【メッセージ】失われたもの
2026年6月21日

(ルカ19:1-10, 創世記46:28-30)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)
◆ザアカイの物語
「ああ、ザアカイね」
少し聖書をご存じの方は、ふむふむと肯くことでしょう。特に、教会学校に携わったことのある方ならば、熟知したエピソードだと思います。子どもたちに話す定番です。子どもたちも、きっと大好きです。誰も傷つかないし、仲間はずれにされていた人がイエスさまとお友だちになるのですから、教育上とても安定した内容だと言えます。
「うん、知ってるよ。その話。ザアカイはがめつかったんだ。ユダヤ人なのにローマ帝国の手先になって、ユダヤ人から金を巻き上げていたんだろ。差別されて気の毒な面もあったが、悔い改めてイエスに救われたわけだ。よかったね。」
確かにそうです。有名な逸話です。でも、本当にそれで済ませてよいのかどうか、今日はいろいろ問いかけてみようかと思います。私自身でもまた、よくよく見れば、何かと疑問が湧いてくるのです。
ザアカイが悔い改めた、というのは確かでしょう。でも、「いつ」悔い改めたのでしょう。何によって、貧しい人々に施しをする決心をしたのでしょうか。
イエスは「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」と、この話をまとめています。「失われたもの」はザアカイのことでしょうか。だとすれば、どういう意味で、ザアカイは「失われたもの」だったのでしょうか。「失われた」というからには、元々所有されていたということなのでしょうか。
ユダヤ人社会から弾き出されていたからでしょうか。ということは、それは律法学者やファリサイ派の人々の目から失われていた、という意味なのでしょうか。イエスはここでも、律法学者やファリサイ派の人々を批判していると言えるのでしょうか。それとも、ただ純粋に、ザアカイは、神の目から外れていて、神から失われていた、と理解した方がよいのでしょうか。
ザアカイの物語は、福音書のエピソードです。必ず、読者に対して何かを教え、読者に何らかの行動を促します。私たちにとって、「失われたもの」と見られるものがあるはずです。それは何のことでしょうか。誰なのでしょうか。たとえばどのような人を想定すると、それに近いのでしょうか。
如何でしょうか。皆さまは、これらの私の疑問に対して、どのような答えを用意してくださいますか。
◆失われたもの
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)
今日は、この言葉にずっと目と心を留めておきたいと願っています。いろいろお喋りはしますが、この一つの言葉の周りをぐるぐる歩いていたいし、この言葉に沈潜して、時を過ごしたいものだ、と思います。
ここに「人の子」という言葉が出てきます。聖書の他ではあまり聞かない言葉だろうと思います。結論から言えば、それは「イエス・キリスト」のことを指します。イエス自らが自分のことを述べるとき、「人の子」という言葉を使うことがあります。神でありながら、人として生まれた、というように捉えるのが単純で一番分かりやすいかと思います。
旧約聖書でも、数百の使用例がありますが、要するに「人間」だという意味で使われている場面が多々あります。が、預言者エゼキエルを神が呼ぶときに、しきりに「人の子」と呼んでいるのが目立ちます。実は、そこに最もこの言葉が数多く使われているのです。
しかし、このイエスの預言が影響を受けているのは、恐らくダニエル書であろうと思われます。使用例はごく僅かですが、有名で、印象的な箇所があります。
私は夜の幻を見ていた。/見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。(ダニエル7:13)
イエスの死刑を決定づけた、イエスの発言に使われた言葉がここにあります。終末にイエスが再び世に来るときの光景を描写しているものと思われますが、さて、どうしてイエスは「人の子」という言葉を自称に用いたのか、多くの研究があります。
ひとつには、ローマ皇帝が「神の子」と呼ばせていたようなこととの関連があるのではないか、という声もあります。しかし、いまはそうした研究調査をしているわけではありません。問題は、この「人の子」イエスが、どうして「失われたものを捜して救う」と言っているのでしょうか。
ザアカイの話はルカ伝特有の逸話ですが、同じルカ伝には、失われたものが見出されたという独特の逸話がいくつか載せられている特徴があります。
