【メッセージ】闇と光、そして愛
2026年6月7日

(ヨハネ一2:7-11, ミカ7:7-10)
私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。それは、イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです。(ヨハネ一2:8)
◆ミカ書
旧約聖書の預言者の書の中に、ミカ書というものがあります。比較的短いものですが、なかなか魅力のある書です。それは、支配階級による圧政に苦しむ人々の立場を、神の視点から擁護するもののように読めます。ベツレヘムからメシアが現れることの預言もしており、新約聖書のマタイ伝でも引用されています。
また、同じマタイ伝ですが、自分の家の中でさえ分裂がある、ということを、イエスがミカ書を根拠に引いてきている場面もありました。まずミカ書を掲げます。
息子は父を侮り/娘は母と、嫁はしゅうとめと対立する。/人の敵は家の中の者である。(ミカ7:6)
これをイエスは、次のような文脈で用いました。
私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
私は敵対させるために来たからである
人をその父に
娘を母に
嫁をしゅうとめに。
こうして、家族の者が敵となる。(マタイ10:34-36)
イエスが引用したのは、福音を信じたならば、家族の間でも意見が合わなくなることがあるものだ、ということを知らせたかったのかもしれません。
ミカ書の精神は、新約聖書の福音に、通じるところがあったのでしょう。いまミカ書の7章の6節に触れましたが、今日はそれに続く箇所を取り上げました。そこには、救いの神を待つ人々の思いがあり、神へ叫ぶその声を、神は聞いてくださる、という確信が触れられています。
7:しかし、私は主を仰ぎ見/わが救いの神を待つ。/わが神は私に耳を傾けてくださる。
8:わが敵よ、私のことで喜ぶな。/私は倒れても、また起き上がる。/たとえ、闇の中に座っていても/主は私の光である。
9:私は罪を犯したので/主の怒りを負わなければならない。/主が私の訴えを取り上げ/私を裁かれるときまで。/主は私を光に導き/私は主の正義を見るだろう。
10:「あなたの神、主はどこにいるのか」と/私に向かって言った敵は/それを見て、恥に覆われる。/私は目の当たりにする/今、敵が路上の泥のように踏みつけられるのを。
◆政治と宗教
ミカは、預言者として、神から言葉を預かる任務を負っています。しかしいま、現実にミカの前には、敵がいます。敵がいて、神を信じるミカを嘲笑するのです。「あなたの神、主はどこにいるのか」と言ってきます。からかっています。せせら笑っています。こういうのは、言われた者でなければ、その辛さは分からないでしょう。敵に囲まれ、誰も助けてくれないのです。
けれども、預言者ミカは、自分のことで喜ぶな、と敵を制した上で、「私は倒れても、また起き上がる」と言いました。
ただ、「私は罪を犯した」と認めています。そのため「主の怒りを負わなければならない」ことは分かっているのです。けれどもその結果、主は「私の訴えを取り上げ」てくださることを信じています。「たとえ、闇の中に座っていても/主は私の光である」ことを知っているからです。罪という闇の中にあることは否めないのですが、主が「私を光に導」いてくれることに疑いをもちません。そこには「主の正義」が見えています。
神を信じるイスラエルは、神の正義を信じています。それは――いまのイスラエルも、そうなのでしょうか。昨今非難を浴びているイスラエル国です。もちろん、いまのイスラエル共和国が、旧約聖書のイスラエルと同一である、と見なければならない必要はありません。それでも、アメリカはイスラエル国を支援します。
昨年は『福音派』(中公新書)、今年は『宗教のアメリカ』(岩波新書」というように、アメリカと宗教との関係を説明する本がたいへん売れています。また、それに乗じたように、同種の話題の本が、雨後の筍のように次々と出ています。アメリカが、何かおかしい、という感じ方が一般的になってきたようです。アメリカは、聖書のイスラエルと、イスラエル共和国とを重ねて見ているのでしょう。この時代にあって、キリスト教色がすっかり薄れたヨーロッパに比べて、アメリカはまだ熱いのです。
キリスト教会は、政治的な影響をもってはいけない、などと言うつもりはありません。むしろ日本では、なさすぎます。あるとすれば、政府を陰からただ非難したり、皮肉を言ったりするようなアプローチが多いようにも見えます。どうであれ、現実に殆ど力をもっていないのは、数が少なすぎるからでしょうか。
