「風、薫る」の酷さ
2026年8月26日

勝手に期待した方が悪かったと考えるようにしている。ナイチンゲールの看護の精神と日本での看護の確立、それを生んだキリスト教信仰、共に進んだ女性の地位の問題と廃娼運動。大関和が取り上げられると聞いて、どのように信仰が描かれるか、楽しみにしていた。
「風、薫る」というドラマが、もうわけがわからなくなってきた。原作の原型もとどめなくなってきたし、登場人物のキャラクターもまぜこぜで、どっちが和でどっが雅か分からなくなってしまった。看護師の始まりの話としても、史実とは比較のしようがないものとなっているし、牧師の様子もとてもじゃないが植村正久牧師とは似ても似つかぬものである。体格から正反対だし、信仰の厳しさや話し方も、とてもモデルにしたとは思えない描き方である。矢嶋楫子にあたる人も登場したが、その信仰も廃娼運動も、ついに描かれはしなかった。
「原案」だから変えてはいけないとは言わないが、もはや原案とさえ言えないものとなっており、史実に対しても人物像に対しても、そして原案の本を書くために苦労して調べた人に対しても、たいへん失礼なものになっていると思う。
もちろん史実を描くべきだ、などと言っているわけではない。事件も脚色してよいし、家族構成なども必要に応じて変えることはあるだろう。伝記ではないのだから。だが、そのキャラクターの性格や信念といったものを、まるで違うものにしてしまってはいけないのではないか。やなせたかしさんのもつ性格の一面や、三淵嘉子さんの法に対する動機や願いなどを捻じ曲げたら、モデルにしたお話ということにはならないであろう。
ところが「風、薫る」では、それを見事にやってしまっている。最初から、モデルとは関係のない創作ドラマとてするのならば、それはそれでよかった。ちょっとだけ、実在の人物を参考にしました、という程度ならば、誰もが空想物語として受け止めたことだろう。だが、モデルをはっきりさせ、史実に可能な限り忠実に調べた原案の本を掲げておきながら、そのスピリットを完全に改変してしまうことをしてよいのだろうか。やなせたかしを、ひたすら金を稼ごうとする人間に描くようなことがあってよいものだろうか。
大関和さんの面影もなく、看護婦を始めた気持ちもやり通したことも、なにもかも完全に消えている。モデルなどなしでつくったドラマならば何も言わない。だが、あまりにも酷い。中には、これをすっかり信じ切って看護の先駆者を実によく描いている、などと絶賛しているような人も実際に現れている。もちろん思慮が足りないその人の方が悪いのかもしれないが、そう思わせるような制作姿勢があるのも確かである。いまからにても遅くはない。これは史実とはまるで違う空想だけの話だ、と広く報じて戴きたい。