それが集中している15章を、やはり見ておかなくてはならないでしょう。それは、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」が、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言ったときのことでした。イエスは、「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩」くものだ、と言い、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」と断言したのです。羊が悔い改めたという描写はないのですが、要するにそういうことを含んでいるわけです。
続けて、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、灯をつけ、家を掃き、見つけるまで念入りに捜」すものだ、と言っています。これについても、「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある」とまとめています。銀貨が悔い改めることはないでしょうが、これも要するにそういうことです。
そして、いわゆる「放蕩息子のたとえ」が長く展開します。芥川龍之介が、最高の短篇小説だと絶賛したたとえです。文学的にも優れているという話ですが、父親の生前に財産分与を願い出た息子たちの弟の方が、身を持ち崩して、悔い改めて父の許に戻ろうとするストーリーです。これを、今か今かと帰りを待っていた父親の方が弟を見つけて、駆け寄ってきた、というもので、人間では考えられないような場面を描いています。
失われたもの、それは「悔い改めた者」のことに違いありませんでした。
◆居場所
「悔い改める」とは、教会学校では「ごめんなさい」と言うことだ、とよく話します。でもそれだけでは趣を十分には伝えきることができません。言葉のニュアンスとしては、「方向転換をすること」を感じさせるものです。「罪」という言葉が「的外れ」を意味することを鑑みると、外れた的を正しい方向に――つまり神の方向へ――整えることを意味しているように思われます。
失われたものが正しい方向を見出して神の方に戻ること。イエスがこの世に来た目的がそこにある、とルカ伝は強調しています。では、どうして失われたのでしょう。神の方に戻る、と言ったからには、元来神の方にいた、という前提があるものと思われます。元々人間は、神と共にいた。私たちは神の所有の内にあった。そうです。創世記で人が創造されたときには、その通りでありました。
しかし、そこから追放されました。楽園追放の事件も、どう理解すべきか様々な意見がありますが、人は神の支配の行き届いた世界にはいられなくなったのです。人自らが、それに反したからだ、というのが創世記の説明であるように思われます。
人間は、居場所を失いました。人間が「失われたもの」であると言うとき、人間の側からすれば、神を見失い、神と共にいたあの居場所を失ってしまったことになるでしょう。
「居場所」――それが、物理的な場所のほかに、心の拠り所のような意味を含めて使われるようになったのは、いつの頃からでしょうか。研究者は、いまから凡そ半世紀前くらいからではないか、と言っています。
家に自分の居場所がない――ということで、どんな家族を想像しますか。「お父さん」の居場所がない、というと、漫才のネタに使えると思いますが、決して笑えないケースもあることでしょう。それよりも、家に、あるいは教室に、自分の居場所がない子どもについて、深刻な問題がよく挙げられます。犯罪的な事態の中にいる子どももありますが、多感な子ども、自我が目覚める時期に於いて、特殊な家庭でなくても、居場所が問題になることがあろうかと思います。
先月、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』という本を読みました。学校の国語という問題を取り扱いながら、言葉を出せないこと、言葉を与えられないことに、重大な意味を見出すものでした。「引きこもり」ということも、個人的であると共に社会的な問題となっていますが、その背後に、言葉の問題を問う本でした。ゲーム依存の子どもたちもまた、言葉について問題があり、言葉を会得することで改善されてゆく、というレポートもそこにはありました。
言葉が未発達のままでゲームの世界にのめりこんでゆくことで、ゲームの中にしか「居場所」がなくなってゆく様を聞くと、とても怖い気持ちになりました。同時に、とても悲しい気持ちになりました。建物としての「家」が「ハウス」であったとしても、心伴う「ホーム」でなくなる子どもたちは、自分の気持ちや状態を言葉で表現することができません。大人もそれを理解せず、「言いたいことがあったら言え」と迫りがちです。いろいろな意味で言えないからこそ悩んでいるのですから、益々、居場所をなくしてゆくのです。
