幻と夢
2026年6月3日

復活祭から50日、聖霊降臨祭が、ほぼこの頃である。それは、イエスの復活の後、地味に暮らしていた弟子たちに聖霊が降り、信仰が一変した出来事であった。聖霊を受けて、そこからキリストを伝道する歩みが始まったわけで、いわば教会の誕生日にも喩えられる事件である。
そのときの様子が、使徒言行録という書にレポートされている。書かれたのは半世紀ほども後のことらしいので、多少劇的に描かれているきらいはあるが、教会の歩みにとって大切な出来事であるし、教会の信仰を告白する内容でもあるから、価値のある記述であると言える。
いまでもキリスト教会では、この聖霊降臨の礼拝に於いて、このときの記録を振り返ることが多い。神秘的な現象の後、目撃した人に対して、弟子の筆頭ペトロが、このときの様子を説明する場面である。いま、その中で、旧約聖書のヨエル書を引用して、この現象が、以前から神が決めた出来事の実現であることを締めそうとするところに注目する。
神は言われる。/終わりの日に/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/若者は幻を見、老人は夢を見る。(使徒言行録2:17)
これは以前聞いていた説教から思い込んでいたことだが、老人はきっともう夢なんか見ないだろう、若者は夢を見るが幻は見ないだろう、だから普通起こらないことが起こっているのだ、というように私は考えていた。若者と老人の特質の違いをここで説明している、と理解していたのだ。
だが、いろいろ思っているうちに、そうではないのだ、というふうに気づき始めた。それは、聖書の表現の問題からである。いまは預言者ヨエルの時代に関わるものとして、旧約聖書だけをターゲットにしよう。そこで「幻」というのは、しばしば主がそこから人に向けて何かを語るためのメディアとされているのだ。アブラハムでもヤコブでも、主が幻の中から呼びかけて話をもちかけている。主は自ら、幻によって自らを示す、と言っている場面も多い。だから、全能者の与える幻を見る者が肯定されている。
ところがサムエルの頃、そういう幻が示されることが稀であったことが記されている。しかし、後の預言者の登場により、預言の書らしいものの題名に「幻」とつくものがあるのは確かである。そして、イザヤ書そのものは、見た幻がここに書かれている、という書であることが冒頭に宣言されているし、これがエゼキエル書になると、神の与えた幻はすべて実現するが、偽りの幻というものを、背信のイスラエルの中に見る様子も刻まれている。
これは、黙示的にどんどん走ってゆくダニエル書になると、「幻」は、預言者が見せられた神の秘密として、幾度も繰り返されるようになる。すると、新約聖書では「幻」は黙示録に多いのか、という気がするが、そうではない。新約聖書で「幻」という語が使われているのは、殆どが使徒言行録である。実にいろいろな弟子に、神は幻によって語りかけているのである。
では「夢」の方はどうだろうか。新約聖書では、「夢」は、ヨエル書のこの引用の他は、すべてマタイ伝である。ビラトの妻が夢でイエスの件で苦しめられたということのほかは、五箇所すべて、イエスの誕生と養育に関して父ヨセフに神が現れるときだけである。
旧約聖書では、特に「夢」の役割は大きい。ヤコブに現れた夢は強烈だったが、それにも増して、その子のヨセフの生涯を動かした夢の物語は、実にイスラエルの運命をも変えたのであった。ギデオンは、敵の見た夢の話を信じただけだが、初代イスラエル王サウルは、夢によって神の声を聞くことができなくなった、不運な大将であった。
ソロモンも、知恵を受けるときに夢で神のお告げを聞いている。しかし預言者エレミヤになると、夢は偽預言者を操るための罠であった。夢ではなく、直に神の言葉を聞く自分のような預言者こそ本物である、と主張するのであった。ゼカリヤもまた、その方面で軽く触れている。
それが再び、夢の復権を遂げるのが、ダニエルであった。これは夢の説き明かしということで、バビロンの王を手玉に取るような結果をもたらしていた。そしてヨエル書については、順番が使徒言行録とは違うが、かの箇所で「夢」と「幻」が登場していた。
その後/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。(ヨエル3:1)
このように、善かれ悪しかれ、幻や夢は、神から特別な人に神の言葉や意志を伝えるためのメディアであった。つまり、この対句に於いては、意味には基本的に差異はない。ユダヤ文学では普通に、対句の中で語を換えて、それでいて結局同じことを言っている、ということがなされるものである。幻も夢も、要するに神の言葉を取り次ぐ預言とて機能している。要するに、それは人間の言葉、人間の考えから生まれたものではない、ということである。
説教に於いても、幻と夢が語られるものと、そういったものが皆無なものとがある。神からのものが語られるものと、人間からの考えしか語れないものとの違いである。いくら表面上で、聖書の用語を使って尤もらしいことを話していても、分かる人には分かる。正にそれが分かるというのが、聖霊の業なのである。