手話との出会い
2026年6月23日

あるきっかけで、ライシャワー学園という学校があることを知った。聴覚障害の子どもたちのためのものだが、手話を主体としているのではないという。口話教育というと、手話を使うろう者にとっては嫌な思いを伴うものだが、当然、聴覚障害者のすべてが手話を使うわけではない。その人の聴覚の問題もあるし、取り巻く環境というものもある。手話を使うろう者にとっては、手話が文化を形成し、いまや手話はひとつの言語であるとして社会的認知を受けるようになっているが、そうでない人もいる。
調べていると、福岡にもライシャワー学園のような、福岡聴覚特別支援学校があることが分かった。「新開学園」という名前が挙がってきた。思い出した。高校のとき、訪ねたことがある。
その頃、青少年赤十字というクラブがあって、私はそこに属していた。姉がそうした活動をしていて、その活動についていくことがあったため、高校でそれができると分かり、入ったのだ。殆ど部員もいない活動だったが、いい先輩に会えて、自閉症の子どもの集いや、その「新開学園」に連れて行ってもらった。
私はまだ、クリスチャンではなかった。いまにして思えば、いろいろな出会いを経験させてもらっていたことになるだろう。こうしたゲストは大抵歓迎してもらえる。子どもたち――とはいえそのときの自分とさして年齢差はないのだが――の、積極的な態度と笑顔が印象的だった。わずかでも、コミュニケーションはとれたのではなかっただろうか。
しかし、その後聴覚障害の人との出会いは特になかったので、そのこともすっかり忘れていた。京都に行ってクリスチャンとなり、結婚して、同じくクリスチャンの妻がテレビドラマで手話に興味をもっていたことは分かっていた。だがそれが自分と実際に関わりがあるとは思ってもみなかった。ただ、妻は、手話には興味があったのは間違いない。
福岡に戻り、幾つかの教会を経験した。京都で与えられた信仰とはだいぶん違う教会の雰囲気に戸惑ったが、自分の中での信仰に変わりはないつもりだった。ただ、招いた「牧師」に普通の「信仰」がなかったことなどで、別の教会が、ある機会で見出された。
そこに、ろう者夫妻がいた。また、家が遠いために来る機会はやや少なかったが、ほかにもろう者夫妻がいて、教会には「手話通訳者」がいた。妻はその姿に目を輝かせていた。手話講座をしましょう、というその通訳者誘いに妻は二つ返事で喜び、私も同席することとなった。自分には無理だと分かっていたが、いざ手を動かしてみると、そこそこ動いたし、なにより優しいろう者が励ましてくれたし、実際に通じるかどうかという点で教えてもらえたのは大きかった。いわばネイティブに英語を習うようなものであった。
妻は忠実だった。学んだことをノートにとり、家でも手を動かす練習を始めた。妻はめきめき上達した。そして、実際の礼拝で手話通訳を試みることとなったが、初めてとは思えないほど、伝えることができていた。聞いた単語をそのまま手などの動きに置き換えるのではなくて、意味を考えて伝えるという方針だったから、説教の中の福音を受け取る限りは、如何様にも伝えることができたのかもしれない。
そう。手話がしたかったのではない。手話を通じて、福音を伝えたかったのである。その教会では、福音が語られていたから、妻は喜んで伝え続けた。先の手話通訳者に匹敵するくらいの仕事ができるようになった。因みに、私も担当することがあった。最初はもう論外だった。それでも私も、伝えるのは福音だというエッセンスを心に懐くことで、役割があると考えた。手の動きは妻のようには速くできなかったし、下手の極みであったが、妻以上に、伝えるべき聖書の要点を確実に押さえるように工夫することはあった。よくぞ我慢してくれたものだと恥ずかしいことこの上ないのではあるが。
しかし、やがて教会の中に、悪魔が働くようになった。信仰というものがなく、自分の罪も分からないような自己愛者(そのツイッターは保管してあり、もしご覧戴ければこれが私の偏見でないことはどなたもご理解戴けよう)が、総会の場で、牧師のスキャンダルを醜い言葉で攻撃し始めたのだ。そのとき、妻が手話通訳を担当していた。あまりに酷い有様だったのだが、通訳者はそれを伝える義務がある。福音を伝えたい一心の妻の心は、この通訳でずたずたに傷ついた。
その日は、逃げるように教会を出て、もう二度とそこへは戻らなくなった。
息子のためもあり、音楽に目覚めた息子にもとてもよい教会と、ちょっとしたつながりがあったことで、その教会に出るようになった。けっこうリベラルだったが、音楽的にはとてもよかった。妻は、前の教会に残してきたろう者のことを気にかけてはいたが、さしあたりモダンな賛美を手話付きで賛美することで、手話そのものは学び続けていた。