もちろん、政治のためにのみキリスト教会がある、と考えてしまうのもよくないでしょう。政府の悪口を言っておれば教会らしく振る舞える、というように勘違いしている場合もあります。えてしてそういう教会では、罪や救いという話題が全く語られなくなっています。また、罪や救いということを知らない人が説教しているケースさえ実際あります。
聖書そのものから聴く。聖書を通して個人的に神と向き合い、出会う。こうした機会を、教会がまず中心にもっていないと、ただの仲良し倶楽部か、自称正義の団体と化してしまうかもしれません。
◆時代の闇
近代から現代、人間は自然を操り、あるいは支配することに、かなり成功してきました。科学は様々な技術を可能にし、生活に便利なものを生み出し、寿命を延ばしてきました。それでも、時代の中に「闇」を感じる人は少なくありません。
虐げや争いの止まぬ地域があります。経済の苦境で暴動が繰り返される国があります。繁栄を誇っているようでありながら、国民の間に激しい分断がある国があります。いえ、そうした分断は、もう普遍的に、どこにでもあるものなのかもしれません。誹謗中傷が正義であるかのように勘違いする者たちが、仮想空間上の「巷」に溢れ、まかり通ってさえいます。貧困の極みがあちこちにある中で、情報を操作するだけで濡れ手に粟の如く何億もの金を易々と手に入れる者もいます。
金の問題だけではありません。学校社会はメジャー派から外れると、学内カーストのためにいつ死んでもおかしくないような情況に置かれている子どももいます。子どもの教育は、そうした親の家庭でどうなるのかと懸念されるようなところに、踏み込むこともできない教師や福祉委員が悔しがっている現状もありますし、子どもをうるさがる地域社会になってしまっているところもあります。
戦争ができるように準備する為政者を、テレビ報道や新聞社が批判できないのは、批判すると報道機関が権力に潰されることを恐れているのでしようか。自分が正義であるという自己愛的な思い込みから、人を虐げて続けるような人々は、必ずしも権力や財産をもつ人ばかりではありません。私たち一人ひとりが、そうしているのですが、そういう認識をもつことができていないのが実情です。
一見きらびやかな日常や社会の景色の中に、非常に危険な闇がある時代だというふうに見えて仕方がありません。しかしそんなことを言うと、それは「偏向」だとか「サヨク」だとか一蹴し、勝手に論破したと豪語するような、似非言論がはびこっていないでしょうか。百年ほど前の小説を読むと、まるで現在のことが書かれてあるように読めてしまうことがあるのですが、そうした想像力も、次第に衰え、へたをすると死滅しそうにさえなっています。
日本では「哲学」を教育しません。それは思想家の名前と著作の暗記とは違います。物事の根柢を問い続ける姿勢と、自分自身をも省みる見方ができるかどうか、相手をリスペクトできるかどうか、の力を訓練する場を、わざと欠いているとしか思えないのです。その方が、全体を画一的に統一するのに都合が好いからです。
◆心の闇
「闇」と言えば、いつからか「心の闇」という言葉が広く使われるようになってきました。古くは、19世紀末に、尾崎紅葉が『心の闇』という作品を書いています。いまでいうストーカーのような話ですが、果たしてストーカーこそが闇であるのかどうなのか、問われるような気もします。
その百年後、私たちは普通に「心の闇」という言葉を使う世の中に暮らすようになりました。「異常」に見える事件が起きたとき、犯人の「心の闇」がどうのこうの、という説明が、慣用句のように入ってきます。ワイドショーで、コメンテーターが、何か言わねばならないときに、簡単に「心の闇」とも言います。それは恰も、自分たちにはそんな闇などなくて、その事件を起こした者の心が闇なのだ、と決めつけるかのようにも見えます。そうなんだ、普通は闇なんてないよね、ない方が普通だよね、と念を押すかのように。
キリスト教会は、たぶん違う見方をしていると思います。信仰は、適切に認識しています。人間は、闇の中にいるのだ、と。いえ、少なくとも、かつて闇の中にいたのです。キリスト者は。
こう言うと、「それは性悪説ということだね」と捉える人がいるかもしれません。ある意味ではそうかもしれませんが、そうしたことを聖書や神は言おうとしているのではないと思うのです。人間の本性は善か悪か、そんな議論を悠長にやろうとしているわけではないのです。
そうではありません。人間は神に背を向けていたら、それは闇の中でした。しかし、神はその闇から救い出してくれたのです。
