば、一万円くらいもっていても不思議ではない。だから、ローマ皇帝に納める税としても、そのくらいが妥当なのであろうが、実際にそこに現物があった、ということについて、普通読む者は違和感を覚えないだろう。
 
だが説教者は違った。ここはユダヤの祭りである。神殿の境内ではなかろうか。そのファリサイ派なのかその辺の巡礼者なのか知らないが、神殿詣での真っ最中であるはずの人が、デナリオン銀貨をもっていたのである。この現場意識、当事者意識を、たっぷりと説教者は語る。
 
この後イエスが説明していることから分かるように、このデナリオン銀貨には、皇帝の像が刻まれていた。具体的にどの皇帝の像なのかは定かでないが、とにかく刻まれていた。これは現代にも残っているものがあるため、確実である。しかもそこには、「神の子」と直接あったかどうか私は確認できていないが、そういう意味の銘が書かれていた。あるいは、その皇帝自身が、「神の子」と自称したり呼ばれたりしていたことは確実である。このような銀貨が、いま話題になっているのである。ユダヤ人にとり、それは忌まわしいものであったに違いない。
 
神殿に、このような貨幣を納めるということは、敬虔なユダヤ人にとって、ありえないことであろう。そもそも禁止されていたのかもしれない。日本でも神仏への献げ物は「浄財」と称されるが、そういうところへ、憎き敵の顔のついた貨幣を献げるはずがない。だが、そこにはあった。彼らの誰かが、あるいは恐らく誰もが、ローマ皇帝の像のついた貨幣を、もっていた。何故か。実生活に必要だからである。人々は、建前上、神殿に納めるときには両替をしてユダヤの貨幣に替えながらも、生活の上では皇帝の貨幣を使っていた。それがあたりまえの生活風景だった。
 
イエスは念入りに、その刺客たちに、「これは、誰の肖像と銘か」と問い、「皇帝のものです」と、彼らの口から答えさせた。彼らが自ら、「皇帝のものです」と言う場面をこしらえた。彼らが出した問いの答えを、彼らが口にしたようなものである。
 
17:イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 
ただ、これはどのような意味なのか、唯一の決まった解釈があるのか、という点については、説教者は肯定していない。いろいろな理解があるという。
 
いずれにしても、イエスはジレンマに陥っていない、ということは確かだろう。イエスは政治を否定するアナーキストではないし、社会常識を弁えない独善者でもない。しかし私たちとしては、私たち自身の問題として、この理解は重要である。私たち、それをいま「教会」という呼び方で捉えてみよう。教会は、世の政治とどう関わるべきなのだろうか。
 
教会は、世の政治と一線を画すべきだ、という原則に立つ受け止め方。礼拝は礼拝、政治的な意見を発したり、運動へと誘ったりすべきではない、という立場がある。保守的な信仰を大切にする場合は、聖書のみが教会の領域だ、とするのである。ある牧師は、教会員にも政治的な意見を異とする人はいるのだから、牧師が特定の思想を訴えるようなことをすると、反対意見の人は教会にいられなくなるだろう、と考える。また、教会員の中でも、政治的な意見が違う人があれば、分裂するようになるだろう。従って礼拝では、説教はもちろんのこと、聖書に徹することにし、政治的な立場を掲げるようなことはしない、とするのだった。
 
しかし、それは生温い、とするリベラルな立場もある。もう積極的に、礼拝の説教でも、一定の政治的立場を正しいと主張する。大抵は、政府に反対するようだが、教会の中に社会部のようなものがあり、一定の政治主張のための集まりを教会として開いたり、出かけていったりする。聖書にも、世の中に関わってゆくことが福音だとしているのだ、と根拠を示すことで、現実の政治に対して、しばしば批判的な主張を繰り返すことをする。
 
ここ何年か、アメリカの宗教に関する話が日本を渦巻いている。特にアメリカの大統領の異様な振る舞いの陰に、アメリカの福音派というものがある、ということが、宗教について知るところの少ない人々でも、ビジネスで関わる以上は、関心をもたないわけにはゆかなくなっているようなのだ。尤も、この「福音派」という言葉が、日本でその言葉を使うときと意味合いが違うのに同じような扱いを受けるように使われて、リベラルな立場からは、福音派を見下して馬鹿にするような風潮が実際にある。中にはそれを神学的に証明しようとすることを生涯の仕事としているような学者もいる。
 
聖書を文字通りに信じる、という福音派のひとつの理念を、小馬鹿にしてほくそ笑むような態度が一部にあることを、私は知っている。すると、救いの「新生」などということも全く問題にしないものだから、救いを経験しない者が毎週壇上から説教を繰り返す、というようなことも現実に起こっている。実に聞くに堪えないものである。
 
その点、日本で地道に活動されている「説教塾」の理念は尊いものである。そこには、政治的な立場で縛るようなものがない。説教そのものの中に、それは主張されない。たぶんいろいろな考え方の人が内にいるのだろう。だが、祈られ、求められているのは、人を生かす説教である。命のことばが聖書から語られ、伝わり、人を変えることが目されている。単に政治を扱うとか、避けるとか、そういう区別ではない。それを超えて、神の福音こそが命なのだ、という次元で、聖書を語るのだ。
 
