愛したというその瞳を
2026年7月6日

井上陽水の「氷の世界」が出たきたのには少し笑った。世代だなあ。福岡の田川で医学部に三浪の末、ラジオ番組「スマッシュ!!11」で井上悟に見出され、知られるようになった井上陽水。福岡にいるギター弾きからすれば、弾かずにはおれないアーチスト。私は地元「能古島の片想い」が一番好きだった。
などということは、どうでもいい。説教者が最初に買ったのがそのアルバムだったのは余談で、本筋は、最初に買った洋楽アルバムが、スティーヴィー・ワンダーのアルバム「Songs in the Key of Life」であった、というところが大切だったのだ。
その代表曲「サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」の歌詞が、歌付きで紹介された。
You are the sunshine of my life
That's why I'll always be around
You are the apple of my eye
Forever you'll stay in my heart
正確には、この奇数行が紹介された。ここでの「the apple of my eye」の歌詞の意味を後に知ることになった、という話であった。「私の眼のリンゴ」とは何のことか。端的に言えば「瞳」のことを言うのであるが、「my」が付くのは、「目に入れても痛くない」に相当する言葉であるわけだ。
聖書にも、これに匹敵する語がある。本日引かれたのは、申命記32:10であった。
主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ
彼を抱き、いたわり
ご自分の瞳のように守られた
因みに、聖書の中でこの表現はときどき見受けるもので、列挙しておこう。
瞳のように私を守り/あなたの翼の陰に隠してください(詩編17:8)
私の戒めを守って生きよ。/私の教えを目の瞳のように守れ。(箴言7:2)
もうひとつ、旧約聖書続編のシラ書にもひとつある。正にヘブライ語でも「瞳」という言葉を以て、最愛のものを表現しているのである。
主なる神が、私を瞳のように愛してくださる。このメッセージだけで、どれだけ私たちは救われることだろうか。主の瞳、私が映っているということが、どんなにリアルに私の救いとして受け取られることだろうか。
このことを、本日の礼拝説教では、マルコ伝の連続講解説教の中で、その場面と共に深く受け止めることになる。ここは、加藤常昭先生の説教全集でも2週にわたって取り上げられているが、説教者もまた、次週に再びここから語ることを約束し、多面的に取り上げることを予告して、マルコ伝へ私たちは誘われることとなった。10:17-31である。
「走り寄り、ひざまずいて尋ねた」のは、マルコでは「ある人」となっているが、共観福音書でのこの場面では、「議員」だとか「青年」だとか特定のイメージをもたせている。説教者は、年齢を重ねていたのではないか、と推測する。イエスの問いに対する答えが「少年の頃から守ってきました」と言っているのが、この人の真面目さを訴えており、大人のしみじみとした思い返しを伝えているように感じるのだそうだ。
ところでこの「走り寄り」という言葉には、私もすぐに反応した。大の大人が、人前で走るというのは、はしたないことであったはずだからである。なりふり構わずイエスの許に来たのかもしれない。説教者は「体裁を捨てた」と表現していたが、この言葉を蔑ろにしない点は、やはりこの場面をよくよく脳裏に思い浮かべてのことである。聖書はそのように読みたいものだ。
何故そんなにイエスに会い、問い尋ねたかったのか。それは、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよい」か、という点であった。若いうちは、あまりそういうことは気にしない。まだ先が長いし、夢や希望の方が強い関心を呼ぶのだ。だが、人生の先行きが短くなってくると、「永遠の命」という課題が大きく迫ってくることもあるだろう。
この夜、NHKで、養老孟司氏を取材した番組が放送されていた。解剖学のプロフェッショナルであった養老先生は、かつて「死ぬことは大した問題ではない」という考えをもっていた。だが重い癌を患うに至り、癌について学び、新たな治療法に期待する姿をカメラは映し出していた。「ひとりで生きているみたいに思ってたんだけど、そうじゃない」と気づかされたようなことも口にするのだった。
永遠の命のためには「何をすればよい」か、とその人はイエスに問うた。イエスは十戒という、人間と神との間に定められた基本的な法を挙げた。しかも、神に対する教義的な内容ではなく、人間に対する「行い」の方であった。つまりは、道徳的と呼んでもよいような内容だった。
するとその人は、「少年の頃から守ってき」た、と答えた。イエスは、それを嘘だと退けるようなことはしなかった。が、ここで一度立ち止まろう。人が神に対してもの言うとき、その問いのスタンスというのは重要である。この人は「何をすればよい」か、を尋ねた。そこで説教者は、ある意味で手厳しく、そこに問題点を指摘する。