居場所のない、ふわふわとした若者を狙う悪が、世の中にはあります。そういう者に、騙されて、いいように利用されてしまいます。女の子はその「女」であることを利用され、男の子は、その力を以て、殺人さえ犯す「闇バイト」に利用されることも現に起こっています。
それは、自分が注意しておけば逃れられる、というものではありません。優等生や、大人はえてしてそういう意見を平然と述べるものですが、とても無責任で、当人を苦しめるだけの加害の声となります。先月の強盗殺人事件に利用された高校生たちも、友だちを殺されると脅されて、凶行に手を染める羽目になりました。彼らも、何か言葉という点で不十分な点があったのではないか、と私は推測します。そして、家や学校に、居場所がなかったのではないか、と。
◆教会と居場所
キリスト教会は、何かできないでしょうか。社会でよく用いられるようになった、「居場所」という言葉。教会も、社会的関心事には、遅ればせながらなんとか関心をもとうとします。そこで、「居場所」という言葉を、教会の活動のひとつに出してくれば、外から見られるイメージもよくなり、人を振り向かせることができるのではないか、と考える場合があります。
しかし、それは安易にできるものではありません。世の中に居場所がない、あるいは乏しい人のために活動するのは、教会としても必死の行動となるでしょう。ホームレスの居場所となる覚悟をした教会は、伝道目的ではなく、純粋に命を守るために、費用を献げ、身を粉にして活動しています。ヤクザに伝道し、集める使命をもった教会があります。自殺の名所近くの教会が、そういう狙いで訪れる人を見つけては救い出す、ということもあります。韓国人のための教会も、韓国関係の人はほっとすることでしょう。聾唖教会も各地にあります。聴者に気遣われたり誤解されたりすることなく、聾者同士で安心できる礼拝をもつものなのでしょう。
教会が、人の居場所になるといい。それは本当の気持ちだろうと思います。けれども、それを口に出して言えるのは、自分が教会に居場所をもっている、と思っている、ある意味で幸せな人なのではないでしょうか。
あるいはまた、教会にしっかりと居場所を陣取っていながらも、聖書も知らず自分中心で、わがまま放題の人も、実際いますから、安易に「居場所」という言葉を掲げて気楽にしていてよいのかどうか、それもよく分かりません。
社会がもちあげる流行の言葉を使えば、自分が善いことをしているような錯覚に陥ります。「居場所」とか「寄り添う」とか言う言葉は、教会の活動方針に取り上げたい誘惑に駆られますが、自分だけいい気になっている、という場合も少なくありません。おめでたいものですが、私はお気楽にそういう聞こえのいい言葉を安易に掲げる「善良」なことには、極めて懐疑的です。自己満足な善良ぶりの中に潜む偽りを、社会はちゃんと見抜いていると思うのです。
教会は、世の中の殆どすべての人にとって、「居場所」には決して見えないのです。よほど特殊な問題を抱えるようなことでもなければ、その中に足を踏み入れようとも思わないわけで、だからそこが自分の「居場所」だ、というような風に感じるどころの段階ですらないのだ、とさえ思うのです。
◆ザアカイの居場所
ザアカイの場面に戻りましょう。これはルカ伝だけが採用しているエピソードです。きっと「失われたもの」というテーマに相応しい題材だったのでしょう。子どもたちにも、とてもウケる話です。「背が低かった」ことや、コミカルな動きで、紙芝居や絵本でもなかなか魅力的です。教会学校の恰好の素材ですし、教会学校の教師を長く担当していれば、話したことは一度や二度ではないでしょう。きっと筋書きも覚えています。すいすいといつでも話せるかもしれません。教訓だって、子どもたちに熱く語ることができるに違いありません。
でも待てよ。ザアカイも「居場所」がなかったようですね。社会的地位はあったし、収入もありました。「徴税人の頭」でした。ローマ帝国の役人です。必要額以上の手数料が、いわば給料になります。ユダヤ人からすれば、ローマの犬です。憎まれていました。人間として信用されませんでした。差別されていました。この後、「罪深い男」と呼ばれます。誰もが認める「罪人」でした。
徴税人になることは、ユダヤ人として生きてゆくことを棄てたようなものでした。ただ、そういう生活に慣れてしまえば、それはそれで人生です。私たちもそうではありませんか。最初は良心が痛んでも、慣れてくれば、当たり前のように続けることができます。それが当然のアイデンティティにまでなると、日常となり、正義となります。えてして自己義認によって、人は自分を正しいものと見なすことになります。
