猫たちへのレクイエム
2026年9月1日

地域猫というのは、一定の範囲内で生きてゆく猫たちを生かす努力をする人々により世話をされている猫たちである。決して野良猫ではない。野良猫は、捕獲されて殺処分される運命にある。自治体は、なるべくそれを減らそうと努めているが、それをゼロにしている自治体は殆どない。
殺処分される猫は、その多くが仔猫である。地域猫は、その仔猫を増やさないように、と管理されている。そのため、不妊手術を施すのが、地域猫活動の大切な仕事でもある。それは、人間の身勝手である、という意見もある。だが、とりあえず次善の策をとっているには違いない。
中には、気に入られてイエネコになる子もいる。そのために譲渡会が設けられる等、費用と時間をかけて広く知らせる試みもなされている。譲渡会と関係なく、その地域猫に触れて、願い出る人もいる。それからまた、病気などの理由で、ボランティアの方の家で保護される猫もいる。
が、多くはソトネコとして暮らし続けることになる。ソトネコの生きる環境は厳しい。寿命は、イエネコに比べると明らかに短い。暑さの夏、寒さの冬、その中でも耐えるしかない。ボランティアさんたちにより、住まう家が置かれ、水も置かれている。冬は毛布が淹れられ、懐炉が朝晩入れ替えられる。夏は最近、電源なしの蚊除けが置かれるようになった。冷たいペットボトルが転がされることもある。
猫たちももちろん、野生の知恵で、夏は少しでも涼しいところを探して、命を守る選択をしている。だが、こうした環境で十年以上生きているというのは、大したものだとも思う。
『はたらく細胞』シリーズは、アニメや映画にもなり、人気である。大学生に絶賛される入門書としても活用されているという。いろいろなバリエーションがあるが、新しいものに『はたらく細胞 猫』というスピンオフがある。最近完結したのだが、その最終巻では、家猫のミケが驚いて脱走するところから始まる。そして、外猫としての生活を強いられるのだが、そこでどんなふうに病気やケガの危険が待っているのか、をまるまる一巻で描いているのだった。病気のシステムを知るのに、きっと役立つことだろう。
その本でも少し触れられていたが、実際大変多いのが、ロードキル、つまり交通事故である。保健所で殺される猫よりも十倍多いともいう。車の下に休んでいるところで遭うこともあるが、道路を横断するときにはねられることも多い。猫は後退ができないと言われるので、逃げる足がすくんでそのままひかれるということが多いらしい。
猫たちには天候も敵であろうが、一番の敵は人間であるのかもしれない。中には、虐待する人間もいる。自分の苛々を、弱い動物に向ける者が、少ないが確かにいるのである。髭を切られたり、落書きされたりしたのは、まだいい方だった。実際蹴り殺された猫もいた。もちろん、いまは動物虐待は犯罪である。が、よほどカメラにでも収められていない限り、立件は難しいだろう。
仔猫のような華奢な体だったが、実はおばあさんだったという子は、夏の暑いときに倒れているのが発見された。毛の手入れができず汚いなりをしていたが、友情に厚く、ボランティアさんたちからも一目置かれていた子は、水辺で倒れていた。その友は何故かよく毛が抜ける子だったが、寄る年波には勝てなくなってしまった。
コロナ禍で辛かった、医療従事者の妻を支えたハチワレの子は、病気で急逝した。冬の日に姿を見せなくなったので皆で探したが見つからず、その後ボランティアさんが執念で見出して保護し、最期は温かなソファの上で、ボランティアさんに看取られた。私と一番心が通い合っていた、心優しい子は、だんだん食を受けつけなくなってきて、私の膝の上で1時間円くなっているなど別れを惜しんだが、その後ボランティアさんに保護され、獣医も見たことのないような大きな癌を、切除する手術を受けたが、やがて息絶えた。
具合が悪くなり、ボランティアさんの家に引き取られて虹の橋を渡った子は、他にもたくさんいる。私たちが知っている、この数年間に出会った友だちの中に、悲しい知らせが届いたことが、いったい幾度あったことだろう。病気で助からなかった子が多いが、中には交通事故で突然に亡くなった子も最近いた。ある猫は、飼い猫として不妊手術をすでに受けていたが、どうも咀嚼が悪くなって公園に捨てられていた。決して、用意された家には入らなかったから、何かトラウマがあったのかもしれない。私の膝でよく寒いときに寝ていたが、やはり最期は保護されて、虹の橋を渡った。私はその日、偶々仕事が休みだったので、葬儀に夕刻出向き、骨を拾った。綺麗な骨格だった。猫について、そのようなことをしたのは初めてだった。
譲渡されてイエネコとなった子も少なくない。が、中には100kmも離れたその受け入れ先で亡くなったという知らせを受けたこともある。イエネコとして愛されている様子がSNSで流れてくるのを見るとほっとするが、そうした例は少ない。そのため、亡くなってからずいぶん経って、知らせを受けたというのだった。
人慣れして、すぐに誰にでも近づいてくる子もいる。そういう子が虐待されたというケースを知ると、実に悔しく、また憤りが消えないこともある。用心深い子もいて、ボランティアさんでも殆どまず触らせてもらえないのだ、という親子もいる。野生としては、その方が賢いのかもしれない。但し、ごはんをくれるボランティアさんのことは分かっていて、ごはんを要求する術は知っている。私もいつも見るので顔なじみになったのだろう、気にはなるようで、近くまで来るのだが、いまだに触ったことがない。でもそれはそれでいいのだ。
撫でられることを至上の喜びのようにする子もいる。へそ天になってごろごろもするから、完全に気を許しているわけだ。毛の向こうに体温を感じるとき、「ああ、共に生きているのだなあ」と感慨深く思う。ボランティアとは違う立場なので、ごはんをやるわけにはゆかないが、それでもこうして友だちになってくれるというのは、とてもありがたい。
決まった時間に巡って世話をする、ということがなかなかできないこともあって、正式なボランティアにはなれないが、せめてと思い、毎月わずかながらの寄付を続けている。しかし、ここのところ一時よりもずいぶんと猫が少なくなった。亡くなった子も多いが、もらわれていったというのは、よいことなのだろうと思う。そこで、餌代としても、以前より私たちからの寄付の額は減らしている。それでも、いざ知り合いの子が病気で治療費が必要という知らせを見ると、臨時で幾らかでも協力させて戴いている。
エジプトでは、猫は神々のひとつと見られたか、少なくとも神聖な動物として扱われていたらしい。ミイラも見出されている。日本でも古くから猫は文献に登場していたが、どうやら人間にとり困った存在であったネズミを捕まえるために猫が使われていたらしい。江戸時代には、生活が安定したせいか、空前の猫ブームも起こっている。
ところがどういうわけか、聖書には猫が登場しない。全く登場しない。何故だかは理由があるのだろうし、調べている人もいるのだと思うが、生活環境や文化の相違の故であるのだろうと思われる。但し、単語として「ネコ」という語はある。エジプトの王に「ネコ」と表記されている王がいるのだ。これはご愛敬である。