あるとき、前の教会のろう者が、その教会を訪ねてきた。その方は、音楽が好きだった。補聴器で幾らか響くサウンドで、手話賛美をとても愛する方だったので、その教会のモダンな賛美をたいそう喜んだ。もちろん、妻が礼拝全般を通訳することで、水を得た魚のようになった。その方もやがて完全にその教会に移った。妻の通訳は、ますます腕を上げたと言える。
やがて、コロナ禍となり、リモートの礼拝となると、手話で説教を伝えることができなくなった。ようやく非常事態宣言が解除され、シールドなどを工夫して手話通訳をするようになったが、そこへゲストとして呼ばれた講師が、そうした通訳の姿勢を理解するつもりはなかった。そしてその弟子たる若い牧師も、師の方に立って、通訳者の立場を蔑ろにしたことで、妻の心はまた傷ついた。この件は、これ以上具体的にはお話しできないことをお許し戴きたい。
だが、その牧師その人は、実は福音を語るという点ではまだよかったし、妻も好きだった。ところが、教会のもう一人の主任牧師がひょんなことから辞めたこともあって、教会の重鎮を中心とする辺りから、若いその牧師が気に入らない雰囲気が形になってきて、ついにその牧師も他の教会を探して遠方に移ることとなった。
代わりに、緩い神学校を卒業した「牧師」が迎えられた。経験もないのに、いきなり主任牧師である。コロナ禍は、だいぶ落ち着き、会堂に集うことが容易になってきていたので、妻は手話通訳を再び始めていた。そして新しい「牧師」の説教を通訳したのだが、私も妻も呆れてしまった。とても説教と言えるものではなく、聞くに堪えない内容だった。また、人格的にも敬えないような言動が目立った。
第一、救いの証しが全く出てこない。私はその人の「証し」をウェブサイトで知ったが、案の定、とても証しなどとは言えないもので、罪も救いも何も出て来ない。少年時に、少年院に行った友だちと盗みを働いたなどというエピソードを言いながら、罪という言葉が全く出てこない「証し」なのだ。また、家が極貧だと言いながら数年後にアメリカの私立大学に留学して卒業するなど不自然なのに、その説明すらない。もちろん牧師になった理由も奇妙であるし、身内の献身者に反対されたと言いながら、自分はどうしても牧師になると、居心地の悪い会社を突然辞めている(その音声があるのでお聞きになればどなたも確認できるだろう)。語る内容がお粗末なのは、こうしたためだと合点がいった。
私はその「牧師」の受け容れに反対票を投じた。だが、教会の主立った人が招聘したということで、反対する人は他にいなかった。緩いというのは、信仰に於いても緩かったようで、福音とは何か、ということが信徒にも理解されていなかったのかもしれない。
福音を伝えたいという妻の思いはまたも砕かれた。手を動かしていても、せいぜい聖書講演会のようなものであったら、空しさしか出てこない。せっかく音楽好きなあのろう者には申し訳ないことこの上なかったが、もう手話通訳をする意味がなくなってしまった。
そのようなことを綴って――もちろん固有名詞は出しはしなかったが――、ウェブサイトに公開していたら、ある方が声をかけてくださった。礼拝で困っているのであったら、一度リモートに参加してみませんか、と。その方は、私の尊敬している、すばらしい説教者であった。福音の説教とは何か、について真摯に追究しておられ、命のある説教を語っていることは存じ上げていた。天にも昇る心地であった。
命注がれる説教に触れて、私たちは生き返った。ただ、妻は手話通訳ができなくなって、それだけは悲しい気持ちを懐いていたと思う。それでも、買物に出たときに、あのろう者夫妻に偶然に出会うということが何度かあり、前の教会の様子や最近の情況などを、話す機会があったのは幸いだった。時には、スーパーの片隅で、手話で長い時間立ち話をすることもあり、周囲の人はどう見ていただろうか。迷惑だったかもしれない、とは思うが、特に妻にとっては貴重な時間だった。
ご夫妻には、手話を通じて、ろう文化をたくさん教えて戴いた。まずお借りした漫画『わが指のオーケストラ』が私たちの意識を変え、ろう者の立場や文化を知るきっかけとなった。手話は言語であり、文化をもつものだ、という前提に立って考える基盤ができた。ろう者の日常生活や社会生活での考え方や見え方などを、少しでも理解することができたとしたら、すべてそのお陰である。
手話による礼拝本位の教会もある。また、ろう者のクリスチャンの割合は、聴者のそれよりも遥かに高いことも知っている。その信仰は、とても真っ直ぐであることが多く、学ぶことが多い。妻の手話とて、とても日本手話に匹敵はしないが、日本語対応手話を僅かにでも踏み出せていれば、あとは伝えたいのが福音である、というベースで、意義ある思いではないか、と考えている。
いまはそれを実際に使える環境にはない。そればかりか、思わぬ怪我を妻が負ってしまい、手話そのものをするのはいまはとても難しい情況に陥ってしまった。こういった中ではあるが、手話や聴覚障害者のことを理解して戴けるような発言や動きが、幾らかでもできたら、と願っている。