そのザアカイが、イエスという人が来る、という話を聞いて、ときめきました。しかし、「イエスがどんな人か見ようとした」だけでは、イエスに対する関心の度合いは測れません。「背が低かった」というのが、ザアカイという人間の小ささを示そうとしているのか、それも分かりません。ただ、人混みの中ではイエスが見えませんから、この後木の上に登った理由にはなります。
ザアカイは、人だかりのところを目指さず、行く手に「先回り」しました。人がいないうちに、木に登っておきます。登った木は「いちじく桑」だとされますが、聖書に出てくる植物は、私たちの感覚と同じかどうかよく分からないことが多いのです。けっこうな高さになる木らしいので、場面に不自然さはありません。
イエスは、木の上のザアカイを見つけます。このとき、ザアカイの位置が高く、イエスは見上げなければならなかった点が、よく注目されます。
5:イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」
6:ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
イエスが何故ザアカイの名を知っていたのか。イエスは最初からザアカイの家に泊まる計画をしていたというのか。この様子を知った周りの人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と呟きます。
ここでザアカイは立ち上がります。それまで座っていたとは限りません。立ち上がるというのは、行動を始めることを意味します。「金持ちであった」ザアカイが、財産の半分を施し、不正な収入は四倍にして返す、とたちどころにイエスに誓います。
ルカ伝の著者は、「罪」と「悔い改め」、という救いの要素を外すことがありません。ザアカイの場合、罪人であるということで、罪の条件は果たしています。問題は、悔い改めです。
いったい、ザアカイは、いつそれを決心したのでしょう。イエスをどうしても見ようとした、その前でしょうか。それとも、イエスに自分の名を呼ばれたときでしょうか。私は、呼ばれたときなのかな、と想像します。しかし、「あなたの家に泊まる」というイエスの言葉を聞いた瞬間であるかもしれない、とも思います。
◆イエスの居場所
ザアカイは、ユダヤ人社会の中に、自分の居場所がありませんでした。人間は、何らかの職を得て、生活の糧を得てゆかなくてはなりません。ザアカイの居場所は、自分の住まいの他にはなくなってしまっていたと言えるでしょう。そのザアカイの家に、イエスが泊まると突然告げました。ザアカイの居場所に、イエスが入ってきて留まるというのです。
ザアカイは、自分の財産について、思い切った振る舞いをイエスに誓います。財産をすべて献げよ、とイエスが金持ちの若者に言ったのに比べて、「半分」とは生温い、などと冷笑する人がいるかもしれませんが、ではあなたはいま教会で感動したからといって、財産の半分を差し出すことができますか、と尋ねてみたいと思います。気の毒な人を援助しようとして、財産の半分を差し出したことのある人は、きっと稀でしょう。私なら、口が裂けても言えないでしょう。
ところで、イエスに居場所があるとすれば、どこでしょう。生まれ落ちたときも、まともな宿に両親は入れてもらえませんでした。人の子は枕するところもありませんでした。この地上には、イエスは居場所がありませんでした。
ヘブライ書には、信仰者の列伝と称される、旧約の人々の紹介がなされていますが、旧約の信仰者たちにとり、「世は、彼らにふさわしくなかったのです」(ヘブライ11:38)とも言われています。ましてイエスは、この世が似つかわしいはずがありませんでした。人々を癒やし、救いの言葉を伝え続けていたにも拘わらず、憎まれて人間の掟によって殺されたのです。
しかし、天には、イエスの居場所があります。父の許、と言えるかもしれませんが、「神の国」と称してもよいのではないかと思います。私たちも招かれるであろう、「天の都」を考えてもよいかもしれません。
ザアカイの居場所にイエスが泊まる。すると、そこはイエスの居場所にもなりますから、小さな神の国が建てられることになるでしょう。イエスを招き、イエスを迎え入れたとき、そこがイエスの居場所であるとするなら、ザアカイはイエスの居場所に招き入れられたことになる、と考えてはいけないでしょうか。
神の国が来るのです。イエスを招くところに、妨げとなるものがあってはなりません。ザアカイは、財産を献げることで、風通しのよい家にしました。ザアカイは、悔い改めを示すことで、神との間に関係が築かれました。
アウグスティヌスは、最大の教父と呼ばれ、キリスト教神学の基礎をつくつたと称される、4世紀から5世紀にかけての神学者です。『告白』はプロテスタントの人もぜひ一度は読んでおきたい著作ですが、アウグスティヌスは自分の心の中に神を招き入れようとしたときに、自分本位な欲がそこにひしめいているために、神を招くには狭すぎることを嘆きます。そして神が来てくださるまで、決して満たされず、落ち着かない心が人間にはある、と言いました。(NHKラジオで先月、「アウグスティヌス『告白』と現代:「落ち着かない心」のゆくえ」という講演が放送されていました。カトリックの山本芳久氏が担当していました。)
