家が仏教なので

2026年8月28日

「家が仏教なんです」と言って、教会との関わりや聖書の勧めから引いてゆく人がいる。これまで仏教の習慣の中で生活してきた。いまさらキリスト教に変わるなどできない。そういう声がある。
 
キリスト教に変わるというのは、人生の方向を180度換えるようなものと見られているのだろう。いや、実際そうなのかもしれない。それほどに、仏教は、習俗や生活習慣として、あまりに生活の中に溶け込んでいる。というよりも、その風土の中で育てられてきたのであり、それが「あたりまえ」だと思って生きてきたのが、平均的な日本人であるのだろうと思う。
 
だが、考えてみれば、仏教をどれほど「信じて」きたか、というと、実に心許ないことに気が付く人も多い。寺に行くのは旧暦の盆や、せいぜい彼岸の頃のみ。僧侶の「講和」を聞きに出向くというようなこともまずない。葬儀や周忌が寺と関わる唯一の機会である、という人も少なくないのではないだろうか。
 
仏教は、宗教であるのか。まずはここからが問題となる。さらに言えば、そもそも「宗教」とは何か、が問われなければならない。私個人は、「智慧」というものとして仏教は優れている考えだと受け止めている。そこから「救い」というものへ至るのかどうか、そこは意見が分かれるところであろう。仏教自体も、当初の釈迦の教えと、日本仏教とでは、凡そ同じものとは思えないほどの違いがある。
 
中には、仏教が日本人の宗教だ、と言う人もいる。とんでもない。仏教は外来宗教である。それなりに古い歴史があるということは確かだが、奈良時代以前に伝来した、外国の仏教である。手塚治虫の「火の鳥」(太陽編)では、外国から来た仏教と日本古来の宗教との闘争が激しく描かれている。
 
そうなると、日本人の宗教としては、神道が挙げられることになる。だが、国家神道を唱えていた時代、神道は宗教ではない、というのが政府見解であった。それが誤りであった、と認めるならばまだよいのだが、現在でも神道は宗教ではなく文化だ、と見る人も少なくない。また、宗教人口の統計に於いては、地域に住む人間をすべて氏子としてカウントするような場合もあるらしい。たとえ仏教徒であろうと、神道の人口に数えてしまうのである。そのため、日本人の宗教人口が、総人口を超えることがある。統計というものはなかなか不自由なものである。
 
そして、日本人には日本人の宗教がある、と強弁する人もいることになるが、それは、そもそも宗教が神や仏という普遍的なレベルにあるものではなく、人間がそれぞれに考案した神々の問題だ、というだけの理解をしていることを暴露することになる。それでよいのだろうか。ただの気休めや、その都度の精神安定剤であるだけのものとして、神というものを利用する、ということでよいのかどうか、私たちは問い直して然るべきではないかと思う。
 
家が仏教、ということを一旦保留して、聖書の言葉に触れてくだされば、と願っている。そこで新たな出合いが待っているかもしれない。



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