神は死んだのか

2026年9月7日

マルコ伝の連続講解説教も、場面がエルサレムに入り、緊張感を増してきた。「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」と始まるところだが、イエスが誰に向けて語っているのか、この「彼ら」ははっきりさせておかなくてはならない。当然、直前の話の続きであるから「祭司長、律法学者、長老たち」(11:27)である。つまり、権力者である。イスラエルの宗教を司る指導者たちである。そしてこのことが、イエスの運命を大きく動かしてゆくことになる。
 
このとき、イエスの頭にあったのは、イザヤ書5章の「ぶどう畑の愛の歌」であったと思われる。また、聖書が生活に根づいていた文化では、そして特にその指導者層にあっては、このイザヤ書の歌を知らないはずがなかった。結果、イエスの話すこのたとえが、自分たちのことを指しているのだ、ということを彼らは覚る。「自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いた」とマルコ伝記者も説明している。
 
しかしこのイザヤ書の歌は、果たして「愛の歌」なのだろうか。ぶどう畑を愛する者が、心をこめて畑を手入れし、ぶどうを育てる。が、ついに実った実は、実に酸っぱいものだったという。確かに、神がこのぶどう畑を愛し、手入れした、という点では、「愛」なのだろう。しかし、悪い実しかならなかったために、もうこのぶどう畑をぐちゃぐちゃにしてしまうぞ、というのは、見ようによっては余りに短気で憎しみしか伝わってこないようなことではないか。
 
ジャッカルを捕まえてください。/ぶどう畑を荒らす小さなジャッカルを。/私たちのぶどう畑は花盛りですから。(雅歌2:15)
 
個人的には、雅歌のこの場面が好きである。しかし、同じ雅歌に、ぶどう畑と愛を結びつける美しい場面がある。
 
早く起きて、ぶどう畑に行きましょう。/ぶどうの木がつぼみをつけたか、花盛りか/ざくろの花が咲いたかを見ましょう。/そこで私の愛をあなたに差し上げましょう。(雅歌7:13)
 
もちろん、こうした恋愛の空気は、イエスのたとえの中には漂わない。だが、「ぶどう畑」は、旧約聖書の20の巻に登場するほど、イスラエルにとっては生活に密着した世界である。それに対して新約聖書では、「ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか」(コリント一9:7)という、パウロの挙げた例に登場するだけである。もちろんこの「ぶどう園」のたとえについては、共観福音書それぞれが触れているが、ほぼその程度である。それでも、聖書の文化にある人々は、ぶどう畑というものが表すものについては、十分生活感覚を伴って、把握していたに違いない。なお、ここでは「ぶどう園」という言い方がなされているが、パウロの用いた「ぶどう畑」と、ギリシア語としては同じである。
 
説教者は、ぶどうが5年間を経て収穫ができることを話した。そこには、必ずその日がくるという望みがこめられているのだという。イエスは、季節外れの中で実らないイチジクの木を呪ったが、ぶどうに対しては、もう少し明るいイメージをもたせているようだ。地中に深く根を伸ばすぶどうの木は、信仰の深みを思わせる、ということを食品研究者の河野友美さんは教えてくれた。キリスト者として、聖書の食品について幾つかの本を著している。
 
「祭司長、律法学者、長老たち」が「自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いた」ように、それは現今のイスラエルの指導者たちをコケにする内容だった。子どもたちへのお話もそうだが、たとえ話としては、同じようなことの繰り返しがなされ、最後にひとつ特別なことが起こる、というようなパターンが多い。
 
ぶどう園の主人は、このぶどう園を「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て」るなど手間暇かけてこしらえた。これは、「ぶどう畑の愛の歌」の次の設定に匹敵する。
 
彼は畑を掘り起こし、石を取り除き/良いぶどうを植えた。/また、畑の中央に見張りのやぐらを建て/搾り場を掘った。(イザヤ5:2)
 
イザヤ書の場合には、この「彼」というのは農夫のような者で、手ずから畑の手入れをした。そして「良いぶどうが実るのを待ち望んだ」(5:2)という。イエスのたとえでは、現場は農夫たちに任せ、主人は旅に出ている。イザヤ書では「実ったのは酸っぱいぶどうであった」(5:2)という結果だったが、イエスのたとえでは、収穫の時になり、収穫を受け取るために農夫たちのところに使いを送る。
 
一人目を農夫たちは「袋叩きにし、何も持たせないで帰した」。主人は現場に戻らない。直ちに農夫たちを処罰したか、というと、そんなことはない。再び他の使いを寄越す。しかし農夫たちはその使いの「頭を殴り、侮辱した」。今度こそ農夫たちを懲らしめたか。否、主人はまた一人を送る。今度は農夫たちにより殺されてしまう。さらにまた、「多くの僕を送った」とイエスはたたみかける。しかしいずれも、殴られたり殺されたりしたという。
 
殆どお人好しなのか、権力がないというのか、この主人、この情況を裁くことができず、さらにこの危険な情況の中に、「愛する息子」を送ったという。「私の息子なら敬ってくれるだろう」という、甘い見通しには違いなかったが、ここに今日の説教のメッセージの核心がある。そのことはもう少し後で明らかにする。
 
ちょうど先週、『思考停止という病理(やまい)』(榎本博明・平凡社新書)という本を読んだ。「思考停止」という概念がテーマの本ではあるが、日本人の心理として、きっと分かってくれるだろう、という性善説で期待する傾向があることを鋭く指摘していた。しかし国際社会で議論するならば、先に謝れば許してくれて丸く収まるだろうとか、こちらの気持ちを酌んで相手が近寄ってくれるだろうとか、そんな日本での常識を基準にしてはならない、それは「思考停止」のなす情緒的な考え方だ、というようなことを指摘していた。
 
そんな甘い緩い期待に沿うような農夫たちではなかった。この愛する息子を敬うような輩ではない。いっそう目を光らせて、むしろ息子だから殺すべきだと、血に飢えた狼のように、この息子に挑みかかった。殺せば、すべての財産が、この畑も収穫も、自分たちのものになるのだ、と悪魔のような考えで一致するのだ。
 
細かなことだが、かつて聞いたことがある。マルコは、「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した」と書いているが、恐らくこれを後から見たマタイ伝の記者は、ここを修正している。「息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」(マタイ21:39)というところに、マタイらしさが現れているというのだ。ぱっと見では分かりにくいが、ぶどう園の中で死人が出ると、ぶどう園が律法の汚れの規定を受けてしまう。律法規定に細かいマタイ伝は、ぶどう園が汚れないように、外で殺したと書き直したのだ。
 
ところで、この「農夫たち」については、このまま他人事のように眺め下ろしている場合ではない、と私は常々考えている。ここではもちろん当てつけと自覚した「祭司長、律法学者、長老たち」を示すものと理解してよいのだが、その後のキリスト教の歴史を思うとき、信者たちは権力と結び付き、結局この農夫たちの役割にすっぽりはまっていると見ることはできないか、という反省である。そしてそれは、いまの私たちキリスト者全般についても、いつでもこの「農夫たち」になり得る可能性を秘めている、と警戒しなければならない、と私は考えている。さらには、すでに私たちは「農夫たち」ではないか、と疑うほどでいるべきではないか、と言いたいし、自分に向けて問い直したいと思っている。
 
さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。(マルコ12:9)
 
いやあ、それにしても遅い。最初からそうすればよかったではないか。大切な息子を殺される前に、最初に犠牲になった一人だけで、同じことをするべきではなかったのか。私たちの感覚ならば、そう思う。だが、そこがたとえ話である。もちろんこの、最後に送られた息子というのは、神の子イエス・キリストを表している。但し、イエス自身は十字架を頭に描いてここまできたとしても、このたとえがすんなりとイエスのことを表すということ、つまりイエスが殺されるということについては、まだ周知の事実ではない。
 
だから、後付けの説明だ、と理解したい研究者の気持ちも分からないではない。けれども、この話を理解した当局の者たちは、長老の名こそ出ていなかったが、「イエスを捕らえようとした」と記されている。そればかりか、すでに神殿でイエスが大立ち回りをしたときに、彼らはイエスをどのようにして殺そうかと謀っている。そしてこの後幾つかの問答を重ね、弟子たちに終末の教えを伝えた後に、やはり長老を除いた名の者たちではあるが、イエスを捕らえて殺そうと企んでいたことが記されている。そして、そこへユダが結びついてゆくことになる。
 
つまり、イエスを殺すというモチーフが、このエルサレムの空気の中に漂っていたのである。それは、時間系列の中で位置づけられるようなものではない。潜在的に、と考えてもよいし、物語の中にただいつもそれがあった、と考えてもよい。イエスを殺そうとする当局の目論見の中で、イエスが、イエスが殺されるというたとえを告げたことは、同じひとつの出来事の両面を、つまり殺す側と殺される側とで、十分に布石されていたということである。言うなれば、イエスはそれを自覚していたが、ユダヤの指導者たちは、恰も悪魔に操られるかのように、ただ摂理の中で流されていた、というように捉えることもできるだろう。
 
