弁当配達のざわざわ
2026年6月27日

安息日という言葉は面白い。聖書の発行所により、読み方が異なる。「あんそくび」「あんそくにち」「あんそくじつ」と見事に違う。
映画「炎のランナー」は、その安息日への忠誠を、オリンピック競技にまで適用し、国家的な蔑視まで集めたエリック・リデルの物語であった。
安息日がなかなか尊重されないこの日本の環境だが、よくぞクリスチャンの皆さまは、日曜日の時間を勝ち取って、日曜日の朝の礼拝に集うものだと、考えてみれば驚くばかりである。もちろんその中に自分も含まれているわけだが。
それを休日とすることができる人にとっては、それが当たり前のように感じているかもしれないし、牧師の側も、当たり前のように信徒が礼拝に集まることに慣れてしまっていることがあるかもしれない。しかし、その背後に血涙を流している人がいることを想像していなければならないように思う。
他方、日曜日に勤務する人たちがいることに対しても、何か痛みを覚えるかどうか、自分の中に問い続けていたい、とも思う。
教会に行くときに、バスや電車を使う。中にはタクシーで来る人もいる。そうやって働く人がいなければ、自分は教会にも行けない。社会の安全を見張っている警官がいるし、事があれば出動する構えで待機する消防や救急の人もいる。もちろん、疾病者のための医療従事者がいることには、ただ感謝するしかない、という気持ちも忘れてはならない。
礼拝後、昼食を共にする教会も多い。担当者が礼拝中につくるという制度の教会もあった。それも問題がないわけではないが、高齢化と、やはり負担が大きいせいもあって、「外注」というのも変だが、弁当店に注文することが多くなった。けっこうな数になるので、配達してくれていた。礼拝の終わる時刻頃に届けてもらうのだが、教会学校の担当をすることの多かった私は、それを受け取る位置にいることが少なからずあったが、いつも心がざわざわしていた。
かと言って、たとえ国単位でキリスト教が中心となっても、日曜日は一切営業を禁ずる、という制度がよいのかどうか、現代では賛同されることはないだろう。ピューリタンの時代に、そうなっていたこともあったというのは、過去の話だ。
礼拝後、買い出しに行く必要がある。それが当たり前だと考えている自分がいる。いつの間にか、心が歪められてゆくことは本当だと思う。人間は、とても「自分は正しい」などとは言い切れない。誰もがそう考える世界でありたいと密かに思う。その思いが「正しい」という思いからも、解放されて。