「私たち」の壁

2026年6月8日

マルコ伝の連続講解説教が、9章の終盤に差しかかってきた。今日は4節から成る、短いエピソードだけを取り上げる。その幕開けは「ヨハネがイエスに言った」である。これは異様な始まりであった。
 
昨夜NHKで、「MUSIC AWARDS JAPAN 2025」の再放送が放映されていた。2026年のそれが一週間に発表されるためだろう。Grand Ceremonyが、象徴アーティストに選出されたYMOを称えることで始まった。細野晴臣がスピーチする。面白いことを言うような打ち合わせがあったらしかったが、実際にはしっとりと、「ここに都合があって来られない2人がおります。その名前は高橋幸宏、坂本龍一。彼らの才能があってこそ、僕はここに立つことができています」と語った。
 
YMOはこの三人から成る。世界にテクノポップを知らしめた功績は大きい。いずれも2023年、高橋幸宏は1月に、坂本龍一は3月に、この世を去った。細野晴臣のひとり残った思いは、いかばかりであったことか。いまもラジオで元気な声を聞かせてくれており、わりとよく聞いている。
 
何が言いたいのか。「ヨハネがイエスに言った」というように、ここでヨハネが単独でイエスにものを言い、ソロ活動をしているのは、非常に珍しいことなのである。ペトロとヤコブとヨハネ、この3人が、どうやら教会の中心人物だったらしい。3人がセットでイエスについて行くことは多い。時にペトロの単独行動もあるが、ヨハネだけが表に立つということは、他に見ない現象なのである。
 
説教者はそうした背景を説明する。そしてヨハネという人物像を、伝わる知らせから、年若い弟子ではないか、だからダ・ビンチの「最後の晩餐」でも、髭のない若者としてすぐに見つけることができる、といった「枕」のような話から、説教は始まった。
 
そのヨハネがイエスに何を言ったのか。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」これが、今日の説教を取り仕切ることとなる。但し、マイナスの意味に於いてである。イエスは直ちに、「やめさせてはならない」と応えているからである。
 
尤も、既にやめさせたのであるから、いまさら「やめさせてはならない」というのは、取り消せない無理なことを言っているように聞こえる。新共同訳では、「やめさせようとしました」と訳されていたから、その方が誤解なく会話が流れるような気がする。それはしてはならないのだよ、とイエスが教えたように見えるからだ。だが、恐らく現に、ヨハネはやめさせたのであるに違いない。
 
説教者はここで、想像力豊かに、ヨハネの心中を思い描く。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました」と先生に報告したヨハネは、てっきり褒められると思っていたに違いない、と。イエスの名を偽って使う偽物である。偽物をはびこらせておくわけにはゆかない。迷惑なことであるし、イエスの名を汚すことにもなる。ね、いいことをしたでしょ。褒めてくださいよ。
 
その期待を、イエスは見事に破った。「やめさせてはならない」と、逆にヨハネが叱られた形になったのだ。少なくとも、ヨハネの思惑はゴミ箱に棄てられた。イエスは「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」と、根拠を含めてヨハネの考えを否定した。しかも、直弟子でない、いわば偽物の者たちを、「私たちの味方」なのだ、と断言したのである。
 
ここからの説教者の実例は、失礼なものの言い方をしてしまうが、秀逸であった。正にそうだ、ドキッとさせられた。それは、クリスマスの例だった。「ほんもののクリスマス」「クリスマスは教会へ」、ベタなアピールであるが、クリスマスの時季に日本の教会が出すポスターによく見られるフレーズである。
 
教会の最大級のイベントであるクリスマスが、世間に知られている、ということ自体は悪くない。また、説教者の表現だと、どこか誇らしい気持ちさえ混じることがある。なにせ日本では、クリスチャンは1%にも満たない。だが、誰もがキリスト教の祝祭を知っている。
 
但し、サンタクロースの日だというくらいならまだ可愛いが、それさえも通り越えて、馬鹿騒ぎや欲望の目的のための理由付けにしかなっていないことが、少なくない。歴史の中で、大正時代の頃、それがピークだったと聞くが、戦争でしなびた後、一時的にキリスト教ブームが起こったと思ったら、閑古鳥が鳴く中で、都合の好いお祭りとして利用されるようなってから、もう久しいと言えるだろう。
 
このとき、私たちクリスチャンは内心、こう思うことがある。どうせ彼らの「クリスマス」は本物ではない。あの程度のものなのだ。それに対して、教会は、本物のクリスマスを祝っているんだぞ。こちらが本家本元なのだという自負と、世間は偽物だ、分かっていない、とどこか見下すような心理が、隠れている。あるいは、それが常態にすらなっている。
 
