自分を認識するということ
2026年9月3日

他者がいてこそ、自己認識ができる。本当にただ独りで生きているのだとしたら、人間は自分のことが分からないだろう。他者の目に映る自分というものを意識するとき、初めて自分とは何かについて考える契機が生まれる。自分のことを他人の目で見るということは、自分からはできない。ただ相手の視線を通して、自分を知ることができる、と見なすしかない。他者がいてこそ、その目に映る自分の存在が意識できる。それこそが自分のことであると分かるのだ。
こうしたことが、現代になってよく言われるようになった。他者との交わりが如何に大切か、私たちが思い知らされるようになった。他者の故に、自我が成立する、とさえ言うことができるのだ。
ふむふむ。なるほど、それは分かるような気がする。私たちは、言われてみればなるほど、と思える経験をもつことがある。哲学とは、そのような言葉を紡ごうとすることだ。誰もが、言われれば納得はするものの、その言葉が与えられるまで、意識できない、ということがあるものだ。そのようなきっかけとなる言葉を生み出すこそ、そこに哲学の存在意義がある。別の見方ができる。違うものが見えてくる。哲学者は、常にそれを心がけている。しかも、その見えたものを言葉にする。さらに誰かに伝えることができるような、言葉という形で創造する。
ときに、その言葉そのものをさえ問う。言葉とは何か。言葉にするとはどういうことか。そのようにして、哲学は自らをさえ問い続けることで、生き続ける。
とはいえ、最初の他者を通して自己を知る、という指摘もまた、必ずしも適切な言い方ではない、ということにも気づかされる。というのは、子どもにはその指摘は通用しないからだ。
発達段階というものがある。詳しくは専門家の説明に委ねたいが、自己意識や自己認識を得る前に、子どもの関心はまず自分から外へ向かっていること、しかしあるときから、関心が自己へ向かう時期に入ること、そうした変化がある、というわけである。よく、自我の目覚め、などというが、私が思うに、心の発達により自我を意識するようになる、という説明の方が合っているような気がする。
何らかの事情で、この自己認識の段階をすっかり欠落させてしまうような大人もいるが、ともかくひとつのテーゼに対して、それが正しいとか誤っているとかいう話をするのは、同じ立場から評価できるグループだけなのであって、必ずしも普遍的なレベルに決めつける必要はない、ということが、言いたかったことである。そして、子どもについて、大人はすっかり忘れてしまっているのであって、子どもたちは自己について語る言葉をもたない、という点も弁えておきたいものである。