神の国と塩

2026年6月15日

聖書を読む人が退屈になるはずがない。そんな誰かの言葉をきっかけに、聖書は死んだ書物ではないこと、聖書の文字の中に、神の、キリストの、命があるということ、説教者はこれから語る言葉を聴く意義を植え付けるようにする。こうでなくては。私たちも、その思い一筋に、魂を傾けて、ここから恵みを受ける姿勢を向けよう。
 
マルコ伝の連続講解説教も半ばを過ぎ、9章もこうして終わろうとしている。マルコ伝には特に、イエス・キリストの命が、初期の教会の命が、脈々と息づいている、と説教者は告げる。但し、この9章の末尾は、ここまでの流れを踏まえて受け止めるとよい、と提言する。そうして振り返りつつエピソードを交えるが、いまはそこを辿る道は割愛しよう。
 
本日は9:42以降がメインである。聖書学者の中には、ここは複数のイエス言葉が集められているのではないか、と考える人もいるという。だが、もしそうだとしても、ひとつの流れの中で、マルコ伝の編集者はここに置いたのであるし、そのような理解で、私たちはこの福音書を受け取るべきであろう。
 
幼い頃から悪霊に襲われていた子を助け、子どもを受け容れる者こそイエスを受け容れる者だと実地に教えたイエスが、いま、「小さな者の一人をつまずかせる者」に厳しい断罪を施す。石臼を首に、海にでも投げこまれてしまえ、と言う。しかも、その方がましだとまで言う。さらに、手や足があなたを害するのであれば、切って棄ててしまえ、とも言う。いくら両手両足があっても、ゲヘナへ投げこまれるよりは、その方がましなのである、と。
 
ここで「ゲヘナ」という言葉が、「おや?」と思わせる。「地獄」と訳されたこともあった。翻訳は大切だが、「地獄」では、日本人の抱くイメージがずいぶんと異なる。「ゲヘナ」だと、私たちには実感がないが、ユダヤ人にとっては、ある具体的な事例が結びつく表現であった。そこはゴミ捨て場であり、死刑囚などの死体遺棄の場所でもあった。いつでも火が絶えず、この世で最も恐ろしく忌まわしい場所だと認識されていたのである。
 
「そこでは蛆が尽きることも、火が消えることもない」(9:44,46)は、本来のマルコ伝にはなかった言葉で、後から補われたとされているということがいまの聖書には記されているが、あまり気にすることはあるまい。理解しやすいための適切な改訂や補足であれば、むしろ歓迎すべきであろう。どちらにせよ、オリジナルというものは分からないのであるし、オリジナルだけが神の言葉である、と思い込むのには、私は抵抗がある。
 
さて、斬って捨てよと言われたのは、必ずしも肉体的な手や足そのものを示しているのではないだろう。ひとつのメタファーであり、自分の中の何かを意味しているのではないか。この手や足は、紛れもなく自分の身体の一部である。自分の中に、イエスに従うことを妨げさせるものがあったときのことが、ここに記されているものと見るべきであることを、説教者は教えてくれる。
 
「そこでは蛆が尽きることも、火が消えることもない」(9:44,46)については、後の挿入ではないかという研究がなされている、と先ほど挙げたが、「ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない。」という48節の語は、そのようには疑われていない。つまずかせるものが、もう一つあったのだ。それは「目」である。
 
私たちは、自分の内に目を向けすぎないようにする必要がある。もちろん、自分の内を見るな、などという意味ではない。そればかりか、近年自分の内を見るということについて、世情はあまりにもその能力を失いつつある。明治大正期の思想熱のあった時代には、「内省」は当たり前であり、「自己に沈潜する」というのは教養人の基本であった。いまはあまりにも他者を攻撃することが当然となり、自分が悪いなどということは、微塵も考えなくなってしまった。思うに、自分が傷つくことに対して、過剰に警戒し、保護しようとする意識からまずすべての言動が始まるのが常態となっているのではないか。親が子どもをそのように育てたということについても考えねばならないし、子育てができない親が蔓延しているのではないか、という危惧も検討の余地があろうかと思う。親という立場でなくとも、大人全般がそうであるというのが、私の視座から捉えている風景なのであるが、いまはこれ以上タッチしないことにする。
 
さて、今日の問題は、実はその次である。「人は皆、火で塩気を付けられねばならない」ということで、塩にまつわる短いフレーズが2節だけ付け加えられている。これがやや不自然であることは否めない。神学者が、区別して捉えようとしたのも理解できる。
 
50:塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
 
これで9章は結ばれる。どうしてここにあるのだろう。小さな者をつまずかせる者は最悪だ。自分の手や足や目があなたをつまずかせるならば、そんなものはいらない。そこで、人は火で塩気づけられる必要がある。自分の内に塩を持て。互いに平和に過ごせ。――分かるような分からないような流れである。
 
つまりは私の魂は小さな者であるのか。そしてそこには火による塩が必要なのか。説教者は、ゲヘナに燃え続ける火、そこから塩へと言及が拡がることを指摘する。その謎を解き明かすというよりは、イエスの何気ない一言をライトの中に照らし出す。「片手になって命に入るほうがよい」「片足になって命に入るほうがよい」「一つの目になって神の国に入るほうがよい」畳みかける動きである。「命」と「神の国」とは同一視することも可能であろうから、要するに「神の国に入る」ことを推奨しているという言い方でもよいだろうと思う。他の説教にも、そこへ着目したものがあった。確かに、見落としてしまいそうな、しかし大切な目的である。
 
この「塩」については、やはりマタイ伝ないしルカ伝にある教えがすぐに思い起こされる。地の塩・世の光というフレーズが並ぶのはマタイ伝である。どちらの箇所も、塩に塩気がなくなることがよくないとされている。
 
