ルオーの透過光

2026年6月29日

2026年6月21日朝の「日曜美術館」で、福岡伸一氏が、ルオーの絵について語っていたことが忘れられない。それは、ルオーが透過光を意識していた、ということ。
 
「反射光」と「透過光」とは違う。スタジオにモルフォチョウの標本を持ち込み、光を反射して美しくブルーに輝く様子を見せた後、場を暗くしてチョウの羽の裏から光を当てて「透過光」で見ると、羽はくすんだ茶色にしか見えないのだった。生物学者である福岡氏の真骨頂であったのかもしれないが、これを軸に説明をするのには、実に説得力があった。
 
これは、ステンドグラスにも適用されている。今度はモルフォチョウとは逆の効果である。ガラスそのものは地味な色であるが、光が透過してくるとき、それは鮮やかな色に変わり、ときに反射光とは全く違う色合いに見えるのである。
 
画家は通常、「反射光」に基づいて描いている。だがルオーの描く色は違うのだ、という解説だった。よそからの光が跳ね返るのではない。光がその中を貫いている構造があり、恰もその対象地震が輝いているかのような効果を、その絵画は現しているのだった。
 
キリストは、ご存じの通り「光」というメタファーをもっている。まことの光として、私たちを照らすものと言われている(ヨハネ1:9)。神が光である(ヨハネ一1:5)。キリスト者は、愛ある限り、光の中にいる(ヨハネ一2:10)。
 
しかし、人の内に光があるかどうかが問われているケースもある(ヨハネ11:10)。私たちの中にある光が消えたら暗闇である(マタイ6:23)と言う。キリストの弟子はすでに光となっており、光の子として歩むのだ、とも言われている(エフェソ5:8)。
 
キリスト者は、神からの光を反射もするだろう。そのとき、私たちがどのような色に見えているかというと、神の光に応じた反射光を示しているのであり、私たちを見る人が、光の源である神へと導かれることを願うばかりである。もし私たちが何らかの色に見え、輝きをも呈しているのだとしたら、その光は神からのものである、と知って欲しいと思う。
 
だが、さらに私という土の器の中にある宝(コリント二4:7)が輝いて見えるのであれば、それは内にある光という構造を示しているのかもしれない。聖書は一面では、内に光がある、ということをも確かに告げていたからだ。
 
モルフォチョウのように、反射光の方が遥かに美しい、という場合もあれば、ステンドグラスのように、透過光の方が遥かに美しい、という場合もあるだろう。どちらが優れているか、など考えなくてもよいかと思う。いずれにしても、生身の人間には、そもそも光がないのだ。神が光である。ただ、その輝き方も一様であるのではない、ということを、ルオーについての解説から学んだことは、とてもうれしいと思えた。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります