【メッセージ】豊かな水――エリシャ(4)――

2026年9月6日

(列王記下3:1-20, 黙示録22:1-2)

あなたがたは風も見ず、雨も見ない。それなのに、この涸れ谷には水が溢れ、あなたがたも、家畜も、獣もそれを飲む。(列王記下3:17)
 
◆モアブ
 
旧約聖書の列王記と歴代誌は、同じような歴史の経過を語っています。しかし、歴代誌の方は、どっぷりと南ユダ王国の立場に浸かっています。ダビデの失態もスルーすることがありますし、南王国は好意的に記すのに、北イスラエル王国については非難ばかりです。列王記は、どちらも対等に描いているように見えますし、ダビデも極めて人間臭く描かれています。
 
いま私たちは列王記を見ています。北と南の話題が交互に登場し、時に両国の王が協働したり、逆に争う場面もありますから、南北を整理して読まないと、ときに関係性が分からなくなることがあるかもしれません。時に、同じ名前の王が、どちらにも現れるとなるとなおさらです。
 
それぞれの国に預言者がいます。その都度王に関わり、そのため政治に影響を与えています。王と預言者の関係については、学者たちの研究や紹介はとても参考になります。が、ここは研究発表や勉強の場ではないので、基本的に聖書を辿ることにします。
 
エリヤにとっては、やはりアハブ王が最大のライバルであり、反面教師でもありました。犬猿の仲のようでありながら、それなりに対話したり協力したりするように見えることもありました。より大きな問題は、アハブの妻イゼベルでした。フェニキアから来た王妃で、イスラエルに偶像を流行らせたとされます。エリヤでさえ、このイゼベルに命を狙われていじけるようなこともありました。
 
アハブ王は、宗教的にはイスラエルに害を与える一方だと描かれていますし、人間的にもどこか器の小さいものを感じさせるよう聖書は伝えます。しかし史実としては、アハブは政治的には有能だったようです。都市開発に優れ、軍事や外交にも国内の安定を図りました。
 
ここでモアブが大きな役割を果たします。モアブは死海の東に位置する民族で、古くからイスラエルと関係がありました。争うこともありましたが、アハブ王の時代には抵抗できなかったようです。
 
モアブは、創世記でアブラハムと途中まで共に行動していたロトに由来する民族で、イスラエルからすれば親戚同然でした。その後イエスの祖先にあたるルツを生んだほかは、何かとイスラエルと対立することが多く、一時モアブがイスラエルを支配するようなこともあったようです。
 
イスラエルから見れば、モアブは偶像崇拝をするために、決して宗教的には交わろうとしなかったと思われます。尤も、イスラエル自身も偶像崇拝を繰り返したではないか、と言われたらその通りなのですが、しかし民族的には、確かに排斥し合っていました。
 
◆王の評価
 
4:モアブの王メシャは羊を飼っていて、イスラエルの王に十万匹の小羊と十万匹分の雄羊の毛を納めていた。
5:しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。
 
アハブは戦死しました。戦いに出るとき、ユダの王ヨシャファトと一緒で、変装もして王と知られる姿であったのに、なにげなく放たれた矢に当たったのです。
 
南ユダはダビデの血統が保たれましたが、北イスラエル王国は、王の血筋は続きませんでした。幾度もクーデターが起こり、王が殺され、他家の者が王位に就いたのです。ただ、アハブ王の死後、アハブの子アハズヤが王位を継ぎます。ところが政治的才覚が乏しかったようで、さらに宗教的にもバアル信仰をもっていたため、聖書記者の評価は厳しいものでした。怪我が基で死に、統治は2年間で終わりました。
 
続いて王位は、弟のヨラムが継ぎました。ヨラムは宗教的には少し良い評価を与えられ、バアルの像を取り除いたことが記録されています。しかし、主に従った、と褒められるほどには至りませんでした。
 
1:ユダの王ヨシャファトの治世第十八年に、アハブの子ヨラムが、サマリアでイスラエルの王となり、十二年間統治した。
2:彼は主の目に悪とされることを行った。ただ、父や母ほどではなく、父が造ったバアルの石柱は取り除いた。
3:しかし、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪にしがみつき、それから離れなかった。
 
