箱の中の羊
2026年6月11日

是枝裕和監督の2026年最新作、「箱の中の羊」を観た。事情は詳述しないが、突如時間ができた妻が、観に行きたいと言ったことで、急遽出かけたのだ。私は、映画については全く知識がなかった。カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された、ということは聞いていた。だが、よく分からないという声が繰り出され、評価は低かった、という話もあったような気がする。
もちろんここでネタバレは禁止である。それに、映画の批評ができるほど、私は偉くもないし、詳しくもない。ただ、文学もそうだが、観た人それぞれに何かが響けばよいし、できれば観た人を何かしら変える力をもっていたならば、十分だと考えている。多大な時間と費用をかけてこしらえた作品だ。その一部を分けてもらうつもりで、映画を味わえたらうれしいではないか。
そういうわけで、映画を観ていて私が感じたことを自由に少しだけ晒したいと思う。ただ、どうもウェブサイトには、ものすごく細かい解説をした人もいて、一つひとつのメタファーにとても驚いた。そんなことまではとてもとても私には分からない。それを読むと、映画を制作する側からすれば、こう描きたいからこういうシーンをつくる、という発想があるのだろうと感じた。こちらはそれができないし分からないから、ただ受けるままに、自分の刺激されたことを反芻するだけである。
是枝監督のモットーというか、制作の動機のようなものは、これまでの経過からすると、はっきりしている。だから、解釈する場合には、そこから視るというのが正解であろう。だが、私はそれさえもよく分からないから、私の問題意識でくすぐられた、という点だけに徹する。
ひとつは、少子化社会と未来、またその子どもというものをいまの大人がどう扱っているか、という点への反省である。子どもをモノのように扱っていないか。そもそも少子化という減少は、結婚をしないとかしたくないとかできないとか、大人の側の都合にも関係しているし、子どもをつくるとかつくらないとかいう言い方自体、まるで子どもをモノのように呼んでいるのではないかと思う。
しかし子どもの側からすれば、生まれ落ちたその人格主体として存在し、子どもから視た大人の世界というものがそこにあるだけだ。子どもから大人はどう見えているのだろう。モノではない子どもの側から見える世界、それが大人は見えていないし、視ようともしていないのではないか。かつてはその子どもの立場から、子どもの視線を向けていたはずなのに、大人になると、どうにも失ってしまうものなのかもしれない。私だってそうだ。
喪った子どもを、大人の側の感情で取り返したいという設定が物語にはあったが、子どもたちがどんどん少なくなってゆく現実は、歯止めが利かないようになっている。それはつい先日も、ニュースでも大きく取り上げられていた。しかしその深刻も、口先だけであるような気がする。子どもたち、そしてそれ故に私たちの未来は、蝕まれているし、壁にぶち当たることが確実な車が暴走しているようなものなのだ。
一部の方からお叱りを受けるかもしれないが、同時に天皇家の後継者問題が取り上げられている。天皇家の側室制度は、一般でそれが法的になくなった以降も存していた。一般でのその件については、朝ドラの「風、薫る」でも取り上げられるかもしれない。大関和さんは、廃娼問題と妾の問題にも関わってゆくからだが、ドラマは原作本と全く違うので、どうなるかは分からない。ところで天皇家については、大正天皇以降、側室制度が廃止されている。後継男子がいなくなるのは、時間の問題であったはずだ。
だがその一家の問題を大きく取り上げるよりは、国としての少子化の方が、よほど重要な問題ではないのだろうか。映画を観ながら、改めて大人に、それが突きつけられているように感じ、逃げ場がないように思ったのが私であった。
最後のシーンで、子どもたちがじっとこちらを視ている。観客の大人として、私は彼らに見つめられているように感じた。さあ、大人の皆さん、どうするの? と。
もうひとつは、自然と人間の共生だ。詳しくはもちろん述べないが、子どもたちは大人の社会からは自由になろうとしていた。勝手に大人の都合で生み出され、また棄てられる子どもたちなのだが、そんな大人の道具のように扱われる存在ではなく、自然と共生する新たな時代を創造する役割を果たしていきたい、という意志をそこに私は感じたのだ。
しかも、自然を破壊してきたのは、大人たちだ。先人たちだ。本当に命のある生き物は、死んでもなお命を残す。木材が、木という形では死んでも、建築物ではさらに長く残ることができるように、真の生き物は、ただ道具として利用されて棄てられるものではない。聖書の、一粒の麦が死んでなお生きるという言葉と、少し響き合うような気もした。
ここにも、大人が責任を取れずに、子孫の未来を食い潰すように資源を浪費し、環境を悪くしている姿が重なってくる。無責任な大人の一人として、苦しくもあり、恥ずかしくもある私だった。
こうして、私は映画の中から問いかけられ、迫られるような思いを経験して鑑賞していた。こういう体験は、決して初めてではない。
聖書を読むということは、そういう経験であるのではないか。
聖書を客観的に、無責任に読むことも、可能である。だが、聖書の言葉が私に問いかける。私を見つめている神をそこに感じ、否、実際に神が私を見つめて呼びかける。おまえはどうなのだ。おまえはこれではないのか。神が視ている。問いを突きつけてくる。そのような読み方をするとき、聖書は私は一度殺す。私は死ななければならない。どうにも罪の中にある者として、死なねばならないのだ。
だが、イエスを二千年前の人が殺したとき、イエスはそれで終わりはしなかった。復活させられ、永遠の命のあることを示した。自分に死んだからこそ、私は神に生かされる道が与えられた。この経験を伴って、聖書を読むことができる者は幸いである。聖書というものは、そういう経験をもたらす劇場ではないだろうか。この劇場の中で、私は変えられるのである。
だから、映画を見てもそのような問いかけを覚えることなく、高い所から文句を言うことしかできず、自分が変えられないでいる批評家という者も、存在する。聖書を読んでも、研究しても、また聖書から語る仕事をしていても、自分が変えられる経験がなく、聖書はああだこうだと批評する者は、聖書という劇場に来ても、何の命も与えられないことだろう。
聖書の場合も、映画と同様に、制作者の意図が完全に理解できるわけではないだろう。その人なりの立場から、その人の見えている世界に於いて、その人が変えられるならば、制作者はよしとしてくれるのではないだろうか。
それにしても、現実の社会は本当に深刻である。子どもたちの視線を、大人はどう受け止め、どう応答するか、それを問われる方が、多く現れてほしいと願っている。そしてできれば、聖書を基にそれを考えてゆくキリスト者が、協賛しててくだされば……。聖書はそのヒントが多々あるものと思うから。