愛される前に、愛されるに値することをしようとしてきたのだ。結果を出して認められようとしていたのだ。これだと、戒めを守っても、心安らかになれないではないか。この順序、秩序が問題である。否、この人にそれを求めるのは酷である。この見本を与えられた私たちこそが問われている。このからくりを知らされた私たちが、なおも同じ迷路に入り込み、他の道に沼っているようなことはないか、問いかけられているのだ。
イエスは、この人の「守ってきました」の言葉に対して、「あなたに欠けているもの」をこの後に指摘する。だが、それを言う前に、今日私たちが聞くべき、決定的な描写がある。
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。(マルコ10:21)
「見つめ」というのは、じっくりと観察していた様子と言えようか。あるいは、その結果クリアに分かった、ということを伝えようとしているだろうか。この人物の真実を知ろうと努めていたように私は感じる。そして「慈しんで言った」と訳されているが、少々もったいない。ここでは、イエスは・彼を見つめた・愛した・そして彼に言った、と畳みかけるように書かれている。しかも、「彼は」「彼は」「彼は」と、これも畳みかけているのである。
いまの訳で「慈しんで」と記さなかったのは、説教者の指摘の通りである。説教者は遠慮がちに、このような訳もある、というような言い方をしていたが、この原語の動詞は、「愛した」という語ずばりなのである。「アガペー」の動詞形であるから、「アガペー」が今の日本語の「愛」であるならば、この「アガパオー」は「愛する」と捉えるしかない語なのである。そして、共観福音書でイエスがまともに「愛した」と記されているようなことは、ほかにないのである。
イエスは彼をよくよく見つめ、彼を愛した――というように受け取るのが基本ではないかと思う。この眼差しを、私たちがどう感じるか、そこが今日のポイントであろう。私は、とてもじゃないが「守ってきました」などとは言えない者である。今もなおしくじり続ける毎日である。「ひとを愛せますように」との祈りから始まった私の信仰人生であるが、少しもできやしない。できないことに気づいただけ、いくらか質的にましなのかもしれないが、だからと言ってできたわけでは到底ない。
ただ、主から目を離さないでいるならば、そこにイエスの瞳が確かにある。その瞳の中に、自分が映っている。説教者が言うように、イエスの瞳の中に映る自分に会うために、礼拝の場に来ているのではないか、という問いかけも尤もである。
今日はこうして、礼拝ができた。礼拝の霊が立ちこめていた。
しかし、イエスが彼を愛したその後がどうなったのか、そこを無為に通り過ぎるわけにはゆかない。イエスは彼を愛した結果、「あなたに欠けているものが一つある」と指摘したのだ。この宣告は厳しい。このようなときの「一つ」は、one of them の一つではないだろう。根本的に、本質的に、決定的に欠落している「一つ」であるに違いない。
イエスは、持ち物を売り払い、貧しい人々に施せと言った。彼はこれを聞いて悲しみ、嘆きつつ立ち去ったという。これまでの自分の人生は何だったのか。律法を守るのも並大抵のことではない。あれやこれやの誘惑を断ち、他人に後ろ指を指されることもあったかもしれない。真面目一筋で、曲がったことをしまいと思い、自分に鞭打って、自分を律法に従わせてきたのだ。
だが、財産を手放すことができなかった。ああ、金持ちだから、金が惜しいんだ。そんなふうに見ていたら、私たちも彼と全く同じ穴のムジナである。イエスから同じ仕打ちを受けるに違いない。確かにこの人は、財産というものから離れることができなかったかもしれない。だが、問題はただの財産だったようには思えない。幾ら金持ちが神の国に入ることが難しいとイエスが言ったにせよ、すべての人が貧困に陥るようにと願ったとは思えない。
説教者は、この人は、自分の手許ばかりを見ていた、と指摘する。自分の持ち札、自分にいま何があるか、将来何が見込めるか、自分・自分・自分なのだ。いくら自分が先に何かをしたことによって勝ち取ろうと考えても、それでは死に勝つことができるものではない。老いは希望にではなく、ただ死に向けてのみ転がり落ちるように仕向けるであろう。
説教者は告げる。手にしているものを手放すことを求められているのだ、と。何をすればよいか。これを「交換の経済」という言葉で説教者は説明する。これこれに値するものを、互いに交換する経済。確かに経済の基本である。対価値を計算に入れることによって、いわばコストパフォーマンスを求めるのである。だが、「贈与の経済」という考え方がある。交換による即座の利益を求めるのではない。たとえ代償が保証されなくても、受けるより幸いな「与えること」を想定してみてはどうだろう。
