【メッセージ】信仰が始まるとき
2026年7月5日

(創世記28:10-22, ローマ10:17)
ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、 私はそれを知らなかった。」(創世記28:16)
◆信仰の入口
どうしてキリスト教を信じたのですか。そのように尋ねられるクリスチャンは、むしろ幸いかもしれません。関心をもたれているからです。別にそんなこと、知りたくもないわ。その姿勢の証拠が、信仰のきっかけへの質問の無さだというわけです。
もちろん、千差万別です。信仰に入るきっかけとか、信仰に至る道とか、そういうのは、誰ひとりとして同じではないわけです。
自分がどうやって信仰をもったか? さて、どうしてだろう。よく分からない人もいるかと思います。特に、親に連れられて教会に行くことが当たり前だった子どもだったら、そもそそれが当たり前の自分であったのですから、今さら信仰をもつ、という意識がないかもしれません。あるいは、信頼の置ける人の勧めで教会に行くようになって、なんとなく洗礼まで受けてしまった、などという人もいるかもしれません。
信仰をもつために、洗礼を受けるために、どのようにしなければならない、という決まりは、教会によって異なります。しかし特別に厳しいことは、いまでは少なくなっているだろうと思います。人間には、そんなことが定まっているのではないのでしょう。強いていえば、「神の選び」というものです。教会に来ている人で信仰のある人も、その信仰体験はそれぞれであって、正解と不正解があるわけではないはずです。
ただ、何も指標がないのなら、それでは信仰するというのはどういうことですか、という問題に対して、何も答えがないことになります。それでよいのでしょうか。教会ではそのために、昔から、信仰告白のための信条というものが決められるようになりました。私たちはこれこれを信じているのです、という標準的な事柄です。
そうなると、信仰はここで始まった、という意識が、それぞれの人にあってもよいのではないかと思います。それは時に劇的です。はっきりとしたドラマ性のある出来事である場合があります。しかし、劇的でないから信仰していることにはならない、とも思えません。正に人それぞれです。
ただ、何らかの形で、イエス・キリストとの出会いがあることでしょう。また、出会った後にも、イエス・キリストという他者の眼差しを通して、その人自身を見つめる眼差しが与えられることになりますから、祈りという、神との間の一種の問答を通じて、成長させられてゆくことになるだろうという気はします。
今日は、そういう、信仰の始まりについて少しお話をしてゆこうと考えました。とはいえ、凡ゆる形を網羅することはできません。語る中で現れた姿は、無数のケースの中の、ほんの一つ二つの、あり得る例を述べているに過ぎないもの、と理解して下されば幸いです。
◆証し
信仰の経験を語ることを「証し」といいます。「お証し」のように言うこともあります。特に、信仰するに至った過程を人の前で話すことは、重要な証しです。その人がどのような信仰をもっているか、の表明になるのはもちろんですが、もっと厳しい場面も想定されて、福音書ではイエスがそれを教えています。
引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。(マタイ10:19)
日本でも、キリシタンの迫害のときに、神への信仰を証しして、亡くなった人が少なからずいました。芥川龍之介の作品の、いわゆる切支丹物にもそういう場面が描かれています。
その「証し」ですが、正にその『証し』という言葉をタイトルにする本が、2023年に話題になりました。正確には『証し 日本のキリスト者』という本で、ノンフィクション作家の最相葉月という人が著しました。コロナ禍の中で取材に苦労した話も打ち明けられていましたが、日本各地を巡り、キリスト教信仰をもつ人々の生の声を集めました。私は電子書籍形式で読みましたが、紙にすると千頁を超える、実に分厚い本です。
構想10年、取材が6年といいますから、ノンフィクションとしても並々ならぬ力を注いで作られたことになります。取り上げられた証しは、135人の信仰者のものです。インタビューだけでも、一人あたり3時間はかかった、と著者が言っています。
取材は、一般信徒のみならず、教職者も多数。そこには、神体験により「召命」を受けたというよりは、自分の考えで職業としてそれを選んだ、という声が案外多くて驚きました。また、プロテスタント、カトリックという枠に制限せず、無教会や正教会の人の声も幾つもあり、参考になりました。
最相葉月さんは、いわゆるクリスチャンではありません。しかし、クリスチャンの信仰について関心をもち、この企画に没頭しました。クリスチャンがインタビューするのでないからこそ、証しする側も、案外話しやすかったのかもしれません。
ですから、こんなことをもし教会の集まりで話したら、非難を浴びるのではないか、と心配されるような内容の話も多々ありました。「良い子」の話をしなくちゃ、という気配のない取材だったのだと思われます。そこでは露骨に、様々な「本音」が並んでいると言えそうでした。