ですから、その闇から光へと辿ることを是として、教会はまず、人間がそもそも闇の中にいることを語ります。つまり、「罪」の中にいる、ということです。
しかし、教会に行ってみたものの、「教会は『罪』『罪』とうるさいから嫌だ」と思う人もいるそうです。もちろん、「おまえは罪を犯した」と公然と非難されるようなことはありません。でも居心地が悪いのです。それはきっと、自分の中に実は闇があることを無意識の内にでも知っているからこそ、うるさく感じるのではないか、と私は思います。罪が自分とは関係ない、とは思えないから、言われると嫌なのだ、と。そしてもしそうなら、それはむしろよいことなのではないか、とも思います。実は救いが近いのではないか、と。
闇を知るからこそ、光が分かる。光を受けているからこそ、自分の影を知るわけです。闇あればこその光であり、救いであるように思うのです。
◆闇と光
けれども、闇を知ることで絶望する危険性がないわけではありません。多感な若者の中には、そこで悲しい道を辿る、ということもありました。だから、闇の中にいるとしても、そこにあるのは絶望ではない、ということを伝えたい。希望がないことはないのです。それよりも、自分の中の闇に気づいたら、きっと救いがある。そこに、聖書が伝えたいメッセージがあると思うのです。
カトリック教会が送る、「心のともしび」という番組があります。もう70年近くも続く番組です。いまはテレビ版は放送されていませんが、ラジオやネット配信は、いまも続いています。「暗いと不平を言うよりも すすんであかりをつけましょう」という言葉をよく聞きました。
そうした「ともしび」は、クリスマスのときに顕著です。いまなおクリスマス、特に前夜24日のクリスマス・イブ礼拝には、キャンドルは欠かせません。夜の場合には、日もとっぷりと暮れて、辺りを取り巻く闇の中に、ゆらめく蝋燭の炎が、私たちの心をひとつところに集中させてくれます。それは正に闇の中の光です。
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(ヨハネ1:5)
でも、蝋燭の炎は、如何にも頼りないような気もします。古代では十分な明かりだったかもしれませんが、いまの私たちからすれば、か弱き光です。それでも、メシアの様を描いていると思われるイザヤ書には、そのような炎を守る姿が記されています。
傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。(イザヤ42:3)
カトリックの信仰から生まれたヒーローが、「ウルトラマン」でした。制作の円谷プロダクションは、カトリック一族からできています。初代ウルトラマンの主題歌には、「光の国から ぼくらのために 来たぞ 我等のウルトラマン」という言葉がありました。「ぼくらのために」は、「正義のために」「地球のために」と節毎に変わりましたが、いずれも「光の国から」と歌われました。
光の中を歩め、というイエスの教えは、光の国へと導くものであっただろうと思います。「神の国」は、きっとそうした「光の国」なのでしょう。黙示録に描かれた、新しいエルサレムには、神の光の他には何の光も必要なさそうでした。
もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示録22:5)
◆光と愛
光が当たれば、私たちの身体には、反対側に影ができます。影はつまりひとつの闇です。多神教という言い方をしてよいかどうか分かりませんが、神がいろいろあったとしたら、あちこちから光が射して、影を消してしまうことでしょう。ひとつの神が非難してきても、別の神がそれを擁護する、というような図式です。
こうして、他の神に逃げることを繰り返せば、私たちは闇を意識することがなくなります。「まあいいか」と、罪を追及しなくなるでしょう。
けれども聖書では、神はそのような扱いをなさいません。ひとりの神が、その光によって、私たちの影をくっきりと焼き付けるように浮かび上がらせます。
その光は、神から来ます。
まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。(ヨハネ1:9)
その光に照らされて、私たちは影を知りますが、影の中に溶けこんでしまうことはありません。
『らんたん』という小説があることを、先日知りました。ミッション系の恵泉女学園を創設した、河井道さんを描いたフィクションです。フィクションではありながら、当然史実をよく調べて、学園出身の柚木麻子さんが執筆され、文庫本で700頁を超える大作となりました。関東大震災直後、戦争への風向きが強まる中、河井道さんは、留学して英語教育をベースにし、学園を建てます。それは、海外の宣教団体からの援助なしに始めるという、当時例を見ないようなことでした。
