【メッセージ】尽きぬ油――エリシャ(5)――

2026年9月13日

(列王記下4:1-17, ヨハネ2:6-11)

彼女が神の人のもとに行ってそのことを知らせると、彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。 あなたと子どもたちはその残りで生活できる。」(列王記下4:7)
 
◆尽きぬ酒
 
ゲーテの代表作のひとつ『ファウスト』は、老博士ファウストの物語です。人生に満足できないでいるとき、悪魔のメフィストフェレスが現れて契約をします。若さを取り戻した後、満足を求めて凡ゆることを経験してゆくのです。その最初の方に、アウエルバッハの地下酒場のシーンが出てきます。いわば、悪ふざけをするのです。
 
テーブルに開けた穴から、好きなだけワインが出てくるようにして、学生たちを驚かせるのです。その場は盛り上がりますが、酒が炎に引火して燃え上がり、学生たちが怒り始めたので、ファウストとメフィストフェレスは、酒樽に乗って飛び去るという、奇想天外な幕引きとなります。
 
酒が出てくる、となると、日本でも「養老の滝」という昔話があります。親孝行な貧しい家の子が、父に好きな酒を飲ませたいと願います。ある日山で、あの滝の水が酒だったら、と思っていたら、本当にそれは酒になったことを知ります。父が亡くなるまで酒で孝行ができました。天皇はこれを孝行息子の徳と褒め、出世させます。元号まで「養老」と改めたという、恐らく奈良時代設定の物語です。これにはいろいろバリエーションがあるとのことです。
 
酌めども尽きぬ酒。それは人類のささやかな憧れや願いなのでしょうか。流石に聖書では、酒が溢れてめでたい、というようにはならないように(たぶん)思えますが、いま読んでいるエリシャの物語の中に、油が尽きない、という話が登場します。今日はその箇所をお開きします。
 
ところが、これには、エリシャの師であるエリヤにも、似た話がありました。こうした似た話が分散して聖書の中に記録されていることは、決して珍しいことではありません。ダビデ一人とっても、サウルに命を狙われる場面が、まるでコピーしたかのような記事として複数出て来ますし、ダビデが倒したゴリアトと同じ特徴をもつ戦士が、後にも登場します。
 
聖書学者はよく、同じ逸話が別々に編集されて載せられた、というように説明します。福音書の奇蹟のエピソードもそうです。ただ、それはひとつの推測であって、本当にそうかどうかは分からない、としか言えません。
 
◆エリヤの場合
 
そのエリヤの油の話です。いまそれを端折って振り返ります。列王記上17章、あのバアルの預言者たちとの対決の直前にあたります。
 
エリヤは、アハブ王に告げます。「この数年の間、露も降りず、雨も降らない」(17:1)と。それからエリヤは主に命じられて、渓谷に身を隠します。烏がパンと肉を運んでくるという形で、主が匿ってくれました。
 
果たして旱魃が起こります。渓谷には水もなくなりました。そこで主は、別のところに移動するようにエリヤに言います。そこに一人のやもめがいるから、養ってもらえる、と説明しました。エリヤは町の門で、薪を拾う女を見かけます。
 
エリヤは自分に水とパンとを与えるようにと頼みます。ところが、女は答えます。家にはもう僅かな小麦粉と油しかない。この薪で最後のパンを焼くつもりだ。「これから私と息子のために調理するところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬばかりです」(17:12)とは、なんとも悲しい説明です。
 
アハブ王に対して諫めるために旱魃を呼び起こした自分の予言が、この女と子どもを殺す羽目になった。エリヤはそう思って責任を感じたのかもしれません。だとするとエリヤは胸を痛めたということです。エリヤは「心配は要りません」(17:13)と言い、パンを焼くのだ、と命じます。
 
エリヤは「主がこの地に雨を降らせる日まで、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない」(17:14)と宣言しました。やもめは、これを聞いてその通りに従います。この信仰は見上げたものです。エリヤの言葉を信じたのです。果たして、その通りになり、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることもありませんでした。
 
