切れなくなったハサミに

2026年9月13日

百均の店でハサミを買う。価格が安いので、用途に分けて複数買う。妻がハサミが好きで、そんなふうに数をこなすかのように、家にはあちこちにハサミがある。
 
だが、どうかすると、間もなくよく切れなくなるハサミも出てくる。動きは悪くないのだが、如何せん、切れない。糊が付着したために、というような理由でもない。錆びたわけでもない。ただ切れなくなるのである。
 
安いから仕方がないか。これまでは、そう思っていた。だが、見た目はどこも悪くないので、もったいない、という思いも芽生えてきた。こうなると、価格の問題ではない。もう次のを買った方がいい、というふうには考えたくなかったのだ。
 
でも、どうしようもない。しばらく、カウンターの隅の箱に立てかけたままだった。ハサミを使う必要があるときには、もうひとつ小さいのがあって、困ることはなかったが、ちょっとデザインが気に入っていただけに、切れないのは悲しかった。
 
だが、待てよ。研げばよいのではないか。そんな簡単なことに、どうして今まで気がつかなかったのか、我ながら自分の愚かさに呆れてしまった。
 
包丁は、研ぎ器で時折研ぐ。安物の包丁だが、いつまでもちゃんと切れる。円い回転砥石で、包丁を差し込んで引っ張れば自動的に研げる、というのも付いているが、我が家の砥石には、平たい部分もある。これがないと、丁寧な研ぎ方ができない。ハサミも、その平たい部分で研げばよいのではないか。
 
いままでハサミは研いだことがなかった。というより、砥石は包丁のためにある、という思い込みが、他のものに使うという発想を殺していたのだ。
 
研いでみた。試してみると、紙が実に気持ちよく切れた。完璧である。
 
ひとが定めた目的は、機能のために、あるいは経済的な理由のために、特定のものに限定しようとすることがある。研ぎ器もまた、「包丁研ぎ器」と箱に書いてある以上、包丁のためにあるものだ、という思い込みが私にはあったのだ。
 
こうした思い込みは、きっと随所にあるだろう。Aの名が付くように立てられたものは、Aのためにしか用いない。用いてはならない、とさえ考える。
 
しかしまた、Aのためにしか用いてはならない、という場合もあるだろう。
 
イスラエルの人々にこう告げなさい。『聖なる注ぎの油は、代々にわたって私のものである。それを一般の人に注いではならない。また、その配合に倣って同じものを作ってはならない。これは聖なるものだから、あなたがたにとっても聖なるものとしなさい。これと同様に調合する者、またこれを一般の人に付ける者は、誰でも民から絶たれる。』」(出エジプト30:31-33)
 
見極めは難しい。自分勝手に決めるということにブレーキをかけるならば、何かが見えるようになるかもしれない。



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