イスラエルの歴史書の筆者は、政治的な能力よりも、とにかくまず宗教的にどうであったか、というところから王を評価します。つねに、信仰が問われるのでした。
 
◆ヨラム王
 
イスラエルの王について語るのに、話をどこまで戻したらよいでしょうか。ダビデ王は、強烈な軍事力で国を統一しましたが、それは単に力任せというのではなくて、神への信仰に基づくものでした。ダビデは信仰に基づき、立国したのです。戦いも連戦連勝で、そのためダビデの後継者たる息子のソロモンが王位にあったときには、イスラエル国は周辺諸国の中でも最も反映を誇る栄華の国となっていたのでした。
 
けれども、ソロモンの子のレハブアムが王になると、王位に慢心し権力を強めようとしたために人心を失い、人々の心を、有能なヤロブアムという男に盗まれました。ちょっとした社会主義革命でした。部族の殆どがエルサレムの王家を離れ、北イスラエルに加担しました。しかし宗教はひとの心を一つにつなぐために大切です。エルサレム神殿を離れたことから、求心力をつけるため、北の果てにダン、南の区域にベテルという、二つの偶像の礼拝所を置きました。そしてそれとは別に、高い台地の上に広がるサマリアを首都とし、天然の要害としての立地を活かした町づくりをしました。
 
この辺りで、「バアル」という神の名がしばしば登場します。元々このカナンの地域で信仰されていた神々のひとつで、豊穣の神ということで人気がありました。イスラエルの神を信じる預言者はしかし、それを端的に偶像だと処しました。なかなか魅力があった神像のようで、イスラエルの人々はかなりこのバアル神に靡いてゆくことがありました。
 
5:しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。
 
ヨラム王は、アハブを恐れて反抗しなかったモアブに対して、予防線を張らねばならなくなります。いまのうちにモアブを叩いておこう。しかし単独では難しい。元々同じ民族共同体であった、南ユダ王国のヨシャファト王に援軍を頼もうとします。アハブ王の死は、ヨシャファト王の身代わりのようなものだった経緯があるから、協力を断るはずはあるまい、という見通しもあったことでしょう。ヨシャファト王は、この申し出を快諾します。
 
6:ヨラム王はその日のうちにサマリアから出て、全イスラエルを召集し、
7:出発した。またユダの王ヨシャファトに使者を遣わして言った。「モアブの王が私に背きました。私と一緒にモアブに戦いに行っていただけませんか。」ヨシャファトは、「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです」と答え、
8:「私たちはどの道を上ればいいのですか」と尋ねた。ヨラムは、「エドムの荒れ野の道を」と言った。
 
北からイスラエル、ユダと南下して、死海の南に広がるエドムの地を通り、死海の東にあるモアブを陥れようという作戦が立てられました。
 
◆水がない
 
モアブと戦うために、南北二つの王が手を結びます。戦争とはいえ、当時の形態について私は特に知識はありません。細かな描写についての説明はできません。当時の人だったら、最低限のことを書いておけば、情況はだいたい分かるという常識があったのでしょう。私たちには、分かりづらいところが多々あります。ただ、王というのは貴族同様非力なのではなく、基本的に軍師であり、戦陣では先頭に立つ者であったとは聞いています。二人の王は、幾多の兵士を引き連れて進んでいましたが、どうやら道に迷ったようです。
 
9:イスラエルの王は、ユダの王およびエドムの王と共に出発したが、七日間も回り道をした。それで兵士たちと、後に続く家畜のための水がなくなってしまった。
 
家畜もいたようです。水がなくても、人はある程度我慢ができたかもしれませんが、家畜はそうはゆきません。これはピンチです。戦いどころではありません。
 
ところでここに、王が三人いるように書かれています。エドムの王も一行に加わっていたのです。エドムは、ヤコブの双子の兄エサウに由来する民族とされています。これもまた、イスラエルとは祖先でつながりがある親戚のような部族であったことになります。そしてこの頃、どうやらエドムは南ユダ王国の勢力の下にあったようです。ヨシャファトのように依頼により協力するのではなく、当然のこととしてユダの命令に従っていのことではないか、と推測します。
 