いまから百年ほど前、フランスで『贈与論』という本が著された。マルセル・モースという社会学者、あるいは文化人類学者による著作である。但し、先に挙げた「与える」ことで終始するという言い方はよろしくない。贈る・受け取る・返礼をする、この一連の動きが社会的な慣習としてあるのだ、という理解がこの著作の要である。古代にそれがあったということの指摘のみならず、現代のビジネスでもそれをあり、いまではSNSの世界にも認められるはずのものである。
しかし、イエスは何も返礼を要求しているわけではない。結果として、私たちは信仰という返礼をしている、とも言えるが、イエスの与えた命は、ある意味で一方的に与えられている。
説教者は、一冊の祈りの本を手にして見せた。古今東西の祈り手の祈りを、一人ひとつかふたつずつくらいに掲載したものである。私が毎朝開いている本である。一日ひとつの祈りを共に祈ることで、今年初めから、もう何周目になっただろうか。その中に、丁度私が四日前に開いたところであったが、マルティン・ルターの祈りが掲載されており、説教者はそれを読み上げた。
「わたしの信仰は弱いのです。どうか強くしてください」「あなたをひたむきに信頼することができません」「私は罪にまみれ、あなたのうちには義か満ちあふれています」といったように、ずいぶんと弱気な言葉ばかりが並ぶのである。教皇庁に逆らう、勇敢な姿すらイメージさせるルターである。また、家庭のよき父親として子どもたちを育み、友人たちとサロン的な話に花を咲かせていたであろうルターである。それにしては、あまりに惨めな姿を呈していないだろうか。
この祈りは、「あなたに差し上げるものはなにひとつありません」と結ぶ。ここに今日の説教とつながるものがある。「何をすればよいか」という打算的な思いが壊滅しているのである。
イエスは、イエスに永遠の命を求めてなりふり構わず駈けてきた人を、確かに「愛した」。だが、その人が財産に囚われたというのは、表面的なことであったことに気づくべきである。説教者は言う。この人は、イエスの眼差しを受け止めず、イエスの瞳に映った自分の姿を見ようともしないで、自分の手許だけしか見ていなかったのである。
私たちの問題も、財産に限るものではない。イエスの眼差しを、正面から受けていないのではないか。イエスの顔を仰ぐことが足りないのではないか。その瞳に映る自分の姿を知っているか。そこに吸い寄せられるように、見つめ合っているのか。イエスはすでにこんなに見つめているのである。あとは、私がイエスの瞳を見つめ返すことだけである。
イエスは、このときエルサレムへ向かう途上であった。自分の十字架を見つめていたのは確かである。だが、イエスは彼を愛した。その愛は、時と場所を超えて、いま私たちへ向けられている。イエスはもはやゴルゴタの十字架を目指しているのではない。それはすでに成就されたのだ。ただ、その先でイエスは、聖霊によって私たちの目の前に現れる術をもたらした。何かしらバーチャルな姿で現れているのかもしれないし、私たちにはある意味で幻のように感じられるものなのかもしれない。だが、時にそれは声を以て呼びかける。現象として起こる形で現れるかもしれない。
しかし、私たちはそれを、どこか象徴的にであるにせよ、「眼差し」として受けていると言ってもよいだろう。目の中に入れても痛くないというほどの愛で、私はイエスに見つめられている。見上げれば、時に十字架のイエスが、時に復活のイエスが、私に眼差しを向けていることを知る。そこに私が入って痛いこともない瞳がある。私はその瞳に入っている。映るばかりでなく、きっと確かに入っている。
手許にあるものに囚われないでイエス・キリストの瞳に映る己れを確かに知ったならば、「天に宝を積むことになる」というのがイエスの「愛した」ことで告げたことであった。この「天」は、鈴木正久牧師の説教で気づかされたが、時間の制約のない世界だと捉えることができるということだった。「地」は時間的なもの、だが「天」にはそれがない。ならば、「天」はまさに「永遠の命」と呼ぶに相応しい世界を指していることになるだろう。そこに宝、あるいは命を置くことになるというのだ。
「それから、私に従いなさい」とイエスは「愛した」者へ告げた。それは、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」と馬鹿正直な意味で思わず言ったペトロのような従い方を指しているのではない。近い将来、ペトロはイエスに従うのとは正反対の行動をとることになる。唯一の大切なイエスを捨てて逃げることになる。ただ、それを私たちは嗤うことはできない。戒めにしかならない。自分が、あのペトロ以上だとでも言うつもりだろうか。とんでもない。
説教者は、握りしめているその掌を開こう、と最後に促した。握りしめているのは御言葉でもないし、イエスの愛でもないだろう。イエスの瞳を見つめることができないままに、自分が・自分が、と握りしめているものを手放さなければならないのだ。開いた掌に、いまからイエスの体を受け止める。それが、聖餐ということになる。