塩は、味付けに必要である。学生時代、お金がないとき、猫缶を買って食べたことがあった。猫は腎臓病が宿命であるせいもあり、猫缶には塩気がない。0.5%くらいはあるらしいが、人間にとっては味気ない。自分で調味すれば食べられる。塩はまた、甘味を引き出す作用もある。スイカに少量の塩をまぶすことで、スイカの甘味が際出すのである。さらに、塩には防腐の働きがある。
 
キリスト者は、この世界で、防腐の働きを担っている。考えなしに気分で動かされる人間の暴走に、ブレーキをかけるために、そこにいる、ということがあるかもしれない。説教者は、内に刃でなく塩をもつべし、と繰り返した。平和を目的とするから戦争をするのだ、という詭弁に棹さすようなことなく、食い止めることができるのは、神からのビジョンを受け止めるキリスト者の役割ではなかろうか。
 
説教者は、以前大きな声を出して失敗した、という逸話を先日漏らしていたが、今日は、こうしたキリスト者の使命については、大きな声を出すことが大切であることを告げた。私たちは、それに胸を刺された。大きな声、それには勇気が要る。内省ということを知らない、外へ刃を向ける群衆がどれだけ攻撃をしかけてくることか。ネットで炎上するだけで終わるならばまだしも、世の中は著しい傾きを以て、ひとつの方向へ雪崩が起きんばかりの備えが積み重ねられている。否、炎上するくらいならばまだいい。キリスト者の声など、モブもいいところで、完全スルーされているのが現状ではなかろうか。その「モブ」という言葉は、本来群衆や暴徒を指す語であったはずだから、この場合は、キリスト教はモブとは対極にあるはずなのだが、それほどに、凶暴化する方が正義のような自認をしているのが実情なのである。
 
そこにこそ「罪」があるのだ、ということを、叫ばなければならない。少しずつでも、それに気づく魂が現れることを願いながら。
 
ところでさらにこの塩については、歴代誌下に「塩の契約」という言葉が出てくる。北イスラエル王国の王ヤロブアムと対立関係にあった、南ユダ王国のアビヤ王が、イスラエル人へ向けて叫ぶ場面である。
 
イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルの王国をとこしえにダビデとその子らに与えられたことを、あなたがたは知らないのか。(歴代誌下13:5)
 
ユダ王国の正統性を主張するものであるが、要するにイスラエル民族の歴史に於いて、塩の契約があったのであり、それはユダ王国が握っているのだ、と言うのである。
 
では何故塩が契約なのか。説教でマルコ伝と共に開かれた、民数記にその表現がある。
 
イスラエルの人々が主に献げる聖なる献納物の一切を、あなたと、あなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これはとこしえの掟である。これはあなたと、あなたと共にいる子孫に対して主の前で結ばれた永遠の塩の契約である。(民数記18:19)
 
また、律法の中に、「あなたの穀物の供え物はすべて塩で味付けしなさい。あなたの穀物の供え物には神の契約の塩を欠いてはならない。あなたの献げ物には、必ず塩を添えなさい」(レビ2:13)という規定があった。イエスが「塩」を強調したとき、ユダヤの律法を知る者には、こうした背景が鮮やかに浮かんできたのではないだろうか。
 
律法を守る。それも重要であっただろう。だが、それ以上に、神との契約関係がここで根柢に置かれていたことは間違いないだろう。
 
新約聖書で「塩」が他に出てくる箇所としては、コロサイ書くらいである。「いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどのように答えるべきか、分かるでしょう」(コロサイ4:6)
 
ここには律法の影はないと思われるが、直前に「外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい」(4:5)と言われているところから、これは教会内に、というよりも、世間の人々に対して、つまり教会用語が通じず、信仰を同じくしない人々に対しての塩味ということになるだろうか。ぴりりと引き締まった言葉を想像してしまう。
 
説教者は、ルターの例を挙げるなどしながら、塩と火との関わりを考えようとするが、必ずしもその関係はすとんと腑に落ちるような説明が与えられないように思えた。むしろ、この塩も火も、どちらも腐らぬよう、また清めるように、用いられる手段ではなかったかという気がする。
 
私は、主なる神との、揺るぎなき関係の中にあるだろうか。神の方を向き、その光に照らされているだろうか。そしてイエス・キリストという、神の国への道へと踏み出そうとしているだろうか。
 
説教者はちらりと、過ちを知る者が教会を築く、という言葉を交えたが、教会を善人の集まりだとする偏見に、私たちも毒されていないか気をつけるべきである。だがそれでも、私たちは舌のような炎という聖霊を受けている。神と塩の契約を結んでいる。どちらも、イエスを介して成立している。
 
その恵みは、自らの罪を痛感したところに注がれるであろう。本来自分の中には罪しかないこと、そしてその自分は、イエス・キリストの十字架により、共に死んでいること、それを経験する必要がある。ただ、そうした自分の内に留まっていることはできない。死んだままではない。イエスは復活させられたのだ。その復活の恵みに預かる約束を力強く私は受けたのだ。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)というパウロの声を自分の声として聞くのだ。
 
この「塩」という意味の言葉(サラーリウム)が、ローマ帝国では「給料」を意味する英語(サラリー」の語源になったことは、よく知られている。一時よく言われたが、古代ローマでは塩が給料として支払われた、という説は、いまは通用しないらしい。ただとにかく、塩が命のために重要であったと見られていたことは間違いないだろう。キリスト者にとっては、「神の国と塩」というテーマは、もっと深く探究してよいテーマなのかもしれない。そのとき、このマルコ伝の箇所は、大きな導きとなることであろう。なにしろ自分の内に塩を保つことが、平和の礎であるらしいのだから。



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