実はこれには後日談が加わっています。その子どもが、急死するのです。女は、「息子を死なせるために来られたのですか」(17:18)と悲しみをぶつけます。頼みとしていた男手をやっと育ててきたのに、これでは自分ももう死ぬしかない。それをも含んだ形での恨み辛みだっただろうと思います。
 
エリヤは、その子の上に身を重ねます。そして「わが神、主よ、私が身を寄せているこのやもめにまで災いをもたらし、その子を死なせるおつもりですか」(27:20)と叫び、「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください」(27:21)とさらに叫ぶと、子どもは生き返ります。
 
「子どもは生きています」(17:23)とエリヤは子どもを母親に返します。女は「あなたが神の人であることが、たった今分かりました。あなたの口にある主の言葉は真実です」(17:24)と、ようやく告白します。つまり、小麦粉と油が尽きないでいたのは、まだ「神の人」と呼ぶにまで高まっていなかったです。あるいは、我が子のこととなったことで、神の前にひれ伏すような思いになったのかもしれません。
 
このように子どもを生き返らせる奇蹟は、エリシャも起こしています。ここもまた、類似のエピソードだということになりそうです。
 
◆エリシャの場合
 
もちろん、エリシャの今日の油の話は、エリヤの場合と情況が異なります。背景も違いますし、奇蹟の内容もやはり違うとしか言えません。エリシャの場合は、小麦粉は登場せず、ひたすら「油」です。そこには、油の小瓶しかありませんでした。
 
エリヤの場合のように、いま正に命が消えようとしているわけではありませんでした。ただ、借金のために、二人の子どもが、奴隷として売られる寸前でした。
 
1:預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んだ。「あなたの僕である夫が死にました。ご存じのように、あなたの僕は主を畏れ敬う人でした。ところが、債権者が二人の子どもを取りに来て、奴隷にしようとしています。」
 
つまり、ここでエリシャは、「預言者の仲間」の家族を助けようとしています。これをしっかりと押さえておきましょう。この仲間は、後にも登場します。神に命じられて彷徨うように訪ねたエリヤとは異なり、エリシャは生活上ただ切実な訴えを受けて、自ら助けようと動いたのです。
 
また、必要なのは食べものではありません。油とは言っても、食べもののためではないのです。子どもたちが奴隷に取られないことが目標です。言ってみれば、金が必要なのです。借金の形に子どもが奪われることを避ける必要があるのです。そのために何をすればよいでしょうか。エリシャは女にそう尋ねました。
 
2:エリシャが、「あなたのために何をしてあげようか。家に何があるか言いなさい」と言うと、「仕え女の家には、油の小瓶のほか、何もありません」と答えた。
 
「何をしてあげようか」と問うたのは、イエスが、目の見えないバルティマイに「何をしてほしいのか」(マルコ10:51)と尋ねたことを思い起こさせます。そんなこと、分かりきっているではないか、目が見えるようになりたいに決まっているではないか。そう言いたくなる人がいるかもしれませんが、神に対する求めというものが必要であり、それが何であるのかを自覚していること、それはとても大切なことなのです。
 
エリシャは女に「何をしてあげようか」と問うたのですが、それは質問というよりも、一種の形式的な問いかけだったのかもしれません。質問は、それに続いて問われた言葉でした。「家に何があるか言いなさい」ということです。その母親は、これをのみ質問として受け止め、応えました。「油の小瓶」だけです、と。
 
神に何かを問われても、私たちは直ちにうまく答えられないことがあります。いくつかの問いを神が投げかけても、私たちはそのすべてに賢く答えることができるわけではありません。ただ、神もまた、そのうちの一つの問いに、真摯に答えることを願っておられるのではないでしょうか。人ができるのは、僅かなものに過ぎません。
 
◆人を頼る
 
3:するとエリシャは言った。「外に行って、近所の人々皆から、器を借りて来なさい。できるだけ多くの空の器をです。
 
つまり、ここで私たちが受け止めるべきことは、そこにある小瓶だけでは足りない、ということであり、隣人の力を借りるべきことを私たちは知る必要がある、ということです。
 
信仰に、隣人が登場するのは、互いに愛し合うべきこと、あるいは隣人に親切を尽くすこと、そうした場合ばかりであるように思っていませんでしたか。そして「信仰」という私たちの核心の事柄は、何かを独りですることだ、と思い込んではいなかったでしょうか。私もそうでしたが、神と自分との関係の中の出来事として「信仰」を捉えるので、他人を頼みとするようなことには気をつけなければならない、と考えがちではないでしょうか。
 
その逆に、中にはただただ他人を頼るタイプの人も、教会にいることがあるような気がします。そういう人は、神の方を見ていない、という懸念があります。そもそも神と自分との関係が確立されていない場合に、人だけを頼る、ということがありがちなのです。
 
洗礼者ヨハネについて、イエスが「あなたがたは、何を見に荒れ野へ出て行ったのか。風にそよぐ葦か」(マタイ11:7)と群衆に問うたことがありました。結局人の目につくもの、世の出来事を見たいだけの心づもりではないか、と問いかけたのです。
 
教会に、ただ人を見に来ているだけ、というのは寂しいものです。教会は、世間に比べると、ある程度信用が置ける人が多いでしょうし、人も優しいように見えるかもしれません。それで、信仰が分からなくても、付き合うのに悪い人々ではない、と気がつくと、人を頼ってしまう虞があります。
 
カルト的に信仰を迫ったり、強い口調で信仰の厳しさを毎回説教で問い詰めるようなことをしない限り、教会というところは、たいそう居心地のよいところなのです。近年、罪も救いも語らないような教会が増えてきていることを知っています。居心地だけで教会に来ている人を、手放したくないからです。そしてまた、教会の指導者も、教会全体も、「信仰」という点で緩く生温くなっているのも本当だろうと思います。罪や救いというのは古い原理的な信仰であって、聖書の教えは違うのだ、と主張するところがあることも知っています。私たちは、むしろこちらをこそ警戒しなければならないのかもしれません。
 
ともかく、いざ「信仰」という点に的を絞って見つめると、やはりどこか「単独で」の方に傾くのではないか、というのが、私の気づきです。近所の人々皆から借りてくる、そうした近所づきあいが絶滅しかかっている社会の中で、エリシャの提言は、ドキリとさせるものがあると思うのです。
 
◆覚悟と信仰
 
4:それから家に入り、あなたと子どもたちの後ろの戸を閉じ、すべての器に油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置いておきなさい。」
5:彼女はエリシャのもとから戻り、自分と子どもたちの後ろの戸を閉じた。子どもたちが器を持って来ると、彼女は油を注ぎ続けた。
 
「後ろの戸を閉じ」る、となると思い出されるのが、ノアの箱舟です。ノアがついに箱舟を完成し、洪水がくることに対してスタンバイしたときのことです。
 
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。神がノアに命じられたとおりであった。そこで主は、その後ろの戸を閉じられた。(創世記7:16)
 
「退路を断つ」という言葉があります。「逃げ道を断つ」とも言います。もう後ろへ引き下がることをしない。私たちは、勇敢に立ち向かうようにポーズしながら、実のところ何かあったら逃げることができるように、逃げ道を準備しておく、というのが普通です。でも、もう振り返らないで、逃げも隠れもしないという態度をとるのです。
 
つまり、そうして戸を閉じることを私たちは教えられます。また、続いて、そこにありもしないはずの油を注ぐように行動する「信仰」をここに見ます。
 
ありもしないはず。そうです。この女は、家にあったたった一つの油瓶を、見つめます。近所から借りてきた器に、その瓶から出る油を注げ、と言われたのです。常識からすると、そこに油が入っていないことを、誰よりも自分が知っています。油を注ぐなど、ありえないことをしろ、と言われているようなものだ、と考えるのが常識なのだろうと思います。
 
単に「瓶を傾けよ」と言われたのだったら、従うかもしれません。実際ここでは、子どもたちは瓶には関わらず、ただ器をできるかぎり集めてきました。あるいは、子どもたちもまた、エリシャが油を注げ、という言葉を聞いていたでしょうから、子どもたちは固唾を呑んで見守っていたかもしれません。だって油なんか、ないよな。互いに目配せしながら、そんなふうに思っていたかもしれません。
 
母親は、常識的に考えると空であるはずの小瓶を傾けます。借りてきた器のひとつに、小瓶の口を静かに傾けます。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)とイエスに言ったペテロの言葉がふと頭を過ります。母親は、エリシャの言葉に従ったのです。自分の理性を、間違いのないものとせずに、エリシャの言葉に、お言葉ですから従いましょう、との思いで従ったのです。
 
神の言葉を私たちは毎週受けています。毎日聖書を読んでいます。神の言葉が、よく意味の分からないポーズをとれと命じてきたとき、その通りにしてみることは、案外難しくはないのです。しかしここで神は、その「油」という目的を明かしながら命じていることになります。人間は油がないことを知っているのに、その判断に挑戦するかのように、油を注げ、と命じているのです。
 
それなのに、母親はそれに従って行動しました。ないことを知っているのに、注げと言われ、行動に移したのです。自分の判断を交えることなく、ただ言われたことの方が正しくて、自分の思い込みは間違っている、というような態度をとったのです。自分で因果関係を決めてかからなかった、ということです。
 
戸を閉めたのは、ひとつの覚悟の現れでしょう。それから自分の判断や計算に囚われることから解放されて、与えられた言葉を信仰したこと、その記事によって私たちは勇気を与えられます。信じる者は救われる、と。
 
◆負債
 
ああ、油が出る。空のはずの小瓶から、油が出てくる。この家族は、どんな思いでその様子を見つめていたことでしょうか。最初は驚きだけだったかもしれません。けれども次第に、顔には笑みが浮かんできたのではないか、と私は推測します。
 
エリシャは、「すべての器に油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置いておきなさい」と言っておきました。近所から借りてきた器は、どんどん油で一杯になり、次々と新しい器が持ってこられます。それは二人の息子の役割だったのではないか、と私は想像します。
 
借りてきた器は無数にあったわけではありません。やがて、そこにある器が、すべて油で一杯になりました。もうこれ以上、移す油はありません。
 
6:器がどれもいっぱいになると、「器をもっと持って来なさい」と言ったが、子どもは「器はもうありません」と答えた。すると油は止まってしまった。
 
「信仰」がないなどと、彼らを責めることはできません。ないものはないのです。精一杯借りてきた器が、全部満たされました。精一杯人間がしたことでしたが、人間のすることは不十分なものです。神の業のような無限のものではありません。有限ではあれど、できる限りのことをする、というのが、人の器というものです。正に、人間の度量を表すために「器」という表現が日本語にはあります。パウロもまた、人間のことを「土の器」(コリント二4:7)と呼んだではありませんか。
 
エリシャの命じたことに従えば、ここまでが精一杯でした。それは、同じエリシャのしたことですが、その生前最後の預言であった、北王国のヨアシュ王に対して言ったこととは少し違います。
 
さらに、エリシャが「矢を取りなさい」と言うと、王は矢を取った。エリシャがイスラエルの王に「地面を射なさい」と言うと、彼は三度射てやめてしまった。神の人は王に憤って言った。「五度、六度と射るべきであったのだ。そうすればあなたはアラムを全滅させるまで討ち破ることができたであろうに。だが今となっては、あなたは三度しかアラムを討ち破れないであろう。」(列王記下13:18-19)
 
ヨアシュが三度で矢を打つのを止めたのは、自らの意志でした。だから不信仰だとエリシャが残念な指摘をしたのです。
 
つまり、この母子の生活の中から、負債を払って生きるということに、私たちは目を留める必要があります。
 
7:彼女が神の人のもとに行ってそのことを知らせると、彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子どもたちはその残りで生活できる。」
 
限られた器すべてに、油は満たされました。エリシャは、その油で食べよ、とは言わず、その油を売ってお金にせよ、と言ったのでした。そうです。二人の子は、奴隷にされそうになっていたのでした。預言者だった父親が亡き後、女手一つで子どもたちを育て上げるのは難儀です。だから一夫多妻という仕方で、このようなやもめを匿う制度になっていたのです。
 
知っていた預言者の家族に対して、エリシャは、最低限の義務を果たしたとも言えましょうか。油は、イスラエルの人にとって高価なもののひとつでありました。香油ほどではないにしても、食生活はもちろんのこと、神の祭儀のためにも必要とされていました。この油を売れば、これまでの負債をなくすことができるでしょう。子どもたちと共に暮らすことができるでしょう。これからの生活が、さしあたり保証されるものと思われます。
 
負債を払って生きる。その支払いは、エリシャがもたらしました。人間の力で得たものではありませんでした。この負債、負い目とも呼ばれ、主の祈りでは「罪」のことを表すような言葉でもありました。イエスも時折、借金に関するたとえを話しました。それは人間が神に対して負っているもので、「罪」がそういうものでした。
 
ひとの「罪」は、神の前に負債として残りますから、支払いを済ませなければなりません。支払わず罪が残っていると、それは悪魔のものとなるでしょう。子どもたちが奪われる奴隷のように、悪魔の奴隷となってしまうのでしょう。でも、その支払いは、人間自らの力では無理です。罪の当事者自身の力では、負債を返すのは不可能なのです。
 
神の人エリシャが、二人の子を奴隷に売ることから守りました。私たちはもちろん、それを、イエス・キリストの業であると知っています。エリシャは今後も、キリストを代行するかのような奇蹟を起こし続けます。
 
◆聖霊
 
ヨハネ伝によると、イエスの最初の奇蹟は、カナで開かれた結婚式での出来事でした。
 
7:イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8:イエスは、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9:世話役が水をなめてみると、ぶどう酒に変わっていた。
 
ファウストや養老の滝の話のときに、聖書が酒が溢れてめでたい話を語るだろうか、と申しましたが、実はちゃんとありました。イエスは正に水を酒に変え、大きなかめ一杯の酒をもたらしたのです。キリスト教が酒宴を肯定してよいのか、と思う人がいるかもしれません。が、聖書が酒を端的に否定することはありません。それどころか、イエス自身も食べたり飲んだりしており、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19,ルカ7:34)と悪口を叩かれもしています。
 
そもそも神の国はしばしば祝宴にたとえられていますし、神と人、あるいは教会との婚礼を以て救いの完成のように描くならば、それはなんと喜ばしい祝宴であることでしょうか。
 
とはいえ、エリシャがもたらしたのは、確かに油でした。油とは何でしょうか。イスラエルにとり油は、特別なものでした。恐らくオリーブ油だったと思われますが、それは食用であり、また祭儀に必要なものでした。燈火のためにも必要でしたし、化粧品や医薬品としてなど、利用は生活の随所に可能性がありました。
 
しかし何よりも重んじるべきは、王位継承のために、その頭に油を注ぐことでした。キリストという言葉は、「油注がれた者」という意味をもつものなのでした。
 
ところがまた、この油というものは、同時に別のものと連れ添うことがあります。まず旧約聖書から2箇所を引きましょう。
 
サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。(サムエル上16:13)
 
主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。(イザヤ61:1)
 
このイザヤ書の言葉は、少し変形してはいるものの、イエス自ら引用しています。
 
「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
 
油が注がれると共に、主の霊が注がれます。このことから、油により、神の霊が臨みます。油が聖霊を連れてきます。こうして油は、聖霊と直結します。油そのものが、聖霊の象徴と見られたとしても、決して突飛なことではないでしょう。
 
聖霊は、信じる者に与えられます。私たちは勇気を得ます。エリシャが、絶望的なほど空の瓶から、油を幾らでも注ぐことを実証しました。その油は、瓶の中からではなく、外から来たはずです。天からきたはずです。神のところから油が、そして聖霊が及ぶのです。
 
あなたの油は、器がある限り、尽きることがありません。聖霊の注ぎは、尽きることがないのです。すでにイエスにより、負債は返されているのです。小さなあなたの器たる瓶からは、天からの油が注がれます。自分の中から絞りだそうとする必要はありません。聖霊は、神から来ます。天から来ます。永遠の命への道を案内する聖霊が来てくださるのです。



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