本当のクリスマスを知っているのは教会だ。私たちはイエス・キリストを知っている。私たちはイエスの言葉を信じ、従っている。「私たち」は、世の人々とは違う、イエスの名を以て祈る仲間なのであって、俗世間の人が勝手に入ってきてもらっても困るような、聖とされた選民なのだ……。
 
「私たち」と、仲間内で顔を見合わせて、頷き合う。「私たち」は教会のメンバーだ。仲間だ。「私たち」は本当のイエスを知っている。――そこで説教者は核心を貫く。その「私たち」の中に、イエスがいないのではないか。
 
私たちは、先のヨハネと同じ気持ちでいるのだった。世間のクリスマスを軽蔑していますよ。やめさせました。どうぞ褒めてくださいね。
 
しかし、そんなヨハネの考えを、イエスは退けた。それだったら、私たちのクリスマスに対する気持ちというものも、退けられないはずがない。ヨハネの心には、イエスの指摘がグサリと突き刺さっただろう。それだったら、私たちの心にも、このイエスの指摘が突き刺さって然るべきである。
 
イエスは、ヨハネが否定した人々のことを、「私たちに逆らわない者」と呼んだ。単数形であるから、誰か一人を取り出してそれが逆らわない人であれば、という形で全称命題としていることになるだろうか。「悪霊を追い出している者」もそうである。その逆らわない者が、「私たちの味方なのである」とイエスは言った。このイエスの「私たち」とは誰だろうか。イエスとその周囲に共にいる弟子たちに限るのだろうか。意味上はそうであろう。だが、味方となってしまった以上、イエスの想定する「私たち」の中に、「私たちに逆らわない者」が入ると理解するのが自然であろう。
 
説教者は、教会関係のある方のエピソードをここからしばらく話した。プライバシーにも関わるのでここに詳述はしないが、ご本人が意図しないままに、周囲がキリスト教に惹かれる人たちに変わっていった、というような出来事であった。惹かれるとは言っても、そこに現れた一人は、「私は偽牧師なんですけどね」と笑って言うほどの立場で事を為したらしいのであるが、さて、これを教会が、あるいは「私たち」が、咎めるべきなのであろうか。
 
2026年の春に放送されているアニメの中で、一部でかなり話題になっているものがある。異世界も魔法も現れない、現実の高校生活を地味に描いているものなのであるが、内面の心理をよく描いている。主人公は、氷川小雪(この名前が象徴的である)という高校生女子。中学時代いろいろあって、他人との間に壁をつくる。他人からも冷たい人だと見られている。ただ、親しい人に対してはそれなりに心を許す。親友もいる。ただ、いまの時代の若者のひとつの特徴かもしれないが、ひとの心に踏み込むことを避ける傾向はある。この二人は、高校で、二人の男子と親しくなる。格別なストーリーが展開するわけではなく、人間模様と内面の心理の葛藤などか描かれてゆく、青春の群像劇だと言えよう。
 
アニメのタイトルは、「氷の城壁」。画面には、心を通わせたくない相手が現れると、冷たい城壁が回りに築かれてゆくような画が現れることがある。結局小雪も、話のできる友だちがいるから、決して孤立しているわけではないのだが、彼らの間に恋愛の心理がありそうだということになると、とてもデリケートに、互いの領域に入らないように気をつけながら、どこかでやはり距離をとり、壁をつくってしまうことは避けられないでいる。
 
このアニメを私は見ていたから、説教を聞きながら、教会が「氷の城壁」を築いている姿がイメージされてきた。善かれ悪しかれ、部外者を立ち入られない、冷たい壁があるのではないか。
 
以前は大抵の教会で、「兄弟」「姉妹」という呼び方を互いにしていた。外から教会に来た人は、一様に驚くことになる。これではまるで異言である。説教も含めて、キリスト教用語を普通に使うので、何を言っているのか分からない、ということもあるだろう。
 
八木谷涼子氏は、キリスト教会マニアと呼ばせて戴きたいくらい、教会やその歴史にお詳しい。この人を知らないということであれば、教会の未来は暗いとまで言わせて戴きたい。信者の外部にいる。だが、実に多くの教会の礼拝に参加している。そして、キリスト教会の実態を調べ、こうすればよい、というような意見を発してくれている。たとえば、来会者に名前その他を書かせ、礼拝の終わりに立たせて感想を言わせるようなことを、どうしてするのか、と手厳しい。その点、何の干渉もせずこっそり出て行けるカトリックはほっとする、という。その他、来会者への応対システムや、宣伝の仕方など、とにかく教会内部の人では気づかないし指摘できないようなことを、ずばずばと教えてくれるのだ。しかも、私の見立てでは、その指摘のどれもが実に的確なのである(おもに『もっと教会を行きやすくする本』2013)。
 