説教者は突然、胸に十字を切る、ということに触れた。実は、様々な集まりやつながりの中で、聖公会などとの結び付きがあるが、プロテスタント教会でその十字を切ることがないために、ある種羨ましいという気持ちを懐くことがあるのだという。プロ野球選手でも、投げる前や、ホームランを打った後に、胸に十字を切る選手を見ることがある。実は私も、最初の教会は、それを習慣づけるところだったので、そういう信仰については、分かる部分がある。プロテスタントの目からして、それは偽善的なポーズだ、と決めつけるような場合もあるようだが、説教者はそのようには見ていなかった。
 
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉が、会衆の一人ひとりの心の中に留まっている。そしてそれは、自分の問題としても意識されると共に、教会の問題としても捉える必要があることも感じさせられている。
 
待てよ。説教者は確認する。「皇帝のものは皇帝に」これはいい。だが、「神のものは神に返しなさい」というのは、果たして先の命題に「対立」するものだろうか。「イエスが「二者選択」をしているわけではない」という説教者の掲げた命題が、ここへきて本格的に検討されることになる。皇帝だとか祭司だとか、人間が人間社会の中で掲げた看板は、神というものと対立するものであるのだろうか。否、それらはすべて神の内で、神の下で存在しているものに過ぎないのではないだろうか。
 
そもそも、「皇帝のもの」と「神のもの」とが、並立して対立するものであると見たからこそ、刺客たちはこれをジレンマとほくそ笑み、イエスが引っかかるのを愉しみに待っていたのである。だが、イエスの中では、これらのレベルは最初から違っていた。嗤ってしまうくらいに、これらは別の次元のものだった。
 
神は絶対者だという。中学生によく「絶対」の対義語を問うのだが、まず殆ど出てこない。それどころか「絶対」という意味すら、適切に知ってはいない。「必ず」ような意味だとか考えていない。日常生活では、確かにそのように使うが、その域を一歩も出られないのだ。もちろん「絶対」の対義語は「相対」である。他と比較することが後者であり、他と比較できないこと、比較対照する相手がないことが前者である。神が悪魔と対立する存在であれば、神は相対的な存在に過ぎない。だが、キリスト教でもユダヤ教でも、神は神であって絶対者だという捉え方を緩ませることはない。
 
だから、皇帝と相対的に神を置くという設定自体が、おかしかったのである。ヘーゲルの弁証法のスタイルは、正反合というリズムを、もっていたが、皇帝と神とが対立してその一つ上のレベルへ止揚する、というような構成を、ここではとることはできなかったのである。
 
天皇と神とどちらが偉いか。戦前戦中にクリスチャンに向けられたジレンマにも、当時共通の解決が知れ渡っていたら、苦しみが軽減されたかもしれない、と思う。そもそも神道の世界でも、神道の「神」は天皇と相対的な存在ではなかったのではないか。かの問い方自体が、比較対照できないものを比較しようとしていた、この刺客のような筋違いの問いだったてのではないのだろうか。
 
私もまた、世の支配者とイエスとの間で、揺れ動くことがないようでありたい。説教者も言っていた。いかなるときもキリスト者は神のもの、イエス・キリストのものである。だから「この私を国に渡してしまってはならない」と自分に言い聞かせるべきなのだ。正にそれは「魂を売る」ようなものでしかないのである。説教者は、国が神の意に適うようになるべく祈る者であってほしい、というようなことまで叫んだ。
 
国というものは、もちろん悪いものではない。それはパウロの書簡などにも見られる。国がしっかりしているからこそ、私たちは安心して外を歩けるし、夜眠ることができるのだ。法もなく治安が守られない時代には、何の抑止力もなく暴虐に晒されるだけである。哀歌などにも、そのような悲惨な殺戮がたっぷりと描かれている。国、あるいは政治的共同体が機能していないと、社会契約論の第一の前提となる、「万人の万人に対する闘争」しかない世界になる。悪人が罰せられる権力があるからこそ、安全がかなりの程度保証される。それを破る事件があると、そんなことがあってよいものか、という義憤が社会に湧き起こる。それくらい、土台は平和なのだ。そしてその平和を前提とさせているのが、国であり政治なのだ。
 
しかし、だからといって、国が善であるという保証はどこにもない。国が神に反するときにどうなるか、それが旧約聖書全体にたっぷりと描かれているパノラマではないだろうか。もちろんそもそも国家とは何か、というようなことを問うことも大切であろうが、こうした点を考えることもなく、説教壇で政府の悪口を言えばウケるとでも考えて繰り返すような者が現にいるのは嘆かわしい。遠い安全なところから、イスラエル国は悪い、戦争が止むように祈ります、と自分だけ正義の味方ぶっているようなことを発言するばかりの態度には、憤りしか湧いてこない。
 
デナリオン銀貨を日々使いながら、日曜日だけ、銀貨を使うのは汚れたことです、などとどうして喋ることができるのだろう。かの戦争も、環境問題も、この異常気象と災害も、全部自分が生んでいるのだ、という感覚を、どうしてもてないのだろう。
 
説教者は、希望と勇気を与えるような説教の結び方をする。あなたには、はっきりとイエス・キリストの像が刻まれている、と告げる。イエス・キリストが死を経験したために、その像が自分の胸にあることをはっきりと知らせることとなったのだ。さあ、ここから皆さんは会堂を出て、自分の持ち場、馳せ場に向かう。どうか、心の中に十字を切って、帰途についてください。そこに、イエス・キリストの像が刻まれているのだから。
 
それは、敵をも驚嘆させることになるであろう。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります