神が結び合わせたもの

2026年6月22日

10年前でもどうだっただろう。四半世紀前ならなおさらだ。マルコ10:1-12からのメッセージだと、結婚以外の話題が持ち上がるはずがなかった。だが今日の説教は新しかった。これは結婚した人だけのためのメッセージではないという。結婚が、唯一の生き方ではない、という観点からである。
 
この箇所は、ファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁する」ことについて、イエスに尋ねる場面から始まった。これは「イエスを試そうとした」のだ、と記者は背景を明らかにする。イエスは逆に、モーセの律法について訪ねる。イエスにとって、律法は大切な基準であることが分かる。
 
ファリサイ派の方でも、いくつかの解釈があったと説教者は知らせた。中にはとびきり男優先の理解もあったというが、ただでさえ「夫が妻を離縁する」という言い方をして対話がスタートしている故に、ずいぶんと偏った話ではある。尤も、それを言い始めると、聖書の中の記事の傾斜は果てしないものといえるのであろうが。
 
説教は、この解釈を巡って展開するのではなかった。端的に言えば、私たちがどのような「正義の基準」をもっているか、ということに目を向けるようにすることだった。
 
眼差しは、創世記に向かう。そこに男と女、つまりこのイエスとファリサイ派の議論のルーツがどこにあるか、というところに注目するのである。1章と2章との創造物語の相違がしばしば問題となるが、この説教に於いては全く気にしない。そんな問題があることにすら触れなかった。説教というものは、本来それでよいのではないか。問題は、私たちがそこから神の声をどのように聴くか、というところにあるのだ。私たちがそうしていまどのようにして神を礼拝するか、ということこそが大切であり、私たちの信仰と行いが強められることこそが主眼であるに違いない。私たちが、どう変わるのか。礼拝説教の力の行き先は、そこにこそあるのではないだろうか。
 
開かれた創世記は、2:18-24であった。イエスの問答のためにはそれでよかった。だが、その周辺のことをも説教者は網羅して、ここでの問題の背景に触れる。「どこにいるのか」と問われたアダムは、責任をエバになすりつけようとしたわけだが、人類最初の夫婦喧嘩だと称したのには、クスッと思わず笑ってしまった。
 
ところでこれは説教の最初の方のことであるが、説教者は結婚が人生に必需なものだ、という見解は表にしなかった。聖書の時代ならそうだっただろう。だから子を産めない女の苦しみが、聖書の随所に刻まれているし、逆に子を産んだ喜びというものがどれほどのものかが、あちこちから伝わってくる。
 
パウロ自身、結婚しない人生を選ぶことの意義を語っている、という紹介もあった。ただ、それはパウロが終末を今か今かと待っている心理が加わっているために、それを基準に司祭の独身性を決めてよいのかどうか、そこはまたひとつの解釈に基づく、と言わねばならないだろう。すでに結婚した人が司祭になる場合は、結婚している司祭が存在することになるなど、制度として厄介な事態を招くような気もする。
 
現在社会的に問題となる結婚は、ほぼ法的な問題ではないだろうか。同性婚が認められないとするのは、憲法の表現を巡ってでもあるが、感情的なもの、生物学的な理由などから、それは法的に認容できないということを意味する。パートナーとして、居住の権利や医療や相続など、生活行為に於いて結婚という形で許可できない、そこに論点が集まっている。そうなると、「結婚」という制度とは何か、ということが、単なる思い込みでなく、人が共に生きることに寄せて考えてゆく可能性を、私たちが問う必要があるのではないかと思われる。
 
少なくとも、同性でパートナー関係を結ぶことは、つい半世紀前までは世界の常識として、犯罪扱いをされていたのだ。名だたる芸術家も迫害されたし、そうやって囚人となったり死を選ばざるを得なかったりした人は無数にある。そして、そのような社会制度、あるいは社会道徳を生んだのが、ほかならぬキリスト教であったことを、キリスト者は忘れてはならない。聖書に基づき、神の言葉に反しているのだからと、そうした人々を迫害してきたのは、正に自分の信仰の先人たちであったのだ。それを忘れて、さも今風の自分たち教会は、あなたたちの見方ですよ、などとニコニコと笑いかけるような態度を平気でとっている教会関係者の、なんと多いことか。
 
今日の説教のテーマである「正義の基準」が自分にあって、だから自分は常に正義である、というすり替えが自由自在にできるような思い違いをしている姿ではないだろうか。
 
だから、まずは悔い改めなければならないと私は常々思っている。悔い改めなしに正義の味方をするのは、完全に欺瞞なのである。
 
教会が教会独自の正義を掲げて、それに反する人々を悪だ罪だ、と断罪してきた歴史を、私たちキリスト者は、自分の問題として受け止めなければならない。
 
結局、結婚がどうの、離婚がどうの、ということについて、イエスは律法に従いつつ、律法を超えた景色を私たちに見せようとしているのではないだろうか。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」ということは、カトリックの強力な原理である。そのために離婚という制度は成立しないし、それをしないままの苦肉の策があるのであろう。そのために国全体がカトリック教会から離れるという大事になったという国王もあった。
 
説教者は、内村鑑三の名を出した。最初の女性とは半年で破局し、次の女性は二年足らずで死別する。三人目の女性は偶発的な結婚だったのか、謎のまま離婚している。四人目の女性が内村の生涯を支え続けたという。無教会主義とはいえ、キリスト者の代表のような人としては、私たちにとり強調しづらい事態である。
 
朝ドラ「風、薫る」は、信仰というものを全く消してしまって看護婦の始まりを描こうとする、とんでもない改変をしてしまったが、二人の主人公はどちらも信仰があったとされ、特に大関和(ちか)は、信仰により看護婦となり、生涯強い信仰を貫いた。和は最初の結婚で酒飲みの夫から二人の子を連れて逃げ出し、つまりは離縁した。その後は、一度揺れ動く気持ちになったことはあったが、結婚はしていない。
 
その「風、薫る」に登場する看護学校長は、矢島楫子である。この矢島については、説教者も触れた。酒乱の夫から逃げた点では和と似ているが、こちらはその後ふらふらと、年下の書生と不倫の末、子を宿し、産む。しかし宣教師にその才覚を認められ、タバコの出火騒ぎでも赦されたこともあって、キリスト教と出会い、強い信仰をもつに至る。女子学院の初代院長となり、女性の地位を高めるためにも尽力した。
 
結婚だけを頭に置いて、この説教が語られたのではなかった。これは、凡ゆる「人間関係」のための話である。だから、誰もが耳を傾ける必要がある。単に制度としての結婚だけの話題であるならば、関係ない人もいるし、反発する人がいるかもしれない。しかし、「人間関係」となれば、凡そ関わらない人はありえない。
 
内村鑑三と矢島楫子の名を出しつつ、それを「愛に破れたキリスト者」だと称し、二人をキリストが支えた、という視点を説教者は描き、伝えたかったものと思われる。私たちはどこからでも、立ち直ることができるし、やり直すことができる。この礼拝からまた自分の生活の領域に戻るときに、もう下を向かないで歩いてほしい、との願いがこめられていたように思う。
 
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というのは、単に結婚制度の中の二人だけに制限しておくのはもったいない。私たちは、キリストとの関係を、神の愛と赦しによって、結びつけられたのではないだろうか。神が結び合わせてくださった、私と神との関係を、人間が勝手に離すようなことはできないのだ。人間の側に正義の基準をつくるくらいならば、聖書から注ぎ込まれる愛の方に、基準を置くべきではないだろうか。
 
とはいえ、私は私で、普通の結婚制度の中で、生活してきた。私は妻にすまないと思うことが限りなくある。どんなに傷つけ、不安にさせ、足を引っ張ってきたか、土下座しても済まないことだと思っている。神の愛は、私にはいつもリアルにそこに見えるものとしてあることを、どう感謝してよいか分からない。私が独りでいるのは良くないと思われたであろう神は、ふさわしい助け手を備えてくださったのだ。



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