中国の古典『韓非子』の中に、「老馬の智」と称される話があります。春秋時代、桓公の下、管仲と隰朋(しっぽう)という宰相がいました。長い遠征の後に戻ろうとしたとき、道を見失ってしまいます。そこで管仲は、老いた馬を放ちます。馬の後について行くと、脱出の道を見出すことができました。さらに、山中で水が切れたとき、今度は隰朋が、蟻塚を見つければそこに水がある、と知恵を働かせ、果たして水を得ることができました。『韓非子』は、賢者とて知らないことがあり、老馬や蟻からでも学ぶことを恥じぬことがよろしい、と教訓を垂れ、まして凡人は聖人の知恵を学ばぬのは愚かなことだ、と教えるのでした。
 
昔の行軍というのは、東西の違いに拘わらず同じような悩みがあったのでしょう。三人の王は、道を見失い、そして水を欠いていたのでした。
 
◆エリシャを頼む
 
10:イスラエルの王は言った。「ああ、主がこの三人の王を呼び集められたのは、モアブの手に渡すためだったのだ。」
11:ヨシャファトが、「ここには、私たちが主に伺いを立てることのできる主の預言者はいないのですか」と尋ねると、イスラエルの王の家臣の一人が答えた。「ここには、エリヤに仕えていたシャファトの子エリシャがいます。」
12:ヨシャファトが、「彼には主の言葉があります」と言ったので、イスラエルの王とヨシャファト、およびエドムの王は、エリシャのもとへと下って行った。
 
今日のエリシャの物語は、ここから始まります。ようやく、で申し訳ありません。
 
エリシャは、北イスラエルで活躍した主の預言者です。主への信仰のないところに、手を貸すつもりは本来ないのだろうと思います。ユダの王ヨシャファトは、偶像崇拝を取り除くように貢献していましたから、宗教的には「善い王」でした。そこでヨシャファトを助けるのだったら、構わない、とするのでした。
 
それにしても、エリシャはこのときどこにいたのでしょう。どうして三人の王は、エリシャを見つけ、そこまで辿り着くことができたのでしょうか。えらく回り道をする羽目になり、しかも家畜のための水がないピンチです。いまのように電話で呼び出すならまだしも、エリシャへ辿り着くというからには、エリシャはエドムの地方にいたことになるのでしょうか。2章の終わりの記述では、エリシャがサマリアに帰ったことしか分かりません。
 
イスラエルの王の家臣が、エリシャがいる、と知らせることができたから、というのが直接的な理由となります。王たちの知らない情報を、誰がどうして知っていたのでしょうか。そしてエリシャがこっそり王の後をつけていた、というふうにしか理解できないこの情況を、エリシャサイドからは、どう見ればよいのでしょうか。
 
エリシャは気になって追いかけていた――だとしても、三人の王の訪れに対して、非常に冷たい態度をとります。
 
13:エリシャはイスラエルの王に言った。「私はあなたと何の関わりがあるのですか。あなたの父の預言者や、あなたの母の預言者のところへ行ってください。」イスラエルの王はエリシャに答えた。「いいえ、主がこの三人の王を呼び集められたのは、モアブの手に渡すためだったのです。」
 
どうぞ偶像に伺いを立てればよいではないか。エリシャは皮肉めいた答え方をしました。しかしヨラム王は、三人の王がモアブにやられるのだ、と訴えました。エリシャは、北の王などには関心がなく、ユダの王のためだ、と腰を上げることにしました。
 
14:エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は、ユダの王ヨシャファトの顔を立てるのでなければ、あなたには目もくれず、見向きもしなかったことでしょう。
15:さあそれでは、弦を奏でる者を連れて来てください。」弦を奏でる者がやって来て演奏すると、主の手がエリシャの上に差し伸べられた。
 
◆水が流れる
 
ここでエリシャの手から奇蹟が起こります。まず、涸れた谷に水が溢れる、と言います。それは雨のせいではありません。
 
16:エリシャは言った。「主はこう言われる。『この涸れ谷には次々と溝ができる。』
17:主がこう言われるからだ。『あなたがたは風も見ず、雨も見ない。それなのに、この涸れ谷には水が溢れ、あなたがたも、家畜も、獣もそれを飲む。』
 
しかもそのことは「これは主の目にはたやすいことである」とエリシャが言います。「たやすい」と訳されている語は、「なんでもない小さなこと」を表すと共に、「呪い」をそのニュアンスとして含みもつ言葉だそうです。事実、そう訳される場面が旧約聖書にはたくさんあります。エリシャは、必ずしも神の祝福としてこの現象を見てはいないのではないか、という気がします。
 