著者自身はクリスチャンではない、と記されていましたが、「あとがき」で、本文中のあるAさんに非常に共感を覚える、と打ち明けられていました。本文になかったようなことも交えて、そのAさんの考えをわざわざ取り上げていたので、やはり聖書や信仰についての理解はかなり深かったのではないか、という気がします。
集まった声は、様々な人生を描いていました。ダイバーシティという言葉は、こういうことを言うのではないか、と思えたほどでした。それらと向き合うひとときを与えられて、私は、聖書のどこかに霊感を受けて、それを自分の生き方としていることについては、大いに賛同の気持ちを表したいと思いました。自分のインスピレーションを受けた聖書の意味が、聖書の真の意味であり、他の人が言うのは嘘だ、というような言い方をすべきではない、と思えたのです。そしてそうすれば、聖書は、一人ひとりを輝かせる力を、もっと発揮できるだろう、と気づかされるのです。
◆ヤコブ
神と出会ったことの「証し」は、聖書の物語の中に様々に現れます。今日、その中からヤコブを取り上げました。旧約聖書の中でも第一級の重要人物です。相当にやんちゃな人物のように見えます。性格は、けっこう生真面目で一途なのですが、やることなすこと、波乱を招きます。ただ、なかなか知恵がある様子も窺えます。魅力的な人物ではあります。
それでいて、臆病な面もあるような印象を受けます。後で述べますが、兄を騙したことで、逃げ回るばかりか、どうしても再会しなくてはならなくなったとき、贈り物を部隊の先頭に置き、自分はいつでも逃げられるように最後尾に着くのです。
ヤコブが重要人物だというのは、何よりも、後にある出来事によって、神から「イスラエル」という名を貰うからです。いまなお世界を揺るがす「イスラエル」という国名は、このヤコブに始まるのです。重要でないはずがありません。
このイスラエル、つまりヤコブには、沢山の息子が与えられます。それらが、イスラエルのいわゆる十二部族の名前となりました。逆に言えば、イスラエル民族というものが、多くの部族の統合体であるとするとき、それらの部族の謂われ、あるいは根拠というものが、このヤコブという父親に由来する、ということになります。
晩年は、その息子の一人であるヨセフに絡んで、飢饉となったイスラエルの地を離れ、食糧の備蓄のあったエジプトに下って行き、そこで死ぬことになります。死んだと思っていたヨセフと、生きている間に再会できたことは、ヤコブにとって嬉しかったことでしょう。
もちろん、ヤコブは、神から選ばれた人物として聖書に挙げられています。ヤコブが神を求めてついに信仰を得た、というふうに描かれてはいないように見えます。生まれ落ちてからすでに、この神がいて、この信仰の風土の中にどっぷりと浸かっていたことになります。それで、いつからどのように信仰をもつようになった、というテーマでヤコブを見てゆくことは難しいと思われます。
ただ、ヤコブに於けるターニングポイントがあるとすれば、ここではないか。そう気づかされたことによって、今日その場面を追いかけてみようと思ったわけです。
◆危険
そのために、まずヤコブの出自から振り返っておくことにします。ヤコブは、双子の弟として生まれました。兄エサウのかかとを掴んで生まれたことで、語呂合わせのようにヤコブという名を受けたことが書かれていますが、それはエサウの足を引っ張るという意味でもあったのでしょう。血気溢れ、単純な兄に対して、弟ヤコブは知恵がありました。イスラエルでは、長子と二番目とでは、財産や立場の点で待遇に雲泥の差がありましたが、あるときどさくさに紛れて、兄から長子の権利を奪うような事件が起こります。
それを現実のものにするために、父イサクの臨終が近いときに、父の祝福を、今度は明らかに騙し取ります。この父親の「祝福」というものも、イスラエルの文化にとって大切なものであり、一度与えられた「祝福」は、絶対的な価値をもつものでした。父イサクは、当然兄エサウを祝福しようと考えていました。しかし、母リベカは、弟ヤコブを溺愛していましたので、母が策略を考え、父イサクの祝福をヤコブにすべて与えるように仕向けます。
事の次第を細かくは申しませんが、このときヤコブが偽りの演技をしたのは事実です。また、その背後に母に唆されたのも事実です。そして目の不自由な父親を騙して、本当にヤコブがその祝福を奪い取ってしまいました。この騙し取りの意味は、限りなく大きなものでした。兄エサウの殺意から逃れるためには、その地を一旦離れるしかありませんでした。
ヤコブは、ベエル・シェバを発って、北上します。母リベカは、その兄ラバンのところに逃がしたのです。ハランのパダン・アラムに、兄ラバンが住んでいますので、ヤコブはラバンの許へ旅立ちます。祖父アブラハムの故郷の方面に、その土地はありました。
ヤコブは後にこの経路を戻る旅をしますが、そのときに「イスラエル」という名を貰うことになります。それはまるで、アブラハムの歴史の道を辿り直すようなもののように、私には見えました。