説教者の眼差しは、そして伝えたかったことは、今日、この復讐めいた裁きのテーマではなかった。このお人好しというか、警戒心がないというか、性善説に浸った「平和ボケ」しているような主人が、信頼を通したことであり、待ち続けたことなのであった。それは正に「愛」のことであるに違いない。だからこそ、このたとえが、「ぶどう畑の愛の歌」に重なると見たのである。
 
そして、どんなに現場を預かり自己の力を圧倒的な権力を以てこの世を支配しているかのように自分では見なしている、あの「祭司長、律法学者、長老たち」も、この「愛」だけは、殺すことができなかったのである。
 
説教者は今日、珍しくニーチェの名を出した。自らそれを読んだのではない、ということを正直に告白しつつも、高校生の教科書にも載っている「神は死んだ」というその言葉について、少し触れる時間をもった。
 
ニーチェは、ルター派の牧師である父親の下に育つが、むしろそうした背景が、キリスト教思想への反感や否定へと向かう力を与えてしまったのかもしれない。ハイデッガーも似た経歴をもつが、ニーチェほど強い反抗ではなかったと考えられる。こうした方向で動く神学者は現代でも少なからずおり、福音的な信仰を最初信じておいて、後にそれが嘘だと思い、刃を向けるということは、ひとつのパターンのようにさえ見える。
 
ニーチェの思想はどちらかというと文学的であり、論証しようとしたようには思えない。だから「神は死んだ」という命題を掲げて証明しようとしたのではなくて、自らの零した思想的文章の中で、どこか劇的に吠えていた、と見たほうが適切であろう。
 
「神は死んだ」などと口にするだけで命がなかったような時代には、凡そ公言できる言葉ではなかったことだろう。それが「言える」社会になってきた、ということから、ニーチェに限らず、そういうことを言ってもいいような空気になってきたのかもしれない。蟻の穴から提が崩れたようなものである。だから、狂気の男がまくし立てた中に「神は死んだ」などというフレーズが出てきたとはいえ、ニーチェ自身の意図は、私たちがイメージするものとはだいぶ違うように見える。むしろ、このフレーズを好機と捉えた、他の思想家たちが好んでプラカードに掲げるようにして、「神は死んだ」をプロパガンダのために用いたようなところがあるのではないだろうか。
 
説教者は、この言葉を、別のもう少し情緒的な場面での使い方に傾けて、少しだけ言葉を零していた。それは、東日本大震災の悲惨な光景を見て、神はいない、と呟いた人の心を気にするものだった。同じようなことを言った人は、キリスト教内外にたくさんいる。それは昔からある、神がもしもいるならこんな悲惨なことが起きるはずがない、という素朴な感情に基づくものであるように見える。この震災になって初めて現れたような見方ではない。
 
これに同調した「先進的」な神学者は、津波で流された人々と共に、神も流されたのだ、とこれまた情緒的な言い方をしていた。これは、隠れた形で「神は死んだ」を正当化する狙いだったのではないか、と私は穿っている。
 
家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。
これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。(詩編118:22-23)
 
イエスはこの詩編の言葉を引いて、イエスは自身の姿を示そうとした。それはまた、マルコ伝をいま見ている私たち、また当時の人々に教える目的の故であったかもしれない。「親石」はギリシア語でもヘブライ語でも「頭」という意味の語で表現されている。両側から積み上げられてきた石の力を受けて、頭の石が全体を支える、というものではないかと推測される。いわば救い、あるいは神の国の最後を、完成するひとつの中央の頭なる存在が、イエス・キリストである、というように、マルコ伝は知らせようとしているのではないか、と思うのだ。
 
神は、もう早くに、農夫たちが最初に反抗した時点で滅ぼしてもよかったはずなのに、それでももしかすると、と思い、農夫たちが悔い改めるのを待つかのようにして、次々と預言者を送り続けた。それは、神の、待つ愛だった。その結果、神は息子を殺されるという非情な経過を認めることとなった。もちろん、その先に復活というものが待っているが、それはさておき、説教者は、人間は神の愛を殺すことはできないのだ、と強く伝えるに至った。
 
それは、ニーチェの書いたように、狂気の人間が、「おれたちが神を殺したのだ――お前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者なのだ!」と叫んでいたことをと対峙したことになる。自分本位の思想の中で、「神は死んだ」などと吠えることはできるかもしれないが、私たちは、神の絶大なる愛の前に、何の抵抗もすることはできないのだ。
 
その力強いメッセージを前にして相応しくないかもしれないが、私は私で、か細い声で、自分の信仰を口にしてここを結ぼうと思う。私は、神を殺した、と――イエスに悪口をぶつけ、除け殺せと叫び、この自分の罪のためにそこにいるイエスを、十字架の死へと追いやったのは、この私であった、と。



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