しかしエリシャは、この行軍の目的である、モアブ征伐に対しても、すっかり面倒をみようとします。
 
18:主はモアブをあなたがたの手に渡される。
19:あなたがたは、すべての城壁に囲まれた町、すべての選び抜かれた町を打ち破り、すべての良い木を倒し、すべての水の源を塞ぎ、すべての良い畑地を石だらけにして荒廃させる。」
20:次の朝、穀物の供え物を献げる頃には、水がエドムの方から流れ込んで来て、その地は水でいっぱいになっていた。
 
モアブに対する圧倒的な勝利を約束するエリシャでしたが、家畜と人のための水についても、文字通り溢れんばかりの水をもたらして、命を救いました。
 
聖書の地方でこうした大量の水は、珍しいかもしれません。そして聖書は時に、水がたっぷりと流れる場面を描きます。私はいつも、イエス・キリストが叫んだあの場面が頭に浮かんできます。
 
祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 
しかしまた、悲しい場面ですが、イエスの死に関して、イエスの体から水が流れる場面も思い出されます。
 
兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネ19:34)
 
このヨハネ伝の言葉を受けてでしょう、ヨハネの手紙一では、この件について説明を加えていました。
 
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。(ヨハネ一5:6-8)
 
◆水が満ちる
 
けれどもまた、私は同時に、黙示録の22章にある最後の情景がどうしても頭に浮かんできて仕方がありません。
 
1:天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。
2:川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。
 
もちろん、それはイエスの「生ける水」のことを受けて描かれたのかもしれません。また、主の教えを愛する人が「流れのほとりに植えられた木のよう」(1:3)であるとするのも、そうかもしれません。これらは、豊かな水の流れを思わせるもので、イスラエルにとり命を感じさせるイメージであるとも言えるでしょう。黙示録の記者は、「命の水の川」を天使から見せられ、それをまた言葉によって私たちに見せてくれることとなりました。
 
この「水」は、後に私たちを新しく生まれ変わらせる「洗礼」にも用いられることとなります。この「洗礼」は、「滴礼」という形で、水滴による形もありますが、元来どっぷりと水中に体を浸すものであったようです。その言葉は「溺死」をすら思わせる語であり、水の中でかつての自分に死に、新しくよみがえった生き方をする、という感覚を持ち合わせているものでした。
 
また、ヨハネもサリムに近いアイノンで洗礼(バプテスマ)を授けていた。そこは水が豊かだったからである。人々は来て、洗礼(バプテスマ)を受けていた。(ヨハネ3:23)
 
やはりそこには、豊かな水があった説明が加えられています。イスラエルにとり、この「豊かな水」というのは、特別なものとして見られていたように思われます。というのは、イスラエルの降水量は、日本と比べて四分の一か五分の一くらいしかないからです。
 
日本だったら、水が豊かであるどころか、洪水の方をなんとかしてくれ、と言いたくなるかもしれません。近年の水害は、気象を変化させてきた私たちの生活の故だとも見なされ得ますが、ただただ水が多いことだけではないかもしれません。都市機能の故でしょうか、幾らか降水量が少ないだけで、渇水騒ぎにもなります。福岡もかつて大渇水と称される事態になり、給水車の前に人が並ぶ風景がありました。以来、水道の蛇口には「節水コマ」が取り付けられるのが当たり前になりました。
 
また、災害があった被災地では、生活用水の不足が深刻な問題となります。生きるために、まず水が必要であるほかに、入浴や洗濯などのように生活のあちこちで求められます。
 
日本では、「湯水のように使う」という言葉もあるほどに、水はただで幾らでもそこらにあるものだ、という理解が共通にありました。金を浪費するということに、水のように使うというのです。
 
聖書の土地からすれば、全く理解できないことかもしれません。豊かな水を与えるイエスの雛形として、エリシャの物語を私たちは受け止めています。エリシャが密かにつけるようにして三人の王の無様な情況で、豊かな水をもたらしました。「その地は水でいっぱいになっていた」という結末です。私たちは今日、何を得たでしょうか。豊かな水を、ここからもっと切実に求めていくように、体も心も向き直る必要があるようです。



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