ヤコブははるばる彼方まで、孤独な旅を強いられました。置かれた情況や、これからどうなるのかという不安で、ヤコブの精神は追い詰められていたのではないか、と想像します。そこである出来事に遭遇します。出来事といっても、個人の意識の中での出来事です。そしてその出来事を通じて、その地を「ベテル」と名付け、それがイスラエルにとり重要な地になるのですが、そこで日が暮れた、というところから記述は始まります。
日没から一日が始まる、というのが習慣であったとはいえ、独り旅の闇は恐ろしかったことでしょう。野営しかないのです。野獣がいないでしょうか。強盗に遭うかもしれません。そんな危険を考えると、気が気でなかったことでしょう。不安を通り越えて、これはもう恐怖でしかありません。石を枕にして寝苦しかったかもしれませんが、ヤコブは眠り、そして夢を見ます。創世記28章です。
◆神の家
12:夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。
夢はしばしば、神からのメッセージでした。聖書の中には、夢のお告げという展開が、重要な場面でよくあります。この後息子のヨセフが、夢の騒動で大変な人生を辿ることになります。ヨセフは、夢を解くことができました。同じく、夢を解くことで、後々ダニエルはバビロニア帝国を動かすほどにもなります。そしてイエスの出生については、イエスの父ヨセフに、神から夢が与えられて、その行動が導かれるのでした。
夢は、眠っているときに見るものですが、人の無意識の中で、神が語りかけるという手法なのでしょうか。とにかく、夢は神の言葉を人が受けるための、重要なアイテムなのでした。
石の枕というのは、目覚めて後の行動の準備であることは分かりますが、硬くてとても寝られないであろうということなど、その意味がよく分かりません。とにかくその夢の中で、「先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた」のでした。
このことから、雲間から射す光の美しい筋が「ヤコブの梯子」と呼ばれるようになりました。これを英語のまま「ジェイコブス・ラダー」とした映画がありました。ホラー系の、サイコスリラー映画だと聞いていますが、私は残念ながら観たことがありません。
このとき、天使たちが「昇り降り」していた、という記事からの説教を覚えています。順番が、先ず「昇る」のですから、人間の方から天へ向かうのが先だ、というのです。人と神とをつなぐ連絡の道ですから、これはひとつの祈りです。祈りを、まず神に向けなさい、そうすれば、神から返事が降りて来るのです、というような、祈りの勧めでした。
13:今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14:あなたの子孫は地の塵のようになって、西へ東へ、北へ南へと広がってゆく。そして地上のすべての氏族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
アブラハムやモーセも、高い所から土地を見渡すことがありました。この地は、海抜900メートルほどの場所だそうです。ヤコブもまた、イスラエルの土地を見渡すことかできたのでしょう。「そして地上のすべての氏族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」という言葉が付せられていますが、この言葉は、現代のイスラエルにも届いていると言えるのでしょうか。
主からの夢は、「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない」という言葉で終わります。いずれヤコブがまた元の地に戻ってくることができる、という約束を意味するものでしょうが、ここにある慰めの言葉を、コンパクトに抜き出してみましょう。
「私はあなたと共にいて」「あなたを守り」「あなたを見捨てない」
これに勇気づけられて、ヤコブは目覚め、驚きます。そういえば日本語で「おどろく」とは、「ハッと目が覚める」ことを意味しました。
16:ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」
17:そして怖くなって言った。「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ。」
ここは「神の家」、そして「天の門」だ。ヤコブは怖かったと言っていますが、その「恐れ」は、「畏れ」にも通じます。ヤコブは神への畏れを実感しているとは言えないでしょうか。
◆エポック
夢から目覚めたヤコブは、「頭の下に置いていた石を取り、それを柱として据え、その上に油を注いだ」のでした。枕が石であった理由が、ここにあると見てよいでしょう。石は雨風に堪えます。記念碑に相応しいものと考えられます。
ヤコブの心は、何かしら変わりました。「誓いを立てて言った」というほど、確信に満ちた、力強い気持ちで宣言します。比較的長い言葉を発していますが、その要点だけをつないでみましょう。「神が私と共におられ、私の行く道を守り」いつか「父の家に帰ることができ、」「主が私の神となられるなら」、この石が「神の家」となるだろう、このように言っているのです。