河井道さんは頑固な人でもありまして、信仰を貫く強い意志をもっています。太平洋戦争が始まり、軍部から睨まれ、連行も何度かされます。けれどもその気っ風のよさから圧力に屈せず、学園を護り通しました。そんな道を支え続けたのは、タイトルの「らんたん」でした。クリスマスが大好きで、学園でもそのランターンを灯し続けた道さん。「私たちの役目はランターンを決して消さないこと、受け継ぐことです」という使命感で一生を走り通しました。
「きょうだいを愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません」(2:10)とヨハネの手紙は断言しました。「光の中を歩む」(1:7)ことは、神から清められることを意味していました。「神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています」(2:5)という故に、私たちは「神の内にいる」(2:5)ことが分かります。そこに、「愛する」ことの強調が繰り出されます。
◆闇を知るからこそ
ヨハネの手紙は、ここから続く3章4章と、ずっと「愛」を中心に据え、繰り返し繰り返し「愛」を説き進めます。これはもう、絶賛です。そのきっかけ、あるいは萌芽が、ここに見られる、と言ってよいかと思います。それは「古い戒め」であったはずなのですが、改めて「新しい戒め」として再び書き送るのだ、と手紙は述べています。確かに、旧約聖書の律法にも、弱者への配慮は随所にありました。
たとえば、他所からイスラエルの土地に寄留してきた者に親切にすること。夫を亡くし働き手のない気の毒な女性とその家族を皆が守ること。貧しい者が飢えないように落ち穂が拾えるように配慮すること。こうした精神が、いまも文化としてあるとも聞きますし、聖書の中の記事でも、旅人をもてなす様子は、そこかしこに見られます。
小国イスラエルが神に選ばれ助けられたこと、自分たちが奴隷にされていた状態から助け出されたことを鑑み、弱い者、小さな者を助けるような配慮がある、それが旧約聖書でした。ホセアという預言者は、神の痛ましいほどの愛を、自らの身に帯びる形でたたきこまれ、それを世に伝えるように仕向けられました。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43-44)
イエスの教えを、自分のものとして受けるのではなく、他人に差し向けてこれを聞け、守れ、などということは愚かなことだと知っています。そして、ユダヤ教はこの新約聖書を掲げるようなことはしていないし、イエスをメシアと見ていないことも分かっています。けれども、やはり心の奥では叫んでしまいます。「敵を憎め」とばかりに、イスラエルの名を冠する共和国が、一般市民をも殺戮の対象とするのは、止めてもらえないか、と。
キリスト者は、新約聖書を信じています。新約聖書の眼差しは、旧約聖書の「もてなし」に留まりません。ヨハネの手紙は、ヨハネ伝と通ずるところがあり、同じグループで編集されたのではないか、と想像できます。そこでは、特に「愛」を強調します。たとえ「愛」という語を直接持ち出さなくても、それが描くイエスの生涯や、イエスについての論評が、神の「愛」を余すところなく教えてくれていた、と言えるはずです。イエス自身、正に「愛」そのものであった、と言ってもよいでしょう。
その「愛」は、「新しい戒め」として提示されました。
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
これは、実は「古い戒め」を、「新しい戒め」としてもう一度書いたものだ、とヨハネの手紙は告げました。ヨハネ伝で、闇の中に光が輝いていることを宣言していましたが、いまヨハネの手紙に於いて、「まことの光が輝いている」と強調しました。その輝きは、闇あっての輝きでした。闇がそこにあることで、この光はその輝きが際立ちます。
その闇は、光なるイエスの下で、過ぎ去ったのだ、と言っています。光なるイエスのところに来るならば、闇はもうありません。逆に、「きょうだいを憎む者は、今なお闇の中にいます」し、「自分がどこに行くのかを知りません」ということになります。
そういう人には、見えないのです。闇を闇として知ることなしに、本当の光は分かりません。自分の中にある闇を知ることは、一度どうしても必要なのです。自分の中の闇に思い悩む方がいらしたら、安心してください。イエスが来るとき、そこは光で満たされます。光なるイエスに、会うことができるのです。