急に子どもがいなくなる
2026年6月29日

雑誌「Ministry」は、映画「イントレランス」が付録(これでは意味が分からないとは思う)だった号、確か2017年頃から講読していた。やや高価だったが、類のないキリスト教についての情報と、説教についての貴重な情報が満載だった。一度、投稿が依頼されて隅っこに名前が載ったことがある。不定期刊になるまではその後、年に四度欠かさず講読していた。付録のCDも愉しかった。
その誌に連載企画されていた記事で、日本の名だたる説教者にじっくりインタビューしたものがあり、それはやがてまとめられて単行本になっていた。『聖書を伝える極意』(キリスト新聞社)である。訳あって、最近それを再読した。そこで、今日の説教でその本の記事に触れられたとき、直ちに私は頁をめくった。
FEBC(キリスト教放送局)の番組でもおなじみだが、カトリックの岩島忠彦神父がそこで語っていたことについて、説教者は触れた。というのは、今日の連続講解説教のマルコ伝10章の該当箇所は、神の国が子どもたちのような者たちのものだ、とイエスが受け容れる場面だったからである。説教では軽く触れただけであったが、折角なので、本の中から少し長く引用させて戴くことにする。
岩島は子どもが苦手だ。イエス自身もそんなに子どもをかわいがるタイプではなかったというのが岩島の推論。いわく、子どもが好きなイエス像は「選挙のポスターみたい」。にもかかわらず、さまざまなかたちで聖書に子どもが登場するのはどういうことか……。(中略)そこでたどり着いたのが、「物事をありのままに曇りなく受け止める存在」としての子ども。
「イエスは人間の心をご存じで、ある意味『人間不信』だったと思います。どうしようもない人間の上にこそ、福音が告げられている。そういう徹底したリアリズムが踏まえられていなければ、イエスには近づけません」(p154)
子どもが礼拝にいると、「ざわざわ」しませんか。そういう問いかけもあった。ある教会では、子どもが同席しても、声や音を出すことを許さなかった。そこは神聖な場であるから、親が責任をもって対処しなければならない、と。厳しい時代だったかもしれない。その後、ガラス張りの母子室が造られるような時代になった。だが、以前として「母子室」という名称であったのも、また時代であった。
「大人の礼拝」のときには、子どもたちを預かるナーシングのシステムが作られることもあった。教会学校はその1時間くらい前から始まるわけで、クリスチャン・ファミリーは、ずいぶん早くから教会に来ることになる。親は「大人の礼拝」まで奉仕のこともあるが、さしてすることもなく過ごす場合もあった。逆に子どもは、教会学校が終わると「大人の礼拝」の間は、することがない。家に帰るというわけにもゆかないのが普通なので、こうして親子は日曜日の朝はけっこう疲れることになる。さらに午後も親が何かで教会に残れば、子どもの一日は教会にただいる、というようなことにもなる。
それで、ある教会で提言して、親子で10:30スタートという方法をとることにした。「大人の礼拝」は、大人も子どもも共にいる形で始まる。そして「説教」が始まるときに、子どもたちは促されて別室に移動し、「説教」などが終わって後にまた戻り、共に祝祷を受ける、というスタイルをとることにしたのだ。「説教」の前に、「子ども説教」という形で、教会学校の担当者が、5分間を目処に、子どもたちに対して、だが大人に向かっても同時に語る機会も設けられた。案外、大人にとっても、この「分かりやすい」聖書の話は好評だった。
子どもたちは別室で、教会学校の教師が、教会学校を司る。否、そこは「子どもの礼拝」という位置づけだった。教師は、司式者であり、説教者であった。最初から最後まで、「礼拝」をするというスタンスに徹していた。とはいえ、堅苦しくないあり方で、独自の教材をつくり、ワーク活動、クイズ、ゲームや工作に励むというのも楽しかった。私はいろいろあって、その礼拝の殆どを担当するという場合もあったし、別の教会でも同様の流れを作ったときには、何人かでローテーションを組んで担当した。このときには、礼拝の録音CDをもらうという形で、「大人の礼拝」のことも知ることができるようにした。
それにしても、教会学校の子どもたちは様変わりした。私も知らない古は、子どもたちが押し寄せるように教会に来ていた時代もあったと聞いたこともある。私自身は生徒の立場で教会にいたことはないので、生徒の気持ちは体験的には分からない。洗礼を受けてわりとすぐに教会学校の教師を勧められる、というのはよくあるようだが、その頃は、小学校も上級と下級とに分かれて実施されていた。
だが、だんだんそうはゆかなくなる。子どもたちの人数が少なくなるからだ。私の子が必ずいたから、ゼロになることは殆どなかったが、一人となることも多くなってゆく。この、子どものための「礼拝」という捉え方は、私は本当に大切なことだと考えている。中には、子どものために何か笑わせる芸をするのがよいと考える大人がいる教会もあったし、とにかくただ怪我がないように遊ばせておくだけ、という教会もあった。でも、そこは遊び場でも娯楽施設でもないし、そして学校でもない。決して静寂でなくてもよいが、そこは子どもが主役の「礼拝」の時空でありたいと願うのだ。
特別な印象を与える教会が、ひとつだけあった。里帰りなどで年に一度くらいしか参加しない礼拝なのだが、そこは、会堂の後方が畳や座布団があったと思う(記憶違いだったらごめんなさい)。とにかく、小さな子どもが自由にそこで遊んでいるのだ。一定の区画から出なければ、何をしてもよい。走り回っていても構わないし、声も出るだろう。そして、そこと礼拝の会堂との間には、壁もなければガラスもない。全くの同じ空間なのである。子どもが一緒にいる礼拝、という位置づけだったかと思うが、子どもを全く排除しないあり方は、先ほど最初に挙げた、神聖で静かな空間、というものとは対極にあるものだった。むしろ大人は、子どもの声に意識までかき消されないように、真剣に説教に集中していたのも事実だったから、誰も子どもを邪魔者扱いはしない。極端かもしれないが、老若男女共に神を礼拝することの実現であったと言えるのかもしれない。
余談だが、具合の悪くなった方や、疾病や傷害のために、ガラス張りの部屋からベッドに横たわって礼拝の様子を見つめることを可能にしている教会もあった。自分が迷惑をかけるのではないか、という懸念を払拭するためには、よいことだろうと思った。また、小さな子どもを抱えている、特にママが、子どもが騒ぐといけないから教会に行きたいけれど行けない、という悩みも少なからずあったはずだ。ただでさえ子育てで悩み沈むことの多いママさんを、教会が迎えるどころか、いっそう苦しめていることが現実にあったことを思い起こす。いまでもそういうことがあるだろうか。初めて教会に行きたいと思うママさんにとり、教会はいまなお激しく「敷居が高い」のであろうか。
さて、本日の説教について殆ど触れないままにこれほどお喋りをしてしまったことを申し訳なく思う。説教者はもちろん沢山の指摘をしていたが、それを一つひとつ掘り起こすことはできない。また、する必要もないだろう。あくまでもこれはレスポンスであるのだから。
人々が、イエスに触れてもらおうとして――祝福のことか――、子どもたちを連れてきた。すると、「弟子たちはこの人々を叱った」という。この「人々を」は、「彼らを」としか書かれていないので、親を叱ったのか子どもたちを叱ったのか、曖昧である。しかし、「イエスはこれを見て憤」ったのであった。
説教者は、弟子たちが「叱った」のと、イエスが「憤った」のとを対比させる。弟子たちは、親か子どもたちかは知らないが、叱り飛ばしたのである。説教者はこれを、「イエスの権威で子を追い出した」という扱いだとした。しかしイエスが「憤った」のは、確かに憤慨ではあるのだが、どこか悲しみの感覚が伴っている、とも言われる。熱血教師が生徒を叱りながら涙を流しているようなドラマが、昔あったと思う。
ところで旧約聖書からも一箇所を引くように当教会は決めているが、今日は詩編8編全体が読まれていた。ダビデの短い詩である。ここに小さな子どもたちが登場する。
主よ、我らの主よ/御名は全地でいかに力強いことか。/あなたは天上の威厳をこの地上に置き
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。/敵対する者に備え/敵と報復する者を鎮めるために。(詩編8:2-3)
これを、同じ日本聖書協会の以前の訳と比較してみよう。
主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。(新共同訳)
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、/いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
みどりごと、ちのみごとの口によって、/ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、/あだに備えて、とりでを設けられました。(口語訳)
ついでに、新改訳聖書2017も並べてみる。
主よ 私たちの主よ/あなたの御名は全地にわたり/なんと力に満ちていることでしょう。/あなたのご威光は天でたたえられています。
幼子たち/乳飲み子たちの口を通して/あなたは御力を打ち立てられました。/あなたに敵対する者に応えるため/復讐する敵を鎮めるために。(新改訳2017)
それぞれ言葉のかかり具合が微妙に異なり、与える印象が変わってくるように感じられる。説教者は、聖書協会共同訳が、弱い者の口によって砦を築く、というストレートなつながりに注目した。この「砦」という語は、新改訳2017が訳出しているように、「力」という意味をもっている。力や強さが、弱い者たちから生まれる、という図式を、説教者は指摘した。それは、価値観を引っ繰り返すものである。
「砦」は、「城壁」ではない。「城壁」は、イスラエルの都市の多くがそうであったように、外部からの攻撃から内部を護る働きがある。またそれは、外と内とを隔てるものでもある。あまりに長くなるので詳述はしないが、最近、映画「急に具合が悪くなる」を観た。福岡の哲学者と人類学者との往復書簡からなる本からインスパイアされた形で映画が制作されたのだが、二人の主人公が、カンヌ映画祭の最優秀女優賞をダブル受賞したことでも知られた映画だ。ステージ4の癌患者との対話に満ちた本であり、映画である。そこには――私の印象だが――隔ての壁を人間がますます強固にしてゆくこの時代ではあるが、壁を破り、外も内もいわばまぜこぜになるような新しい時代に希望をもつべきではないか、というメッセージがあったように感じられた。そして、生と死との間にも、もはや壁がないかのように描かれていたということに、後から気づかされたのであった。
説教者は、普段はあまりないことだと断りながら、政治的な問題を口にした。もちろんどの党がどうとか制作がどうとかいう価値観を持ち出したわけではない。ただ、いま日本が、重大な「転換点」を迎えている、ということを指摘したのだ。
あなたの指の業である天を/あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。(詩編8:4)
もちろん、思っているのはダビデである。けれどもかの弱い存在が、神にとり強さに帰られて、天体を見上げている風景も悪くない。説教者はそこから、夜空を見上げている自分を、神がまた見ていてくださることを確信して告げた。神の国がそこにつくられる。あるいは、現れる。そこで、マルコ伝のイエスの言葉がそこに結びついてくる。
イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14-15)
それにしても、子どもを大切にしてきた、これまでの人間の歴史は、これからどこへ行こうとしているのだろう。そして、教会の歴史に於いても、子どもはどうなってゆくのだろう。先ほどの映画「急に具合が悪くなる」の中で、妻がうっかり寝そうになったシーンがあった。中盤だったか、資本主義が人間の中核を閉鎖的にしてゆき、ますますそれが閉ざされてゆくことを、まるで講義のように語るのである。何も資本主義を非難する趣旨ではないのだが、それが必然的に少子化へ向かう過程と、そこに分断と戦争が起こってゆく論理とが、かなり長い時間をかけて語られていた。私は思わず身を乗り出してそれを聴いていた。
福岡の、大学で哲学を教えていた宮野真生子さんのことを描いた映画ではない。だが、九鬼周造を愛し、九鬼の真骨頂である「偶然性の問題」を自分の最後の思索のテーマにも絡めて論じていた書簡の中に秘められた力を、社会的に論じようとしたのは、映画制作者の意図だったのだろうか。本にも「神」は登場しないが、その病気が「急に具合が悪くなる」と拙いという原作のモチーフが、映画では、この世界が平然と昨日と同じように続いているかのように見えながら、「急に具合が悪くなる」ことがあり得るのであり、それが起こってからではもう引き返しようがない、ということが、私には強く伝わってくるような気がしてならなかった。
説教者は、子どもが邪魔者であるかのように潜在的にでも見られている現代社会への警鐘も鳴らしていたように思う。この世の国は、子どもたちを大切にしていない。それは、未来を大切にしていない、ということに他ならない。危機感を口先だけのものにしている間に、急に子どもがいなくなるかもしれないのに。この世の国は、消える運命にあるのかもしれない。だが、オルタナティブな道がないわけではない。それが神の国だ。
知識だけに由らない。権力や能力で支配されるのではない。「子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された」イエスの腕の中の子どもたちへの祝福を、私たち大人が裏切ってはいないだろうか。そのイエスの掌には、いま私たちの目には、釘打たれた痕が見えているはずではないか。効率のために叱りつけた弟子たちの姿に、自分を重ねて見ることだけでも、私たちはまだ変わることができるように思われる。そう、「効率のために叱りつける」ということを、私もまた職場でやってしまっているのだった。