だが、アニメの城壁よりも、教会の「私たち」の城壁の方が、質が悪いとも言える。クリスマスの例にも漂っていたように、世間を見下すような心理があるかもしれないからである。それは、聖書理解についても言える。キリスト教会や教派同士でもあることだ、と説教者は別の文脈が最後に触れたが、互いに他のグループの聖書理解を批判するばかりか、蔑むようなことすらあるのだ。それは思想上の出来事でもあるが、私は、信徒の中にも、自分の聖書理解が唯一無二であり、絶対の正義であり、これこれの信仰を表明している他の教会を、幼稚だ無知だと考えているのが日常であるような現場を知っている。
 
そのような現場には、必ず「私たち」の壁がある。
 
よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)
 
このペリコーペ(説教で取り上げるひとかたまりの聖書箇所)の最後を飾るイエスの言葉である。「よく言っておく」は、いわゆる「アーメン」という言葉を含んだフレーズであるが、これはこの文の頭ではなく、「必ずその報いを受ける」の前に挟まれる位置に置かれている。この一文は、果たしてこのヨハネの一件の中に含めるべき言葉であるのかどうか、議論があるそうである。だが、いまは通説に則り、イエスの言葉の締め括りとしておこう。
 
説教者は、この「一杯の水」をくれるのは、文脈から、キリスト者ではない、と指摘した。きっとそうなのかどうか、分からないかもしれないが、自然にはそのように読める。そこで、神はそのような人を忘れない、と力強く宣言した。もてなしの文化や伝統があるとはいえ、もてなす者や仕える者を、イエス・キリストは忘れることがないだろう、と言うのである。
 
そうして、決して教会には足を踏み入れないにせよ、キリスト者の家族を教会に送り届けてくれる人の例を挙げた。別の教会にも、そういう方がいた。送迎をする夫の方は、長い付き合いの中で、教会に偶に入ることはあったが、その妻の方は、にこやかに話しながらではあったが、配偶者が信徒でないという家庭の中での悩みや苦しみは分からないでしょうね、と言ったことがあった。いまも胸に染みている。
 
ところで、この水については、ほろ苦い思い出がある。マタイ伝の並行箇所からの説教のとき、私は礼拝司会を担当していた。その「牧師」は、私に言わせれば、説教のできない人であった。精神的な病があろうと悪くは言うつもりはないけれども、聖書についてただ知識だけで理解し、いまでも相当に歪んだことばかり主張している。そのときの説教の内容も、なんの命もない、神の息の全く感じられない「お話」を平然と語り終えたので、私は内心憤っていた。
 
「私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)
 
「説教」が終わり、司会者の私は、献金を導くためにマイクの前に立った。「冷たい水」というものが出てきたことに、私は触れた。いまでは冷蔵庫から出す水や、氷を浮かべた水を想像してしまうかもしれないが、あの時代にそんなものがあろうはずがない。恐らくそれは、素焼きの壺に入れていた、特別な水であろうと言われている。素焼きの壺を水はかすかに沁みだして、蒸発する。そのときに気化熱が働き、壺の温度が、室温よりも僅かでも下がることになる。そうやって冷たさをこしらえていたのであって、その貴重な水を、弟子たちに献げた、という気持ちを察したい。献金の袋を回します……。
 
凡そそういう内容のことを、短く告げた。実は、この箇所が語られるとあっては、きっとこの「冷たい水」について少しでも触れるだろう、と思っていたのだ。それを絡めてくるような、説教の目的があったと確か記憶している。だから全く水になど関心をもつことさえなかった説教に、私は不満だったのである。
 
問題の「牧師」には、どう伝わったかしれないが、余計なことであり、失礼なことだった。私もまだ若かった。いまではそんなことは言わない。ただ、そのとき実習のために教会に通っていた神学生が、後で私に、そのことに痛く感動した、と告げてくれたことでは、悪い気持ちはしなかった。伝わるものがあったからである。
 
説教者が最後に触れた話題は、とてもユーモア溢れるものだったから、ご紹介してよいだろうか。説教にはユーモアが必要だ、と言いたかった。いまは穏やかな説教者だが、かつては厳しい一面もあり、声を荒げて発言することもあったのだという。そういう苛々した言い方で真っ先に失われるものが、ユーモアなのだという。説教者自身のことなのか、誰か他人のエピソードなのか聞き損ねたが、ユーモアが必要だということの戒めとて、説教壇に紙を貼っていたのだという。その紙には、こう書かれていた。
 
「いま、あなたが神の言葉を語っている、それが最大のユーモアである」



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