聖書は、ヤコブがこの土地を「ベテル」と名付けたことを記しています。ヤコブはこのベテルの地に祭壇を築くような体験をし、そのときに改めて「ベテル」と名付けたような記述も見られます(35:15)。そこは目を瞑るとして、このベテルは、ヨシュア記では、他の土地の場所を示すために、「ベテルの東」だの「ベテルに近い」だの、基準としての役割を果たしています。士師記でもベテルは、イスラエルの民にとり重要な拠点のように描かれています。その後もベテルは、祭壇をもち、神を礼拝する場所として認識されていることが見て取れます。
具合の悪いことに、ここは後の北イスラエル王国にとって、金の子牛像を祀る偶像崇拝的な拠点となってしまいます。その罪のために、早々に滅亡してしまうことにもなりますし、預言者は度々ベテルを、非難すべき名として取り上げます。そして新約聖書では、一度もその名に触れることすらなくなります。
善きにつれ悪しきにつれ、ベテルはイスラエルのひとつの象徴的な地となります。けれどもそれは、ヤコブの名を汚すことはなかったことでしょう。この石が「神の家」となるだろう、とヤコブは感激していました。「ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ」と、畏れを伴いつつ叫んだのです。この「神の家」そして「天の門」と呼んだことに因むというのが聖書記者の着眼点です。正に「神の家」や「天の門」というのが、「ベテル」という言葉の含みもつ意味であるからです。
夢の中で神は、ヤコブにこう語りかけていました。「私はあなたと共にいて」「あなたを守り」「あなたを見捨てない」と。目覚めたヤコブは、「神が私と共におられ、私の行く道を守り、食べる物、着る物を与えてくださり、私が無事、父の家に帰ることができ、そして主が私の神となられるなら」、と言いました。まるで夢で告げられた神の声を反芻するかのように、言っています。
神が「あなたと共にいる」ことに対しては、ヤコブは「神が私と共におられる」と言い、「あなたを守り」と神が言えばヤコブは「行く道を守り」と言い、神が「あなたを見捨てない」と言えば、ヤコブは「無事に帰る」と返しています。ヤコブは、聞いたことをただ繰り返すように、げれどもただ自分の側からの視点で、自分の立場から、しみじみと口に出して言葉にしているのです。
私は思います。ヤコブはこのとき、つまり神の問いかけに応答したとき、真に神を信じたのだ、と。真に神と出会ったのはこのときだ、と強く感じるのです。こうして「あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます」と献げ物をしているのも、神の約束に対する、ヤコブなりのレスポンス、応答であったのです。
◆聞くことから
ヤコブが、神からの声を受け止めて繰り返すかのように言葉にした、といま申しました。ヤコブは聞きました。外からの、神の声を。ヤコブの信仰は、まず神の声を聞いたことから始まりました。
ヤコブは、直接神の声を聞いたのでした。私たちはどうでしょう。そのような神の声を聞いたことがおありでしょうか。そういう方もいるでしょう。が、なかなかそういう神秘的な体験は、すべての人には期待できません。
いや、自分の心に聞く、自分の心の声に従う、という考えも、世間には見られます。流行の歌にも、そういう言い回しが出てくることがあります。けれども、やはりそれは信仰とは少し違うのです。神の声は、自分の心の声として聞こえたとしても、それは起源としては自分の内からではなく、自分の外から聞こえたはずなのです。
幼いサムエルが、師匠の祭司から呼ばれているのかと思い込み、夜に「お呼びになったので参りました」(サムエル記上3:5,6,8)と尋ねたことを思い出します。祭司エリは、その息子たちのことでその後処罰を受けますが、サムエルに呼びかけるその声が、主からのものであることは感じ取りました。
主からの声は、外から聞こえます。礼拝説教の中からも語りかけます。読む聖書の中からも響いてきます。祈りのときに、呼びかけられ、気づかされることもあるでしょう。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こる」(ローマ10:17)のですから、キリストの言葉が語られるとき、聖書から聞くとき、祈りの中に聖書の言葉が現れるとき、信仰が始まる機会があるのだろうと思います。
私は、聖書の文字の向こうから聞きました。理性で理解したから、ともまた違うような気がします。ただ、心に差し込むものがあり、私はそれに突き刺されたのです。貫かれたのです。もっと言えば、ぶん殴られたのです。
その声を聞いたとき、ふと気づかされるのです。ヤコブにしても、夢からでしたが、ハッと気づかされたのです。いままで自分は知らなかったが、主はここにおられるではないか。主はずっとあなたのそばにいたし、いまもいるのですが、あなたは突如、それを知るということがあるのです。それが、あなたの信仰の始まりであるに違いありません。あなたも、ずっとそばにいる方と、きょう、出会いがあるかもしれません。