前を見て歩いてほしい

2026年6月9日

視力ある方は、前を見て歩いてほしい。スマホを見ながら歩いている人のことだ。本人は安全だと思っているが、危険性はいっぱいだ。亡くなった人もいる。いや、申し訳ないが、自分が危険に陥るだけなら、自業自得である。他者に危害を与える虞があること、そうでなくても他者にストレスをかけまくっていることに対して、良心の欠片でももってほしい、ということだ。
 
ずいぶん昔、ヘッドホンステレオ、いやもう端的にウォークマンと言ってよいだろうが、それを聞きながら街なかを歩いている者たちに対して、私は苦言を呈したことがある。本人は前を見ているつもりだろうが、意識が薄い、と。もしかすると見えているかもしれないが、見ていない。私たちはひとと擦れ違うとき、一定の距離の中で、どちらに避けるか探り合っている。そしてとりあえず問題なく反対側に逸れるコースをとりあうことを暗黙のうちに実行している。だがウォークマンに浸っている者とは、そのコミュニケーションがとれないのである。また、近づく車両の音の認識ができないことで、自分もだが、近くの人にも危険が発生することがある。急に気づいたその者が、思わず周囲構わずコースを替えると、他人が危ないのだ。――そんな観点だった。
 
なんと可愛い指摘だろう。いまは、完全に前を見ていない。誰かが来ても、相手が避けるものと信じている。なんと信仰深いのだろうと感心する(もちろん皮肉である)。
 
ウォークマンの人とすれ違い様に、危ないなあ、と思うことが時々あった。だがいまや、スマホと擦れ違うときに危ないと思うのは、毎日だ。「おっと」と寸前で相手が避けることもあるが、それを「悪かった」と思う人は、果たして何%いることだろう。
 
他人に危害を与えることに対して、無神経というより、もう無感覚になっているのではないか。傘を横や斜めに持って歩くのもそうだし、中にはそのまま駅で元気よく傘を振り子のように振って歩く人もいる。電車の中で傘が他人に当たろうがお構いなしだし、吊り革に提げてぶらんぶらんさせている若者も見ることがある。ドアの入口で固まっているので、その向こうのガラガラの場所に行きたいのだが、こちらも押しのけざるをえず、そのときじろりと、迷惑だと睨む者も多い。
 
電車とくれば、たまらないことは幾らでもある。密室の耳元で何十分も喋られると、こちらは本を読むのはおろか、何かを考えることもできない。「音(声)の暴力」を自分が振るっているという自覚をもっているであろう人に、私はたぶん出会ったことがない。これもまた、「危害」を与えているに違いないのだが……。
 
自分で気づかない迷惑というものがあるには違いない。私がじろりと睨むことで、不愉快に感じる人もいるだろうし、そもそも私ひとりが迷惑をかけているということも大いにあり得る。迷惑は、互いにかけているものだ。誰かひとりが常に正しいというわけではない。だが、ちょっとでいいから、想像力を働かせてほしい、と思ってしまうことが日々続く。
 
思うにそうした人たちは、近い仲間やその周辺では、恐ろしいくらい気を使っているらしい。学校のような狭い社会では、そこで目立ったり無神経なことをしたりすると、どう扱われるか恐ろしいわけで、ぴりぴりと気を払っていることが少なくないのだろう。
 
非常に近い関係の中にいる人には、気を使う。以前は、「世間」という遠い存在に対しても、気を使っていた。世間体というものだ。そして中途半端な関係の人々は、一番気を使わずに済むわけで、凡そ人間扱いしないでよいものとしている。かつて、そうした人間関係の地図が、日本社会にはあったと指摘されていた。ここのところ、遠い存在すらまるで気にしないことが増えているようにも見える。
 
妙に気を回すのも疲れるが、日本人から、ひとへの気遣いを取り去ったら、さて、何が残るのだろう、と不安にもなる。とりあえず、他人が危ないので、前を見て歩いてほしい。前を見て運転してほしい。



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