また、17世紀フランスのプレーズ・パスカルは、自分の中に、底知れぬ空洞があって、そこは神の他には埋めることができない、と言っています。
神が私たちの空しさを満たす。それは、私たちが神の国に招かれることを意味します。だからこそ、ザアカイの悔い改めの言葉に対して、イエスが「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのです。
9:イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10:人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
アブラハムの子、というのはイスラエル民族であることの証しですから、ザアカイがイスラエルに回復されたことをイメージしているのかしら、とは思います。しかし、もはやイスラエル民族に制限されず、きっと神の国の住人であることを「救い」と読んで示したのだろう、と私は見ています。
神の国にいてよいのに、失われていたザアカイ。イエスは、イスラエルの一人としても見出されたことを告げ、イエスがそれを捜していたこと、そして救ったことを掲げます。
ルカ伝には、有名な「放蕩息子のたとえ」というものもあります。もはやその物語を再現することはできませんが、ザアカイは、悔い改めて父の許に戻って来た放蕩息子にも、何か重なって見えてくるような気がしてきます。
◆大団円
創世記に、ヨセフの物語があり、創世記を締め括っています。イエスの父ヨセフのことではありません。アブラハム・イサク・ヤコブと続いた家系の、その次の代です。イスラエルの部族名になったのが、基本的にヤコブの息子たちですから、ヨセフもその一人ということになります。部族名としては、ヨセフの息子のマナセとエフライムの名が残りましたが、このヨセフの運命は、創世記の37章から50章までを堂々と飾りつつ、語られることになります。
端折ってご紹介すると、ヨセフは兄たちに妬まれ、エジプトに連れ去られてしまうことになります。ところが数奇な運命により、ヨセフはエジプトで知恵を発揮し、王に次ぐ地位にまで辿り着きます。そして中東一帯の飢饉を予見し、食糧を備蓄しておきました。
一方、イスラエルの地にいた父ヤコブは、その飢饉に喘ぎ、エジプトに食糧があるという話を聞いて、息子たちを買い出しに向けます。兄たちは、弟ヤコブが目の前にいるとは気づかずに、食糧を欲しいとひれ伏しますが、ヨセフは、そこに自分の腹違いの弟ベニヤミンがいなかったことから、ベニヤミンを呼び寄せるために画策します。
そうこうして、ヤコブは正体を明かし、存命だった父ヤコブをも、食糧豊かなエジプトに呼び寄せるのでした。ヤコブは、死んでいたと思っていた息子ヨセフに会うことができました。
29:ヨセフは車に馬をつないで、父のイスラエルに会いにゴシェンへ上って来た。ヨセフは父に会うなり、その首に抱きつき、その首にすがってしばらく泣いた。
30:イスラエルはヨセフに言った。「これでもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」
人間の情の溢れる大団円がそこにありました。このとき、失われたはずのヨセフがいた、というよりも、ヤコブの方が失われていて、ヨセフに捜し出されたようにも見えます。
ヤコブは、別名をイスラエルといい、イスラエル民族の土台を築いた人物です。このイスラエルを、神は如何に愛してきたか、旧約聖書全体が、それを物語っています。ホセアという預言者は、神が如何に愛しているかを、裏切りの妻を宛がわれることにより、身を以て知ることとなりました。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)
私はしばしば、この「ため」という表現を言い換えて理解しようと努めます。「ため」はもちろん目的を表す言葉ですが、目的を「結果」として読み替えてみるのです。「彼はサッカーをするために学校に行った」ではなくて、「彼は学校に行ってサッカーをした」と訳すのです。すると、今日受け止めたかったイエスの言葉は、どう訳すことができるでしょうか。
人の子は来て、失われたものを捜して救った。
あなたを、イエスは捜していました。失われていたあなたを捜し、イエスは、あなたを救ったのでした。イエスは確かにここに来て、あなたを救ったのです。いまここで聖書の言葉を聞いている限り、あなたは間違いなく、あなたは捜し出されているのです。