磁力があれば
2026年6月15日

小学生に磁石の実験をすることがある。低学年だから、理屈も何もないし、二つの極があることと、引き寄せ合う向きと、退け合う向きがあることを実体験させる。また、磁石には鉄などしかくっつかないことと、そのくっついた鉄もまた磁石の働きをするようになることを、確かめさせる。不思議に思う気持ちとその理由を説明できることに魅力を覚えてもらったらいいし、とにかく楽しんでもらえたらいい。
理科に限らないが、実体験の有無は重要である。昨今、理科を教えていて気をつけることは、選択肢の動植物について、生徒たちの知識が殆どない、ということだ。大人は、当たり前のように経験の中に含めて思い描くことができる生き物の名前が、生徒からすれば、ただのカタカナの羅列に過ぎない、という現実を押さえておかなければならない。
何度かこういう場でお伝えしたが、いまの子どもは誰もレンゲソウを知らない。アブラナは必ず学習するが、頭だけの知識らしい。タガメやミズスマシが分からない、というのならまだ分かるが、セミの種類を知る子には出会わない。そもそも、生き物に関心がない。他方で、マニアックと呼べるほどに詳しい子がいることは事実だが、稀である。
さて、磁石に戻るが、教えながらふと、教えられることがある。キリスト教会は、磁石なのではないか、というふうに思われたのだ。教会は、果たして磁力をもっているだろうか、という問いを突きつけられたのだ。
人々の魂を、教会は、引きつける力があるだろうか、と思わされた。概ね、ないように見える。磁力をもっていないようだ、と。だが、引きつけられないからと言って、磁力がないとは限らないのではないか、と思う人もいるだろう。ところが、磁石には反発する力もある。教会に対して、反発を覚える、という人があるか、というと、それも殆どなさそうに見える。ということは、やはり磁力そのものが欠落しているように思えてならないのである。
つまり、社会にとって、教会は、存在意義のないものであり、そこにあってもなくても別にどうでもよいもの、自分とは関係のないものになっているのではないか、と懸念されるわけだ。好きな人は行けばいいんじゃね?という程度のもので、引力も斥力も働くことがない存在でしかないのでは、と思われるのである。
ついでに言うと、反発する人がいたとしたら、それはむしろ信仰に近い可能性がある、ということを著者というように語った牧師がいた。その人の心に何かが刺さったのであり、気になることがあるわけで、その場合は、心に神からの課題が引っかかったままになっていることがある。神に背を向けているようであるが、それは向き直れば神の方に向かう歩みとなる。磁石でも、極を反対に向ければ、たちまち引きつけられるのである。
磁力は、磁性体に置いて、内部のミクロな磁石の極が一方向に揃うことによって生まれる、と考えられる。だから、磁石をどこかで切り分けても、中のミクロな磁石の向きが揃っているため、小さな磁石として働くことになる。磁力の流れが一方向に揃うことで、全体として大きな磁力を生じ、磁性体に影響を及ぼして、その対象をも磁石に一時的に変えてしまうわけである。
教会が一方向に揃うというのは、信仰が揃うということであり、同じ方向を向いている、ということであろうか。それは、どの人も個性がなくなり、画一的になる、という意味でもないし、特定の教会に属している人が皆同じ信仰をもたなければならない、という意味でもない。
地球を大きな磁石と考えるならば、北極付近にあるS極へ向くのが方位磁針というものである。教会は、まっすぐに神の方に向かなければならない。神の方を向かず、方向が逸れている的外れであることを表す言葉が、いわゆる「罪」である。神に向き合うことが信仰である。ダビデ王は、人間的能力としても不十分であり、失敗や悪をすら行っていた。ただ、神の方を向くということに於いては、違わなかった。神がダビデを義としたのは、そこのところにあるとしか思えない。
コリント教会のメンバーが、パウロだのアポロだのケファだの何だのと、あちこちを向いてバラバラになっていることについて、パウロは手紙の中でしつこく怒りを表している。教会は神に、キリストに、向きを定めている必要がある。
すると、「多様性の時代だ」と言う人がいる。クリスチャンは一人ひとり自由なのであり、違うことを認め合うことが大切だ、などと言うのだ。時代の流れに逆らわないように、身を守ろうとしているのではないか、とも思われるが、教会はそうやって、戦争を起こし、教会の教えに従わぬ者を殺戮し、聖書に反する存在だとして性的に異なる人々をつい先頃まで犯罪者とさえしてきた。そして後には、教会は平和を愛し、多様性を重んじ、LGBTQの味方だ、というような顔をするようになった。そして、「信仰」というキーワードさえ口にしていれば、どんなに奇妙な方向を向いてそれが自分の信仰だ、と言い、それを真っ当な教えであるかのように語っている者や、罪も救いも知らないような者を、「牧師」として採用して「礼拝」をしているようなところさえある。
教会は、なんのために教義を生み、信条を練ってきたのか、そういう一つの方向性を無視することを「多様性」の名の下に推奨する教会には、磁力が生まれることがないだろう。引きつける力もないし、反発させる力もない。塩気がなくなる、という意味は、そういうことでもあるのだろうか、というように思えてくる。
私も、いつしかそういう風に靡いてしまっているのかもしれない。生温く、吐き出されるような信仰しか持ち合わせていないのではないか、という気もする。意見に対して反発を向けられたこともあったが、最近は「ふうん」と無視されていることが多いような気がする。神がどんなに人を愛してくださったか、しかし神がどんなに神の方を向くことを求めておられるか、私は呼びかけられている。その呼びかけを、こうしてあなたにも届けようとしているのではあるが、果たして、私には磁力が備わっているだろうか。いやぁ、ないわ。教会のお邪魔をしないようにできれば最高なのだけれど。