生成AIと思考
2026年6月5日

生成AIが当たり前になってきた。かつて人の手で製作していた工業が、機械によって人の肉体的労働の負担が軽減されたように、精神的労働について、AIが助けとなっている、というのが社会のベースになってきたと言える。
だが機械化が本当に人の負担を軽くしたのかどうか、は問うべきことであろう。生活は便利になったようであっても、別の忙しさが人を潰しかねないケースがあるし、格差社会を拡大していると見る人もいる。自然破壊が加速度的に進んだ、というのも事実であろう。
そうした影響は、当初は殆ど表に上らなかったことだろう。そうした指摘をするのが、哲学者の役割であったという点は、大切にしたいと私は思っている。DDTの危険性をレイチェル・カーソンが訴えたとき、世間は嗤い、そして怒った。だが、やがて誰もがそれを認めざるを得なくなった。思想的な意味では、こうした例は無数にあるに違いない。
いまも、AIについての危惧がある。ただ、やはり本当にどう展開してゆくか、については誰も分からない。だからこそまた、たとえ予想が外れたにしても、哲学者の思索は提示されなくてはならない。それを社会が選びとるかどうか、という意味では、世界の運命は人々のうちに握られているのであるから、確かに民主主義は、人類の未来を決めることになるであろう。それとも、善意の独裁者が、正しい知恵を以て世界を救うのであろうか。プラトンの哲人政治のように。
現場に戻ろう。教育現場に於ける生成AIの侵入は、大人が楽観している以上であるらしい。報道を見る限り、生成AIを使わない子どもを探す方が難しいらしい。或る学習塾では、それはしない方がいいよね、と理解している子どもたちが多く、自分の力をつけなければ、と考えている生徒が殆どだが、その意識を高めるだけでも、塾の存在意義があるような気もする。いや、塾のせいではないだろうとは思うが、とりあえず課題を提出しなければ、ということになると、使えばすぐ終わるのであるから、使う子どもは多いに違いない。大人がそういう場面でブレーキをかけるのかどうか、胸に手を当ててみれば分かるだろうと思う。
知識人が懸念した通り、大学でも論文その他に、簡単に使われているらしい。それをどう見破るか、についても、高度なテクニックでなくても、簡単に判別できる方法も、教授の側では弁えている様子ではあるが、こういうのは「いたちごっこ」であって、双方が方法を考えて騙し合っているようなところがある。学術の価値をどう認めるか、難しい時代になってきた。
だいたい、政治の場面でも、答弁で使っているらしいそうで、お役所がそうなら、建前でよしとする文化の中では、あらゆる形式的社会生活が、生成AIの決めた通りになっている、ということも、ついそこまできていることなのかもしれない。
手塚治虫は、ずいぶん前に、そういう世の中を想定していた。当時は、読者として、まさかそんな、と思う気持ちと、さもありなん、と考える気持ちと両方があったが、もはやいまでは、正にそうだ、としか言いようがない時代になってきている。
単に生成AIが人間の運命を決めるから怖い、と言っているのではない。それが加速されるに違いない、時代の動きが一層怖いのだ。というのは、この傾向は、人間がものを考えなくなっている、という事実を示すからだ。
すでに考える経験を余儀なくされてきた大人世代は、まだこの生成AIを、思考を補う道具として使う道が選択できる。むしろそういうのを使いこなすことができず、時代遅れだなどと悪口を言われ、それがどうしたと粋がるか、逆になんとか若者についていこうと媚びてすっかり生成AIの虜になるか、そういう場合もあるかもしれない。
しかし、生まれてからすでにデジタルに囲まれている子どもたちは、言わばそれしか知らないのである。洗濯機しか知らないで育つと手洗いというものを知らないとか、チンご飯だけで生活してきたらご飯をどう炊くか知らないとか、そういう喩えならば分かりやすいかもしれない。なんでも自分で考え、悩む前に、一言AIにまず尋ねて、その言うままに従って行動する、ということが、常識になってしまうかもしれないのだ。
プロ野球監督のお嬢さんを責めるつもりはないが、報道されたその行動は、その傾向のひとつの実例として数えられ得るものだっただろう。ウェブサイト上で、無責任な意見でも、数が多ければ、それが主流の、いかにも正義であるかのように、AIは回答してくるであろう。
政府が操作することで、あるいは操作しなくても、ある考えが正義であり、別の考えは法令に反する悪である、との決めつけが、生成AIの出す結論となることも、大いにあり得ることになる。現に、それは生成AIとは関係ないかもしれないレベルで、いま平然となされている。コンピュータが決めたことだから間違いない、そして人間は自分の意見を発するに及ばない、そういう常識が成立するのも、自分で考えることがなくなったときに、簡単に起こることである。
自分で悩むためには、体験が多くないといけない。読書は、そういう体験を増やす。本を読まなくなった、そして生成AIが蔓延する、そこにも、一方向に流れてゆく危険性が隠れている。